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2009年04月30日

足りないくらいで、ちょうどいい

 房総鴨川の仕事部屋にいる。

 健康ランドの露天風呂に浸かると、鮮やかに色づいたノムラモミジを透かすようにして、晴天の青空が広がっている。

 至福のひと時である。

 明日は道場の稽古があるので帰る。

 滞在二日というあわただしさだ。
 もう少しゆっくりしていたいのだが、足りないからいいのだろう。

「及ばざるは過ぎたるよりまされり」
 という言葉が脳裡をよぎる。

 時間も、寿命も、楽しみも、足りないくらいでちょうどいいのだろう。

 何事も貪(むさぼ)らず、腹八分でとめるところに「本当の満足」があるのかもしれない。

投稿者 mukaidani : 16:20

2009年04月28日

病院の待合室で考えた

 昨日、親父を連れて大学病院へ行った。

 病気というのではなく、血圧の測定など月に1度、定期的に通っている。

 いつものように内科に行くと、連休前とあってか、大勢の患者さんが待っていた。

「Aさん、20番診察室にお入りください」
「Bさん、22番診察室にお入りください」

 医者が、ずらり並んだ診察室から、それぞれアナウンスする。

 高い声、低い声、噛みつくような口調、リズミカルな口調、蚊が泣くような小さな声……。

 そんな声を聞きながら、私は医者の顔をあれこれ想像しつつ、ヒマつぶしに、
(もし俺が診てもらうとしたら、何番の医者がいいかな)
 などと考える。

 口調というのは大事で、患者の名前を呼ぶ声やトーンによって、
(この医者には診てもらいたいな)
(ウーン、この医者はちょっと……)
 そんな気分になってくるのである。

 もちろん、アナウンスの口調と、医療技術の優劣は別だ。
 ぶっきらぼうなアナウンスであっても、患者にとっては、優秀な医者のほうがいいに決まっている。

 だが、アナウンスの声を聞いて、
(この医者には診てもらいたい)
 と感じるのと、
(この医者はちょっと……)
 と感じるのとでは、「信頼度」に大きな差が出てくる。

 医者への信頼度は、きっと治療効果にあらわれるに違いない。

 となれば、アナウンスもまた、医療技術に入るのではないだろうか。

(これは病院経営の意外な盲点ではないか)
 などと、退屈にまかせてあれこれ考えながら、午前中を病院で過ごしたのであった。

 

投稿者 mukaidani : 01:15

2009年04月24日

人生、それぞれ

 昨日、10日ぶりに畑に行った。

 前回行ったときに、ジャガイモの芽が出ていないことを、86歳の親父はしきりに気にして、
「今日、芽が出とらんかったら、今年のジャガイモはあきらめんにゃいけん」
 と、車の後部座席で悲観している。

「心配せんでも、芽は出とるじゃろう」
 私が何の根拠もないまま励ますと、助手席の女房も、
「大丈夫よ、お爺ちゃん」
 これまた何の根拠もなく追従し、重苦しい雰囲気のうちに畑に到着。

 と、どうだ。
 遠目にも、ジャガイモの葉っぱが青々と伸びているのがわかるではないか。
「おっ、出とるぞ!」
 86歳が歓喜の声を上げ、今日の畑仕事は張り切るまいことか。

 ナスやらピーマンやらトウガラシやらを植え終わって、
「これでひと雨くればええんじゃがのう」
 と、86歳が晴天の青空を見上げる。
 雨が続けば、「畑に行かれん」と怒るくせに、何と身勝手なことよ。

 帰宅し、テレビをつけると、草彅剛が公然ワイセツ罪で逮捕されたというニュースをやっていた。

 元タレントの清水由貴子さんの自殺について、続報もあった。

 草薙に何があったのか知らないが、強いストレスがあったとメディアが推測していた。

 清水さんは、母親の介護に疲れた末の自殺だろうと、これもメディアが伝えていた。

 我が家の86歳が、天気予報をテレビで見たらしく、
「週末は雨じゃ」
 と、うれしそうな顔をして私に告げにきた。

 人生、それぞれということか。

投稿者 mukaidani : 03:48

2009年04月22日

着物っていいもんですね

 奮発して、夏着物を一式そろえた。

 娘が孫を連れて遊びに来たので、これ幸いと自慢したら、
「どこへ着ていくのよ」
 冷ややかな視線で一瞥した。

 言われてみれば、どこへ着て行くわけでもない。

 いや、そもそもどうして着物を着始めたのかと言えば、この春先、『余白亭』という鰻屋のご主人に何枚か着物をもらったのがキッカケである。

 着物を着れば、懐中時計は当然、組紐である。
 組紐の先には当然、根付けである。
 帯も何本か欲しくなる。
 暖かくなれば単衣もいる。
 袖無し羽織だっている。
 そして夏にそなえて夏着物……。

