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2009年02月28日

フンドシで悟った「人生観」

 人生は「ベスト」をめざすのではなく、「ベター」で十分とすべし。

 完璧を望むのは「欲」であり「執着」であり、「ベスト」であろうとするところに苦しみが生まれる。

 とまァ、『良寛』の「清貧の生き方」を書いていて、そんなことをつくづく思ったのだが、そう思いつつも、「完璧」をめざして執着している自分に気がついた。

 通販でフンドシを買ったのである。

 このところ着物が気に入ってよく着ているのだが、〝和風〟ならフンドシであるべきだろう。ブリーフでは〝和洋折衷〟になってしまうではないか。

 そう思うと、ブリーフもデカパンも何だか身体になじまないような気がしてきて落ち着かず、フンドシを買ったというわけである。

 穿(は)いてみると、これが爽快なのだ。
 爽快すぎて頼りなく、
(やっぱりブリーフかなァ)
 という後悔の念と、
(いや、大和男の子はフンドシだ)
 という思いがせめぎ合いつつ、「完璧」を目指すのは苦しみの元であることを、身をもって体験しているというわけである。

 たかがフンドシと笑うなかれ。
 フンドシを穿いてみて、私は完璧を目指すことの愚かさを、しかと確信したのである。

投稿者 mukaidani : 12:29

2009年02月26日

電車でお婆さんに席を譲る

 携帯コミック連載の原作を書くので、昨日、漫画編集者と打ち合わせをした。

 具体的な内容についてはこれから詰めていくが、いわば顔合わせの打ち合わせで、携帯コミックの現状についてレクチャーを受けた。

 私にとって意外だったのは、読者の6割は女性なのだそうだ。女性が、男性向けの劇画雑誌を店頭で買って読むのは抵抗があるため、携帯コミックで楽しんでいるのではないか、というのが分析の一つであった。

 携帯コミックが漫画界にどれほど影響をおよぼしているのかは知らないが、一部をのぞいて漫画雑誌が軒並み不調ということから、時代は確実に変化しつつあるということか。

 とは言うものの、私は携帯コミックを知らないのだ。

 見たことも、読んだこともない。

 そもそも私の携帯電話は、インターネットサービスを申し込んでいないのだ。携帯コミックを読むどころか、Eメールもできない。いや、しないのである。

 なぜかと言うと、電車内で、達人の指さばきでメールを打っている人を見ると、
(ヒマだなァ。メールばっかり打ってるんだろうなァ)
 と、私にはカッコ悪く見えるのだ。

 だから、
(わしは、あんなマネはせんぞ)
 というわけで、インターネットを申し込んでいないというわけである。

 それに、仕事場でも自宅でパソコンは点けっぱなしにしてあるので、メールの送受信はリアルタイムで行っており、不便はないのだ。

 だが、携帯コミックの仕事をするようになると、携帯をあなどれなくなる。
〝指さばきの達人〟たちは、ひょっとして大事なお客さんかもしれないのだ。

(ヒマだなァ。メールばっかり打ってるんだろうなァ)
 なんて、口が裂けても言えなくなるではないか。

 そんなことを考えながら電車に乗っていると、途中の駅でお婆さんが乗ってきた。
「どうぞ」
 私が席を立って譲ると、
「いえ、結構です」
 と断られてしまった。

 こういうシチュエーションは、実に困るのである。
「そうですか」
 と、あっさり腰を席にもどすわけにはいかない。
 お婆さんは遠慮しているかもしれないからだ。

 で、すでに立ち上がっている私は、
「どうぞ、どうぞ」
 と勧めてみたのだが、
「いえ、本当に結構ですから」
 相手も頑として断るので、
「そうですか」
 と、私は再び腰を下ろしたのだが、何となく後味が悪いような気分だった。

