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2009年03月31日

人生「2割増し」という処世術

「男性の4割が、女性の〝すっぴん〟にガッカリ」
 という調査記事を見つけて、考えさせられた。

 自分をより美しく見せようとするのは人情であり、悪いことではない。
 ところが、その努力ゆえにガッカリさせるのだから、何とも皮肉なことである。

 さりとて、スッピンで勝負できればいいが、そうでない女性もいるだろう。
 だから化粧をし、化粧するがゆえに、スッピンを見て男性が仰天する。〝負のスパイラル〟である。

 これは容姿に限るまい。
 素直で、やさしい女性だと思って結婚したら、これがとんでもない女だった、ということも世間ではよく聞く話だ。心の化粧に幻惑され、スッピンの心を見てびっくり仰天するわけである。

 だが、これも、
「私は浪費家で、気が強くて、だらしない女です」
 と、スッピンの心を見せたら、男はとっくに逃げ出しているだろう。
 男についても同様である。

 こうしてみると、「化粧」と「素顔」の関係は、実に難題ということになる。

 ならば、どうすればいいか。

 顔も心も化粧は「2割増し」ということでどうか。

 10のものは12に見せればよい。

 1割だと素顔と大差ないが、3割だとかなり変わってくる。4割を超えれば、「大バケ」である。

 だから2割でちょうどいい。

 もし2割で〝追っつかない〟としても、素顔をさらしたときのリスクを考えれば、〝2割増し〟で頑張るしかないだろう。無理すると、結局、自分が苦しむのである。

 人生も同じことが言える。
 ホラも2割増し。
 たてまえも2割増し。
 お世辞も2割増し。
 欲も2割増し。
 ついでに、努力も2割増し。

 そうすれば人生は、たぶん楽に生きていけるように思うのである。

投稿者 mukaidani : 13:24

2009年03月28日

「量」より「質」の人生

 中川翔子さんのブログ更新回数が、1日100回を達成したというニュースを見て、思わず唸った。

 回数の多さにではない。
 こういうことがニュースになる、というメディアの価値観に唸ったのである。

 唸りながら、つらつら考えてみると、どうやら現代は「量を誇る時代」のようである。

 お金持ちから大食いチャンピオン、ブログの更新回数まで、他人より「過多」であることが称賛されている。

 だが、かつて日本は、節約とか倹(つま)しさ、節度など「過小」であることが美徳とされ、「過多」は貪(むさぼ)りとして蔑(さげす)まれたものだった。

「過多」と「過小」の是非は別として、なぜ「質」でなく「量」に価値判断を置くのだろうか。

 ここに本質を見誤る原因があるように思う。

 たとえば人間の幸・不幸は、長寿という「量」でなく、人生の「質」によって決まる。

 国が真の意味で豊であるかどうかは、GDP(国内総生産)という「量」ではなく、社会福祉など実生活における「質」で決まる。

 すべては「量」より「質」が大事なのだ。

 ところが、ボーダレスや地球規模、スケールメリットという言葉に幻惑され、「大きいことは、いいことだ」と私たちは錯覚してはいまいか。

 胡蝶蘭のハデさはなくとも、道ばたに咲く可憐な花を美しいと感じるような人生でありたいと、翔子さんのブログ更新記録のニュースを読んで、ふと思うのである。
 

投稿者 mukaidani : 23:11

2009年03月26日

「予定」は自分の勝手な都合

 急に思いたって、昨夜遅く、鴨川の仕事部屋にやってきた。
 単行本の原稿が遅れているので、日帰り温泉である粟斗温泉へ行って一挙に挽回するつもりだった。

 ところが、家を出る直前、某出版社から電話。
「明日の夕方5時までに書いて欲しい原稿がある」
 とのこと。

 この出版社には義理があり、SOSでもあり、考えるより先に、
「いいですよ」
 と返事をしてしまった。
 私の悪いクセだが、OKした以上は書かねばならぬ。

 ファックスで送られてきたデータを持って夜遅く、仕事部屋にやってきたというわけである。

 で、翌朝。
 粟斗温泉にバソコン持参で出かけ、予約していた部屋で原稿を書き始めた。

 ところが、これが難物で、四苦八苦。
 何とか夕方5時に間に合わせてメールで送稿したのだが、結局、温泉にはザブンと1回浸かっただけ。
 いったい何しに来たのかと首をひねりつつ、追い込むはずだった原稿のほうは手つかずのまま、明日は帰宅するのである。