 さらに、クルマの運転をするときはどうするか、用足しはどうするか。諸々を考えれば、水戸黄門さんが穿いている野袴がよさそうのなので、これも買わねばならない。

 弾みで、ちょっと着物を着てみただけなのに、いまやエライことになっているのである。

 それでも、今日など、さわやかな風が着物に心地よい。
「どうだ、お前もこれから着物にしろよ」
 並んで歩く女房に言うと、ジロリと私を睨んで、
「用事ばっかり押しつけておいて、着物なんか着てられますか!」
 うっかり余計なことを言って、怒らせてしまった。

 どうやら、私が着物を着てプラプラ歩いているのが、お気に召さないようである。
 これから着物を着て出かけるたびに、「ヒマ人」だの「遊び人」だのと嫌みを言うに違いない。
 新たな受難の始まりの予感がする今日この頃である。。

投稿者 mukaidani : 21:40

2009年04月20日

オリンピックは「プレゼント」だって?

 昨日は、国際オリンピック委員会(IOC)評価委のニュースが一日中、流れていた。

 プレゼンする日本側は、ヨイショの笑顔とモミ手。
 その姿を見ていて、
(なんだかなァ)
 という思いを抱いた。

 生活苦、雇用不安、年金危機……。100年に一度の経済危機と、オリンピック招致のお祭り騒ぎ。
 やっぱり、どこかヘンじゃないか?

 くわえて、
「2016年東京開催という、都民、国民への大きなプレゼントにまた一歩近づいた」
 という石原都知事のコメント。

「プレゼント」という言葉がクセ者で、
「私は自分の名誉のためにやっているんじゃない。都民や国民のために頑張っているんだ」
 と、さりげなくすり替え、アピールしているように私には聞こえるのである。

 
 

投稿者 mukaidani : 04:51

2009年04月17日

自分自身をシェアリングせよ

「サルは木から落ちてもサルだが、政治家は選挙に落ちればタダの人」
 これまで、そう思っていた。

 でも、違うのではないか、と最近は思うようになった。

 橋本徹(大阪府知事)、東国原(宮崎県知事)、石原慎太郎(東京都知事)、これに森田健作(千葉県知事)を加えてもいいだろう。
 彼らは、ホメられようが叩かれようが、話題になればなるほど名前があがり、選挙に落ちても決してタダの人にはならない。

 いや、タダの人どころか、その後の人生はバラ色だろう。
 橋本氏は人気弁護士に、石原氏は作家の大御所に、東国原、森田両氏はタレント業に講演業にと、それぞれ〝本業〟で引っ張りだこになる。

これが「兼業政治家」の強みで、「専業政治家」はそうはいかず、相変わらず選挙に落ちればタダの人になってしまうというわけである。

 この「兼業」という生き方は、私たちも大いにマネすべきではないか、と彼らを見ていて思うようになった。

 経済成長時代は〝この道ひと筋〟が美徳とされたが、大リストラの時代になってみれば、他につぶしがきかないということことでもある。

 ワークシェアリグという言葉が用いられるが、これからの時代は「自分自身においてワークシェアリング」をしておく必要があるだろう。
 リストラされたり、不景気でメシが食えなくなったら、すぐに次の仕事にチェンジしていくのだ。