 電車内で、目の前に老人が立っているのに、壮健な男が席に座っていると、
(あの野郎、席を譲ってやればいいのに)
 と腹立たしく思う。

 さりとて、私のように席を譲ろうとして断られると、これも気分がいいものではない。
 勝手な〝親切〟だが、人間の感情とはそうしたものだ。

 で、考えた。

 人の親切は、たとえ迷惑であっても、ありがたく受けるべきだ、と。

 相手の「行為」をありがたく思うのでなく、親切にしようとする、その「心」にお礼を言うのだ。

 帰宅して、愚妻にその話をすると、
「お婆さん、あなたと関わりあいになるのがイヤだったんじゃないの」
 しらっと言った。

 作務衣を着て、スキンヘッドに色つきメガネ。
 妙な男と思われたことが原因だとしたら、私の「親切論」は根底からくつがえることになるではないか。

 さて、このことをどう考えたらいいものか。
 思いは千々に乱れるのであった。

投稿者 mukaidani : 14:45

2009年02月25日

小渕優子少子化担当相の妊娠に思う

 知人が借金を申し込まれた。

 息子が大学へ進学するため、費用の一部にあてるというのが借金の理由だった。

 で、知人が尋ねた。
「お宅の息子、急に成長したのか?」
「えっ?」
「3歳のガキが、いきなり18になったのかと聞いてるんだ」
「そんなバカな」
 借金を申し込んだ男が笑った。

「そうだろう?」
 知人が険しい顔で、
「オギャーッと生まれたときから、大学進学の年齢は18歳と決まっているんだ。決まってるものを、どうしてこれまで準備していないんだ」
「そ、それは……」

 知人は借金を断った。
 病気をしたとか、突発的なアクシデントで金がいるなら用立てる。だが、進学費用がいるかもしれないということは、18年前からわかっていることであり、その準備をしないでおいて、人から借りようなど無責任である、というのが断った理由だった。

 それと同様なのが、少子化の問題である。
 少子化をこのまま放置すれば、日本の将来に深刻な事態をもたらすだろう。

 出生率を上げるのは緊急課題だとして、小渕優子議員を少子化担当相として、政府はこの問題に取り組んでいる。

 いや、取り組んでいるものと私は思っていたら、現在、認可保育園に空きがなく待機している児童が全国で二万人もいると言うではないか。

 保育園に預けられず、共働きができないとなれば、誰が子供をつくるだろうか。少子高齢化は、昨日今日の問題ではなく、はるか以前からわかっていることなのだ。これまで放置しておいてた自民党の責任は重い。

 その一方で定額給付金などというバラマキをやろうとしている。バカなことはやめて、保育園をつくれば、それが日本の活力になっていくのだ。

 腹立ちついでに書いておけば、小渕優子少子化担当相が、現職閣僚として初めて妊娠したそうな。

 ノビ太君のような顔をした河村官房長官は記者会見でこのことにふれ、
「大変結構なことだ。少子化対策をしている閣僚としても素晴らしい。気をつけて頑張ってほしい」
 と祝福したと語り、
「(産休について)状況によって考えなければならない課題だ。お手本になってもらいたい」
 と述べた。

 こういうのをノー天気というのだ。

 子供を保育得園に預けることができないため、働けず、生活不安に苦しんでいる若いお母さんがたくさんいるのだ。予備軍を含めれば、膨大な人数になるだろう。

 少子化担当相が子づくりに励むのも結構だが、もっとほかやるべきことがあるのではないか、と嫌味の一つも言いたくなる。

 自民党は、もはや政権与党として国政の舵を取る能力も見識もないのだ。

投稿者 mukaidani : 06:04

2009年02月22日

運不運は我が掌中にあり

 驚いて、唸った。
22歳の会社員が、新大阪駅に入線してきた新幹線にホームから飛び込み自殺を図ったものの、先端部分に跳ね上げられて車両の屋根に〝着地〟。命に別状はないと、今日のニュースで報じている。

 これは《幸運》であるのか、《不運》であるのか、私は唸ったのである。

 死のうと思ったのに死ねなかった、ということにおいては《不運》だろうし、一時の気の迷いから自殺を図ったということになれば、たぶん、これは《幸運》ということになるのだろう。