「予定」など、自分が、自分の都合で決めたことなのだ。
 狂って当たり前であることを、改めて再認識した次第。
 予定を立てるときは、いつ突発事態が起きてもいいように、次善の手を頭に入れておくべきであると、これは老婆心まで。

投稿者 mukaidani : 20:48

2009年03月25日

WBCで考えた「スーパースター」

 WBC決勝戦で、イチローが見せ場をつくった。

 打撃不振でジャパンの足を引っ張っていたイチローが、周知のように延長戦で決勝打を放ったのである。

 これで、
「さすがイチロー!」
 ということになるのだが、当のイチローも、
「最後に、おいしいところだけいただきました。ごちそうさまでした」
 とユーモラスなコメントをしている。

 野球に限らず、スーパースターというのは、ここ一番という「おいしい場面」が回ってくるようになっていて、それを見事にモノにする。

 だから名声はますます高まっていくというわけだが、私たち凡庸な人間は、「ここ一番」の場面が回ってくると、緊張から足がすくむ。

「ここ一番」の場面は、ヒーローになる絶好のチャンスでありながら、
(ヤバイなァ。失敗したらどうしよう)
 と、ネガティブにとらえ、不安な思いが先に立ってしまう。
 だから凡打になってしまうのだ。

 スーパースターは違うのではないか。
 緊張はもちろんするだろうが、
(チャンスだ!)
 とポジティブに奮い立ち、前向きに勝負を挑んでいくのだと思う。
 だから成功し、名声はさらに高まるということになる。

 私もいろんな席でスピーチを頼まれる。
 気が重いものだ。
 だが、それはネガティブな発想かもしれない。
 ここは、
(自分を知ってもらうチャンスだ)
 とポジティブに考えれば、イヤイヤ気分にならなくてすむに違いない。

 そういえば、私は空手の試合で選手を送り出すとき、
「勝たなくてもいい。思い切り攻めて、名前を売ってこい」
 と言う。

 選手に告げる言葉が、実はそっくり自分に返ってくるのだということを、WBCを見て思ったのである。

投稿者 mukaidani : 15:03

2009年03月23日

あわただしく沖縄へ

 審査会の翌日、あわただしく沖縄へ発った。

 首里にある文武館総本部道場で、古武道の稽古だ。

 3年ほど前から、沖縄県古武道連盟主催の大会で、棒対棒の組手試合が行われており、その稽古のために出かけたのである。

 ここしばらく沖縄はご無沙汰していて、10ヶ月ぶりだろうか。
 着いた夜に友人と会って食事をし、日曜日は頑張って朝9時から午後2時まで稽古し、ホテルへ帰って原稿書き。飛行機で寝ればいいと、結局、徹夜してしまった。

 3月は北海道の網走と沖縄へ行ったことになる。

 雪の網走と、Tシャツの沖縄。

 これまで寒さは大嫌いで、住むなら暖かいところと思ってきたが、久しぶりに沖縄へ行ってみて、暑いことが苦手になっている自分に気がついた。

 年のせいかもしれない。

「人間は変わる」
 ということを身にしみて感じる。

 何事も決めつけることはよくないな、と、そんなことを沖縄で考えた。

投稿者 mukaidani : 19:01

2009年03月20日

今日は道場の審査会

 今日は、私の空手道場の段級審査会だった。

 審査会は春秋年2回の実施だが、上達の早い子もいれば、そうでない子もいる。

 小学生も5、6年生になると、自分の技量がある程度はわかっているが、それ以下の学年になると、自分が上手か下手かわかっていない子もいる。
 しかも、そんな子に限って出席率は精勤賞もので、「原級据え置き」なんてことになれば、
「どうして?」
 と、子供たちの心が傷つくことになる。

 だから審査員たちは、昇級させるかどうか、苦慮するというわけである。

 ならば、かたいこと言わないで、バンバン昇級させればいいようなものだが、一つずつ昇級していけば、いずれ黒帯になる。黒帯になったときに相応の実力が備わってなくて、緑帯クラスに負けたりすると、試合に出るのはもちろん、稽古に来るのもイヤになってしまう。

 黒帯になったがゆえに、空手が嫌いになるのである。

 だから、バンバン昇級させるのは結局、子供たちを苦しめることになるのだが、さりとて、
「キミたちのためを思って、今回の審査は不合格」
 なんて言っても、理解はできまい。