 そう簡単ではないし、普段からそれなりに努力も必要だが、人生を楽しく生きていこうと思うなら、そうするしかないだろう。

 自分自身をシェアリングするなら、とりあえず趣味を持つのがいいように思う。
 それも、漫然と楽しむのではなく、本気で取り組むのだ。

 そうすれば、「芸は身を助けく」と言うがごどく、そこになんらかのチャンスが見いだせるだろう。

 価値観の多様化とは、要するに何でもありの時代であるということなのである。

投稿者 mukaidani : 15:37

2009年04月15日

「見るだけだよ」という心理術

「声を出して!」と、幼児たちの稽古時間に、私が声を張り上げる。

 そのときは彼らもでっかい声を出すのだが、すぐに厭きてきて、声が小さくなってくる。

 そこで、
「大きな声を出さないように! 館長の耳が痛くなるから」
 と、逆を言ってみた。
 館長とは私のことで、耳をふさぐジェスチャーをしながら言うのだ。

 すると、どうだ。
「オッス! オッス!」
 と、耳をつんざくような、でっかい気合い。

「おいおい、耳が痛いじゃないか! 大きな声を出さないように!」
 私が顔をしかめて見せると、幼児たちは顔を真っ赤にして、さらにでっかい声を張り上げて稽古するのである。

 あるいは、この時期になると、幼児や新一年生が入門してくる。
 物怖じしない子もいれば、泣き叫んで道場に入ってこない子もいる。
 親御さんにしてみれば、空手をやらせれば逞しくなってくれるだろうという思いで連れてくるのだが、当の子供がイヤだと泣き叫ぶのである。

 親御さんのなかには、子供を抱えて強引に道場に連れ込もうとする人もいるが、逆効果で、ますます抵抗し、暴れることになる。

 そんなとき、私はその子に言うのだ。
「入っておいで。そのかわり稽古しちゃだめだよ。見るだけ」
 これでたいてい、頷いて、道場に入ってくる。

 親子で見学しているうちに、これもたいてい親御さんが我が子に言う。
「ねっ。ちょっと、やってみたら」
 すると、子供は泣き出す。

 すかさず私が子供に言う。
「ダメダメ、見るだけだよ」
 子供は落ち着きを取り戻して、コクリと頷く。

 こんな調子で三回ほど見学しているうちに、子供はおずおずと準備体操の輪の中に入ってくるようになる。
 そして、こうして入門した子が、一年もすれば逞しく育っていくというわけである。

 ここまで書いて、ふと営業マンの常套句が脳裏をよぎった。
「どうぞ、ちょっとご覧になるだけでも」

 人間心理の何と危ういことか。

 ご用心、ご用心。

投稿者 mukaidani : 10:26

2009年04月12日

「100年に一度」という葵の御紋

 政府は経済対策に、どんどこ資金を投じている。

 お金はなくても、国債を発行すればいいのだから楽なものだ。

 税財政改革など、どこ吹く風で、批判でもしようものなら、
「頭が高い! 100年に一度の経済危機じゃ!」

「100年に一度」が葵(あおい)の御紋になっているのである。

 なるほど、大不況である。
 だけど、誰がこの大不景気を引き起こしたのだ?

 アメリカのサブプラム問題がどうとか言っているが、私たちの与り知らぬことではないか。

 フツーに仕事をし、フツーに暮らしていたら、突然、「100年に一度の経済危機」と言われても、困ってしまうのである。

 いま明け方の4時30分。
 ちょうど一冊書き上げたところ。

「100年に一度」というフレーズの正体を見極めようと思ったのだが、疲れた頭では、ちと無理か。

 風呂に入って寝よう。


投稿者 mukaidani : 04:44

2009年04月07日

新学期の空手道場

 新学期が始まった。

 この時期の子供たちを見るのを、私は楽しみにしている。

 新2年生は、道場で一つ上のクラスに上がるため、先日まで幼児・1年生のクラスで稽古していた子供たちが、上級生に混じって緊張した面持ちで頑張っている。

 幼児・1年生のクラスにいるときは気がつかないもので、ずいぶん成長していることに驚かされる。

 たとえて言うなら、水槽で飼っていた小亀を、おっかなびっくりで海に放ってみたら、いっちょまえに泳ぎ始めたような気分である。

 幼児だった子は新1年生となり、幼児・1年生のクラスを引っ張る立場だ。
「大丈夫か!」
 と、きくと、
「オッス!」
 と、元気だが、舌足らずな声で応える。

 どこまでの自覚があるのかわからないが、この〝小亀たち〟も、1年がたてば海で泳げるまでに成長する。

 成果をあせらず、じっくり見守ってやれるかどうか。
 さりとて、途中でやめさせたのでは何にもならない。
 継続させ、継続は力であることを教えるのが、私の役目だと気を引き締めるのである。