 あるいは、本人の意志はどうあれ、必ず死ぬだろうという局面において命が助かったということは、絶対値において《幸運》と言っていいだろう。

 だが、
「ラッキー!」
 と感嘆される一方で、
「でも、オレは死にたかった」
 と当人が悲しんでいるとしたら、《幸運》の当事者はいないということになる。

 すなわち、概念的な《運不運》と、当事者にとってのそれとは、必ずしも同じではないということになる。

 みんなが口をそろえて、
「おまえ、運がいいな」
 と言ってくれても、本人がそう思っていなければ、それは幸運でも何でもないし、逆もまた同様なのである。

 ということは、
「幸運も不運も、すべて我が掌中にあり」
 ということになる。

 だから、幸運な人生を歩むことなど、実はたやすいことであるのに、我が身の不運を嘆く人は多い。

 それが私には不思議でならないのである。

投稿者 mukaidani : 12:27

2009年02月21日

浅草で根付けを買う

 根付けが欲しくて、今朝、愚妻を連れて浅草へ出かけた。

 最近、懐中時計を持つことが多く、根付けは懐中時計につけるためのものだ。

 和服屋さんで用足しをして、小間物屋をのぞくと、女将が十二支の根付けなど、いろんな種類を並べてくれる。

 私は寅年なので、
「じゃ、虎を」
 と言いかけるより早く、愚妻が横合いから、
「そこの〝ひょっとこ〟がいいんじゃないの」
 すました顔でいった。

 愚妻の魂胆は、私にはわかっている。
(あんたは〝ひょっとこ〟よ)
 と、言外に悪口を言っているのだ。
 浅草に来る道中、車の中で愚妻に文句を言った、その意趣返しである。

 私はムッとしたが、女将にはそれがわからない。
「いいですねぇ。〝ひょっとこ〟って粋なんですよ。ご主人様によくお似合いだと思います」
 満面の笑顔でオススメに、私もついつい、
「じゃ、その〝ひょっとこ〟」
 と返事をした次第。

 だが、いま手元にある〝ひょっとこ〟を眺めていると、味わいのある顔をしているではないか。
 無機質なイケメンなんかより、はるかに男前だ。

 柘植(つげ)なので、そのうち〝手垢〟でいい色になるはずだ。
 大事に使おう。
(〝ひょっとこ〟を買ってよかった)
 と、負け惜しみでなく、そう思うのである。

投稿者 mukaidani : 19:22

2009年02月17日

酒ハ人生ヲ賭ケテ飲ムベシ

 中川昭一財務相が辞任した。

 G7後の記者会見が繰り返しメディアに流され、あれを見た誰もが「二日酔い」を思い浮かべただろう。

 麻生首相が不問にしたにもかかわらず、突然の辞意表明は、
「飲酒したという動かぬ証拠があるからではないか」
 という見方もあるようだが、現時点では不明である。

 しかし、たとえ「時差と風邪薬」のせいであったとしても、「二日酔い説」は中川財務相の普段の深酒から出てきたものだ。下戸(げこ)であるなら、そんな疑惑はハナから出てこない。

 ということから考えて、中川財務相は「酒で身を滅ぼした」と言っていいだろう。

 一昨年、飲酒による人身事故が社会問題になったとき、私はこのブログ欄で、
《酒ハ人生ヲ懸ケテ飲ムベシ》
 と書いた。

 酒を飲んで人生につまずくことはあっても、飲まないからといって人生につまずくことはないからである。

 なるほど、酒はうまい。
 かつて「人生は酒」と嘯(うそぶ)いた私は、そのことを誰より知っている。

 と同時に、酒で人生をしくじった人間を何人も見てきた。
 酔っぱらって大事な書類を紛失した営業マンもいれば、お得意さんをブン殴ってクビになった男もいる。
 アル中になり、みずから命を断った友人もいる。

 「そんなに深酒しなくてもいいのに」
 と思うのは、酒の魔力を知らない人間である。

 
 中川財務相のように、大臣ですら失態をさらす。
 これが酒なのである。

 飲んべぇは、中側財務相を笑うのではなく、もって〝他山の石〟とすべし。
 すなわち、《酒ハ人生ヲ懸ケテ飲ムベシ》ということなのである。
 

投稿者 mukaidani : 15:32

2009年02月16日

「悟り」と「費用対効果」

 勉強のつもりで仏教関係の本を読んでいるが、これがよくわからないのである。

 理解が深まるどころか、ますますわからなくなっていく。

 諸行無常、諸法無我……なんて、難しいことを言わなくても、人間はただ「生まれて死んでいく」だけのことではないのか。幸せだ、苦悩だと言っているうちに、人生はエンディングに入っていく。