 低学年の女の子なんか、
「受かったかどうか心配で、夜、寝られないかもしれない」
 と、私に訴えて帰って行ったのである。

 さて、どうしたものか。

 いま、審査員たちが判定した審査一覧表を眺めながら、
(今回は落としたほうが本人のためかな。いや、仮進級にしようか。いやいや「地位が人間をつくる」という格言もあるしなァ)
 どの子も可愛く、どうしたものか思いは千々に乱れ、最終決定について頭を悩ませているというわけである。

投稿者 mukaidani : 20:45

2009年03月17日

「自分を手玉に取る」という生き方

 今朝、久しぶりに畑に出かけた。

 「ありゃ、芽が出とらんでぇ」
 指南役の親父が、畑をのぞきこんでボヤいた。
 ジャガイモの芽が出ているかと期待して行ったが、寒さのせいか、まだ芽は出ていなかったのである。

 収穫担当の愚妻は、芽が出てもいないジャガイモなど目もくれず、そそくさとホウレンソウの収穫にかかっている。

 畑は、ジャガイモの芽の変わりに、草がしっかりと生えている。
 草引きは私の担当である。

 さっそくクワを振るうが、たちまち汗びっしょり。
 しかも、草は一面にびっしりである。
(楽しみで始めた畑なのに、なんのこっちゃ)
 ウンザリしたところで、
(そうか)
 と、思い直した。

 全部の草を引こうと思うからウンザリするのだ。
 そうではなく、
(少しでいいんだ。今日のぶんだけ草を引けばいい。やらないよりは、やったほうがいい)
 そう思えばいいのではないか、と気がついたのである。

 私の人生観である「ベスト」より「ベター」である。

 すると、草引きが楽になった。
(もうちょっと取るか)
 と、今度は進んでやるようになった。

 同じ作業であっても、ノルマの意識から解放されると、人間は楽しんでやるということがよくわかるのである。

 他人をだますことを「手玉に取る」というが、私の場合、「自分」を手玉に取るのだ。

 そして、自分を手玉に取ることができれば、「自分の人生」を手玉に取ることができる。

 これぞ、楽に生きる方法ではないか、と畑でハタと考えたのである。
   

投稿者 mukaidani : 16:32

2009年03月14日

企画の持ち込みはストリップショーの要領で

 昨日、知人の紹介で若手の女性ライターとお茶を飲んだ。

 数誌で仕事をしており、それなりに活躍する中堅ライターである。

 その彼女が、
「A社に出版の企画書を出して3ヶ月になるんですが、どうなったか問い合わせたほうがいいでしょうか」
 と私に相談する。

 督促するようで、編集者が気分を害さないだろうか、と危惧しているのである。

「そんなの、放っておけば」
 私は即座に答えた。

 3ヶ月も返事がないのはボツに決まっているが、それより何より、私の経験から言えば、企画書を求められた時点で、編集者は「テーマにさして興味がありません」と言っているのと同じなのである。

「こんなテーマ、どうでしょうか」
「ウーン。じゃ、企画書にしてみてくれますか」
 これは婉曲なノーで、その気になってせっせと企画書を書いて渡しても、たいていボツなのである。

 反対に、編集者に興味があれば、
「さっそく来週の社内会議にかけますので、GOになった場合は……」
 即、実務的な話しになって、企画書は社内用に編集者が書くのである。

 そんな話をすると、彼女がガッカリした顔をしたので、
「だから、企画を持ち込むというのはストリップショーと一緒でね。まず、全部を見せてはダメ。お客さんの反応を見ながら、お客さんの興味を喚起しながら、衣服を一枚ずつ脱いでいくもんなんだ。わかるだろう?」
「わかりません! わたし、ストリップなんか見たことありませんから!」

 なぐさめるつもりで言ったのだが、たとえがよくなかったようで、彼女、プリプリ怒って席を立ってしまったのである。

「おまえの話はわかりやすくていいんだが、ちょっとデリカシーに欠けるんじゃないか」
 友人はやんわりと私に諭したのである。
 

投稿者 mukaidani : 15:44

2009年03月11日

声がかすれて「誤解だ、誤解!」

 朝起きたら、声が出なくなっていた。

 風邪だろうか。

 いや、冬場にホテルに泊まると、部屋が暖房で乾燥しているため、よくノドをやられる。
 網走のホテルへ泊まってからノドの調子が悪かったから、そのせいかもしれないが、明日は中学校の卒業式に招かれている。
 もし風邪だったら、みんなに迷惑をかける。