 勉強も、他の習い事も同じで継続が大事だ。
 たとえ成績という形で成果が出なくても、継続したという自信は、必ず人生に大きく役立つだろう。

〝小亀たち〟を厭きさせず、挫折させず、いかに継続させるか。
 私の力量だけでなく、親御さんの力量もまた問われるのだ。

投稿者 mukaidani : 04:25

2009年04月04日

サンパウロ新聞にエッセイの連載

 本日から、サンパウロ新聞で、私の連載エッセイが週一のペースで始まった。

 同紙は、ブラジルのサンパウロ市で発行されている日本語の日刊新聞だ。
 1946年の発刊で、1977年には、ブラジルにおける日系報道機関としての活動実績が評価され、「第25回菊池寛賞」を受賞するなど、日系社会にとって不可欠の新聞である。

 同紙の編集局長と私は旧知で、この3月、彼が休暇で帰国たおり、雑談していて連載エッセイの話になったというわけだ。

 テーマは、ブラジルに移住した日系人の励みになるようなものを書いて欲しいとのことで、エッセイのタイトルは『新人生訓』になった。

 日系三世ともなると、日本語が通じないため孫との会話がうまくいかず、寂しい思いをしている移民世代もいるそうで、
(私の人生は、これでよかったのだろうか)
 と懐疑を抱く人もいるのだという。
 
 そんな人を含めて、読者が充実した人生を歩むヒントにでもなれば、ということで連載を始めたわけである。

「新人生訓」など、大仰なタイトルだが、私が月刊のウェブマガジン『高齢社会ジャーナル』で連載しているのは、タイトルが「人生の要諦」である。

 人生訓だの要諦だの、えらそうなことを言える立場ではないが、自問自答しながら何とか書き進めている。

 文章を書くというのは、人に向かってメッセージを発しているように見えて、実は自分に語りかけているのだ。

 となれば、自分ではまもなく人生をリタイアするつもりでいるが、人生訓や要諦に興味があるということは、まだまだリタイアしないということなのだろうか。

 そんなことを考えながら、「生きる」ということについて、あれこれ思いをめぐらせているのである。

投稿者 mukaidani : 21:08

2009年04月03日

平和と、惰眠と、北朝鮮のミサイル

 日本が〝人工衛星ロケット〟を迎撃すると聞いて、北朝鮮が〝宣戦予告〟をした。

 非常事態にしては、メディアも国民も、あまりに緊張感に欠けてはいまいか。
 野球だ、アイススケートだ、サッカーだと連日お祭り騒ぎ。加えて、お笑い番組が相変わらずにぎやかだ。

 これも、戦後60余年という〝平和ボケ〟のなさせるわざなのだろうか。

 ソ連が崩壊したときも、あれよあれよという感じだった。
 中国が共産主義を捨て、自由主義に舵を切ったときも、あれよあれよという感じだった。
 歴史は、私たちがそうと意識しないうちに、深く静かに大転換をしていくのだ。

 その兆候が、今度の危機にあると私は感じている。

 100年に一度といわれる世界大不況のさなかに、北朝鮮と戦争になれば、日本はどうなるのだろう。戦争に至らずとも、一触即発の危機になれば、再軍備の世論がわき起こるのは必至だ。

 空に戦闘機の編隊、陸に戦車隊、海に艦隊となれば、エコなど吹っ飛んでしまうだろう。
 いま日本は、そういう危機に直面しているのだ。

 以前、このブログで、鳥取県の公立小学校では、
《「差別」の観点から、運動会の徒競走は全員が同時にゴールできるように、走るのが遅い子供に対しては、コースをショートカットしたり、スタートラインを他の生徒より前にしたりする学校もある》
 と、揶揄した。

 いまの日本は、そういう国なのだ。

 それを平和と考えるか、惰眠をむさぼっていると考えるか。

 国対国の戦争、テロとの戦い、そして内戦。

 世界の多くの国が血を流している。

 徒競走がニュースになり、それに賛否の声があがるのは日本くらいのものだろう。

 北朝鮮のアクションによっては、私たちの価値観は一変するのだ。
 

投稿者 mukaidani : 03:38