「たかが人生、されど人生」ではなく、「たかが人生、あっという間の人生」だと、58歳の私は思うのである。

 そんなことを考えるのも、たぶん良寛を書いたからだろう。

《善根の蛍は 招けども来らず 
 煩悩の蚊は 払へども去らず》

 良寛は、そう詠んでいる。
 世俗の欲望を断ち切り、草庵で絶対自由の極地を得た良寛の句であることを思えば、「悟り」とは何だろうかと考え込んでしまう。

 つまり、悟りを得るための「苦行」はどんな意味を持っているのか、ということである。

 青年期、壮年期を「苦行」に費やし、一切の欲望を断ち切った解脱の境地を得ることが、そんなに素晴らしいことなのだろうか。

「私はついに悟った」
 と言って死んでいくのと、悟りなど得られなくても、欲望の世界で迷いの日々を送りつつ、
「いろいろあったが、過ぎてみりゃ、人生、あっという間よ」
 と嘯(うそぶ)いて死んでいくのと、どっちが幸せだろうか。

 私のように世俗の垢(あか)にまみれた人間は、〝悟り〟についてさえも「費用対効果」で考えしまうのである。

 これは私にとって「本音」であるか、あるいは「逆説」であるのか。
 それを見極めるために、仏教の本を読んでいる。

 すると、ますますわからなくなる。

(忙しがっているが、私はヒマなのではないか?)
 そんな思いがする今日このごろである。

投稿者 mukaidani : 08:51

2009年02月14日

努力の報われない国、ニッポン!

 鳥取県の公立小学校には「学級委員長」がいないのだそうだ。

 人権団体などから
「委員長になれなかった子供が傷つく」
「自分にはできないと劣等感が生まれる」
 といった抗議があり、学校側が自粛した結果なのだそうである。

 また同県では、「差別」の観点から、運動会の徒競走でも全員が同時にゴールできるように、走るのが遅い子供に対しては、コースをショートカットしたり、スタートラインを他の生徒より前にしたりする学校もあるのだそうだ。

 人権団体様、よくぞ抗議してくれた、と私は拍手を送りたい。

 学級委員長を決めないだけでなく、各家庭から給料を全額集め、全校生徒で割って収入を平等にしたらどうだろう。家庭によって収入に格差があれば、生徒が傷つくではないか。

 それが無理なら、徒競走で便宜を図るように、寄付を募って収入の補填をしたらどうだろう。そうしないと、生徒に劣等感が生まれるではないか。

 いやいや学校のみならず、これを社会的な運動に広げていただけないものか。東大を受験して落ちると子供が傷つくので、大学入試はナシにしたらどうだろう。

 課長だ、部長だと会社に職制があると、出世できなかった社員は劣等感が生まれるので全廃したらどうか。
 もちろん給料も全員同額である。
 いや、入社試験そのものが〝差別〟だから、これを全廃すべきだろう。

 総理大臣だって、なれない議員は傷つくだろうからナシにしたらいい。

 オリンピックも東京に招致が決まったら、全員が同時にゴールできるようにスタートラインに工夫も必要だろう。
 重量挙げは、全員が挙げられるよう風船にする。
 バレーボールなど得点競技は、カウント全廃。

 スポーツも人生も、〝努力が報(むく)われる〟としたら、これほどの〝差別〟はあるまい。

「平等とは、結果において平等なのではなく、機会において平等であることを言う」
 なんて思っていた私は、ただただ不明を恥じるばかりである。

 努力の報われない国、ニッポン!