 で、私は欠席することにして、それを伝えようと学校に電話した。

 電話に出た女性教諭の声が、にわかに緊張する。

 私が低く、かすれた声で、
「もしもし……」
 とやるものだから、妙な電話と勘違いされたかもしれない。

 私はあわてた。
(誤解だ、誤解!)
 弁解がましく早口で話そうとするものだから、よけい言葉が出てこない。
 女性教諭の声がますます固くなって、
「あのう、いま教頭が席を外しておりまして……」

 ま、そんなこんなで、やっとこさ事情を説明すると、女性教諭は明るい声で、
「承知しました、お大事に!」

 以前、私は終電近い電車で痴漢を見つけ、
「オラッ!」
 と注意したことがあるが、このときも乗客に誤解され、私がカラんでいるように見え、遠巻きにされてしまった。
「いや、あいつが痴漢で……」
 と〝弁解〟するが、誰も聞く耳はもたなかった。そのあいだに電車はホームに着き、痴漢はそそくさと逃げていった。

 私はめったに電車には乗らないのだが、混雑した電車に乗るときは、
(痴漢と間違われたらどうしよう)
 と、ことのほか緊張するのである。
 

投稿者 mukaidani : 19:55

2009年03月09日

北海道の網走にて

 受刑者に面接するため、網走刑務所へ行ってきた。

 保護司の仕事の一環で、これを施設面接と言い、必要に応じて各地の刑務所へ出向く。

 網走へ行くのは初めてだが、羽田から女満別まで飛行機で2時間足らず。空港から市内まで30分ほどだ。ずいぶん遠いイメージがあったが、近いものだ。

 しかし、刑務所の高い塀の向こうは、あまりに〝遠い世界〟だった。

 刑務所から空港に向かう帰途、熟年夫婦とバスに乗り合わせた。
 奥さんが、ご主人の肩に頭を預けながら、ふたりして窓の一面に広がる雪景色を眺めている。

 幸せそうなひとコマだった。

 刑務所で面会を終えた受刑者の家族もまた、バスの車窓から、この同じ雪景色を目にしながら帰って行くのだろう。

(生きていくというのは、しんどいことだな)
 唐突に、そんな思いがよぎった。

投稿者 mukaidani : 22:45

2009年03月07日

「我がままの時代」の予感

 就職氷河期だそうだ。

 私の身近にも、現時点で7社受けて全滅という大学生もいる。

「心配すんな。どっかあんだろう」
 正月明けのころは私も軽口を叩き、大学生クンも笑っていたのだが、いまは深刻な顔で、
「就職できないんじゃないかって不安です」
 とこぼしていた。

 考えてみれば、ついこの間まで、若手社員の定着率に企業は頭を悩ませていた。雇っても、すぐに辞めてしまうからだ。

 実際、いかにすれば社員が辞めないで長く働いてくれるか、といった雑誌特集や書籍がたくさん刊行された。

 それがわずか一年で、就職氷河期なのである。
 いかに「世相」が刹那的で、うつろいやすく、アテにならないかがわかるだろう。

 ついでに記せば、私が学生だった30余年前は「年功序列・終身雇用」という日本の雇用形態が批判されていた。

 経営サイドからすれば、
「そんな、ぬるま湯のような企業経営で国際競争に勝てるか」
 ということであり、従業員サイドからすれば、
「年功にしばられず、アメリカ企業のように実力次第でどんどん出世できたらいいな」
 というものであり、
「一生、会社にしばりつけられるのはイヤだ。転職するたびにキャリアアップしていくアメリカ企業がうらやましい」
 と、そんな気持ちを抱いていた。

 まともに就職したことのない私が言うのもおこがましいが、「年功序列・終身雇用」は旧態依然とした日本の企業風土だろうと、若かった当時は思ったものだった。

 だが、それは高度経済成長下での話なのだ。
 経済がイケイケで収入が増えていた当時、
「何をやったってメシは食っていける」
 と楽観もし、鼻息も荒かった。

 だから「年功序列・終身雇用」を〝足かせ〟と、うとましく感じたのである。

 ところが、どうだ。
 ひとたび大不況を迎えるや、
「クビを切るな」
「会社は冷たい」
 と批判し、かつて否定したはずの「終身雇用制」は、実は素晴らしかったのではないかという価値観に変わりつつある。

 つまり、「時代」という背景によって、価値観は変わるどころか、逆転さえするということなのだ。

 だから、世相や時代の雰囲気に惑わされてはいけない。
 我が道をいくのだ。
 他人に迷惑をかけなさえしなければ、自分が生きたいように生きればいいのだ。

 そんなことをつらつら考えていると、「我がままであれ」という時代が、これから始まるような予感がしてくる。

「自分の人生をどう生きたいのか」ということをつきつめて考えていけば、世相に背を向けることにもなるだろう。「我がまま」になっていくのは当然だと、私は思うのである。

 