 それをリードするのが、まさに鳥取県なのである。

投稿者 mukaidani : 15:45

2009年02月13日

「のり子ちゃん一家」の在留特別許可ならず

 カルデロン・のり子ちゃん一家に対する「在留特別許可」について、森英介法相は、
「一家全員での在留特別許可はしない」
 と述べ、3人全員での在留を認めない考えを示した。

「法相の裁量」で、不許可にしたのだ。

《窮鳥、懐に入れば猟師も殺さず》
 これが日本人の美風ではなかったか。

《惻隠(そくいん)の情》こそ、私たちが絶対に失ってはいけないものではなかったのか。

「法律違反により強制退去」と決まっているなら、やむを得まい。
 だが、昨日から繰り返すように「法相の裁量」なのだ。

「いいよ」
 と言えば、OKなのだ。

 それを無慈悲に不許可にしてしまった。

 これが、私たちが住む日本の実相なのだ。

 今日のニュースに、滋賀県の宗教法人が、自民党滋賀県第4選挙区支部に対して6千万円を献金し、政治資金収支報告書に記載されていないことが明らかになった。

 要するに、内緒でフトコロに入れたのだ。

 どう言いつくろうのか知らないが、こんなデタラメがまかり通り、いたいけな少女が絶望の淵で苦しんでいる。

 木の葉が沈んで、石が浮く。

 そんな世のなかであっていいはずがない。

投稿者 mukaidani : 15:36

2009年02月12日

「のり子ちゃん一家」の在留特別許可問題

 埼玉県蕨市の中学1年生、カルデロン・のり子ちゃん一家に対する「在留特別許可」についての判断が、明日下される。

 15年前に両親が他人名義のパスポートで日本に不正入国。その後、のり子ちゃんが日本で生まれ、自分はフィリピン人とは知らないで学校に通い、日本人として暮らしていた。

 ところが一昨年、母親が職務質問で不法滞在が発覚。一家は強制退去が命じられたが、市民による支援活動などもあり、一ヶ月ごとの入管の判断で、いままで滞在が許されていた。

 一家は在留特別許可を求めており、その判断が明日下されるというわけである。

 在留特別許可は、仕組みとしては難しいものではない。
 法務大臣の裁量にゆだねられており、森英介法相が、
「いいよ」
 と言えば許可は下りる。

 あるいは麻生総理が、
「いいじゃないか」
 と法相に言えば許可は下りる。

 厳密に法解釈すれば強制退去かもしれないが、日本で生まれ育ったのり子ちゃんに、いまさら「日本から出て行け」というのは、あまりに非人道的ではないか。

 しかも、在留特別許可が「法務大臣の裁量にゆだねられる」ということは、強制退去させるか、引き続き日本に住むことを許可するかは、ケース・バイ・ケースということになる。
 ここは当然、許可を出すべきだと思う。

「しかし、それじゃ、法律違反を認めることになるじゃないか」
 と言うなら、国家公務員の天下りはどうなのだ。
〝渡り〟はどうなのだ。
 公務員改革をやると言いながら、麻生総理は屁理屈を言って〝渡り〟を事実上、容認しているではないか。

 一方の財界は、トップの御手洗経団連会長が、コンサルタント会社「大光」の脱税事件で、関係が取りざたされている。
「わしは知らん」
 と言っているが、経団連会長としての社会的責任はどうなるのだ。

 政界も財界も、身勝手なことばかりやっておいて、いたいけな少女ひとりをいじめるとしたら、自民党もいよいよ終わりということになる。

 パフォーマンスでもいい。
 麻生総理がのり子ちゃん一家にあたたかい手を差しのべれば、少しは見直されるのではないか。

 明日の判断に注目である。

投稿者 mukaidani : 14:40

2009年02月10日

ことわざに潜む「真意」

 雑誌を読んでいたら、脳学者の池田裕二氏が、
《「楽しいから笑う」のではなく「笑うから楽しい」》
 といったことを書いておられた。
 脳と身体の関係から、そうなのだという。

 これは私の持論でもあり、ことあるごとにそう書いてきたのだが、私の場合は単なる経験則であって、科学的根拠なし。それだけに、池田氏の一文には意を強くしたという次第。

 こうしてみると、
《笑う門には福来たる》
 という諺(ことわざ)は、まさに至言ではないか。

「福が来たから笑う」のではない。
「笑うから福が来る」というわけである。

 ことほど左様に、私たちが普段よく口にする諺も、よくよく考えてみると、その奥に深い意味や真意が潜んでいるように思う。

 たとえば、
《馬を水辺に連れて行くことはできても、飲ませることはできない》
 という諺がある。

 私も空手の稽古で、これをよく引き合いに出して、
「教えることはできても、稽古するのはキミたちだ」
 と〝説教〟する。

 ところが、説教しても稽古しない。
 馬に水を飲ませることはできないのだ。

 で、ふと思った。
(私の解釈は間違いではないか?)