投稿者 mukaidani : 12:57

2009年03月05日

思い込みという〝落とし穴〟

 今朝、風呂であれこれ考え事をしていて長湯をしてしまった。

 書きかけの原稿があったが、続きは電車で書こうと、ミニノートパソコンを持って家を出た。

 たいていクルマで出かけるのだが、仕事が切羽詰まっているときは、電車にする。自宅のある千葉の佐倉市から都内各所まで1時間以上かかるので、昼前のすいている電車に乗れば、原稿を書いたりゲラを直したりできるので重宝なのである。

 で、電車に乗り、端っこの席に座ってミニノートを取り出し、原稿を打ち始めた。
 3駅目で、ドヤドヤと大勢の人が乗り込んできて、私のそばに赤ちゃんを抱いた若いお母さんが立ったのである。

 私はミニノートのカバーを閉じて、席をゆずった。
 先日、このブログでご紹介したように、お婆さんに席を譲ろうとして断られたことが脳裏をよぎったが、今回の若いお母さんは恐縮しつつ、喜んで座ってくれた。

 それはいいのだが、原稿が書けない。
 しかも、なるべく時間を多く取ろうと各駅停車に乗っていたのだ。

 ゴトゴトと揺られながら、
(こんなことならクルマにすればよかった)
 と後悔しつつも、「電車で原稿が書ける」というのは、私の勝手な思いこみであったことに改めて気づいた。

 いつもこの時間帯は電車がすいているからといって、座れるとは限らないではないか。「不確かなこと」を「確定」のごとく思いこむことの、なんと愚かなことであうか、と反省したのである。

 連日、民主党の小沢問題が報じられている。

 解散総選挙になれば、民主党の圧勝と言われてきたが、「政権に手が届く」と「手が届いた」では天と地ほどの差があるのだ。

「自民党を解散に追い込めば勝つ」
 というのは、「不確かなこと」であって「確定」ではない。「思い込み」なのである。

 そのことに民主党議員の何人が思い至っていたろうか。

 民主党は、小沢代表と西松建設の一件で〝落とし穴〟に落ちた。
 果たしてこの穴は、浅いか深いか。

 もし、深い穴に落ちて這い上がれなかったとしたら、「思い込み」には何の意味もなかったことになる。

 失敗の原因の多くは、「不確かなもの」を「確かなもの」と錯覚することにあるのだ。

投稿者 mukaidani : 23:41

2009年03月04日

小沢代表の居直りで考える「人生の実相」

 民主党の小沢一郎代表の公設第1秘書が逮捕された。

 周知のように小沢代表は、記者会見で謝罪は一切なく、捜査を非難する強気の言葉に終始した。

「総選挙が取りざたされているこの時期において、非常に政治的にも法律的にも不公正な国家権力の行使と感じている」

「こじつけたような理由で検察権力の発動は非常に公正を欠くと思う」

「何度も何度も申し上げたように、何らやましいことはない。今おわびする理由は見あたらない」

 そう語り、検察当局と真っ向から対決する姿勢を前面に出した。

 当然だろうと私は思う。

 総選挙は近いのだから、ゴメンナサイと謝ったたのでは、民主党は大きなマイナスになる。ここは「潔白」を頑強に貫いて選挙に突入し、政権を取ったのち、進退の幕引きにかかるのではないだろうか。

 しかも、自民党に逮捕者が出れば〝お互いさま〟。

 何事もそうだが、ゴメンナサイと言ったのでは非を認めたことになり、勝負は負け。

 たとえ非があろうとも「潔白」を主張し、起訴されて有罪になったとしても、なおも「潔白」を主張し続ければ、
(ひょっとして、あいつ、潔白じゃないの?)
 という〝揺れ戻し〟もあるのだ。

「潔(いさぎよ)さ」は日本人の美徳だが、「潔さ」を相手が振りかざすときは要注意。非を認めさせようとするときの常套句なのだ。

「なあ、おまえ、この期(ご)におよんでごちゃごちゃ言うのはみっともないでェ。ここはひとつ、潔よう認めて男になったらどや」
「わかった。わしがやったんや、わしが悪かったんや」
「よっしゃ。これにて一件落着」
「で、わしはどうなるんや?」
「そんなこと知るか」

 これが世間なのである。

投稿者 mukaidani : 21:50