 すなわち、
「馬を水辺に連れて行って飲ませよう」
 とするのではなく、
「馬が飲みたくなってから水辺に連れて行く」
 というのが、この諺の〝真意〟ではないか考えたのである。

 馬のノドが乾いていないのであれば、走らせればいい。
 メシを食べさせたければ、腹をすかせることだ。
 稽古をさせたければ、強くなりたいという欲求を喚起することだ。
 仕事を一所懸命やらせたければ、目的意識を植えつけることだ。

 しかるに私たちは、馬を水辺に引っ張っていって、
「さあ、飲め」
 と強制する。

 飲もうとしない馬を叱り、
《馬を水辺に連れて行くことはできても、飲ませることはできない》
 と、諺を引いて嘆く。

 これが「自分の論理」であり、人は動かない。
 すなわち、
《人を動かすには、「相手の論理」で組み立てることこそ肝要である》
 というのが、この諺の真意であろうと、私は考えるのである。

 こう考えていくと、諺とは何とも奥が深いものではないか。


投稿者 mukaidani : 05:36

2009年02月05日

良寛を越後に訪ねる

 今日は、編集マンの小松卓郎君と新潟に行き、良寛が諸国放浪の果てに暮らした国上山中の五合庵など、ゆかりの地をめぐってきた。

 周知のように、良寛といえば乞食行脚の「清貧の生き方」として知られるが、六畳足らずの粗末な草庵の前に立ち、「良寛の清貧」とは何かについて自問してきた。

 そこで思った一つは、
(良寛のごとく、自ら望んだ《貧しさ》は《苦》とはならないのではないか)
 ということだった。
 良寛は《苦》どころか、無一物の境涯に身を置くことで絶対幸福の境地を手に入れているのである。

 すなわち《貧しさ》の本質は、《貧しい》という事実そのものよりも、
「望まずして貧しくなった」
 という〝望まず〟にあるのではないだろうか。

 逆説的に言えば、艱難辛苦も逆境も、そこから逃避しようとするのではなく、自らその境遇を望んだとなれば、《苦》にはならないということになる。

 屁理屈でもなければ、言葉の遊びでもない。
 人間が「精神的な生き物」である以上、《苦》も《楽》も絶対事実として存在するのではなく、自分の感情として存在するということなのではないだろうか。

 そんな人生の要諦を良寛の生き方に見るのだが、この小コラムでそれを論じるには紙幅が足りない。興味のある方は、今月、良寛をテーマに「清貧の生き方」を論じた拙著が発売されるので、手に取っていただければ幸いである。

 良寛は前々から興味を抱いていたテーマなので、「目からウロコ」と自負する一冊である。

投稿者 mukaidani : 22:35

2009年02月02日

「シェアリング」という私のトラウマ

 ルームシェアが人気だそうである。

 ルームシェアとは、2DK程度のマンションに、友人と家賃を折半して住むことを言う。

 一人では住めない広いマンションも、ルームシェアなら住めるというわけで、いま人気なのだそうだ。

 だが、人気のヒミツは、「ルームシェア」というネーミングにあると、私はニラんでいる。

 かつて、複数の人間が一つ屋根の下で暮らすことを「同居」と言った。
「ルームシェア」は「同居」と同義語なのだが、「同居」は何となくプアな響きがある。

「あたしさ、A子と同居してるの」
 と言うよりは、
「あたしさ、A子とルームシェアしているの」
 と言ったほうが、なるほどオシャレだろう。

 ここに、まやかしがある。

 実を言うと、私はこの「シェアリング」という言葉にひどい目にあったことがあるのだ。

 かれこれ20年以上も前になるが、私が仲間と編集企画会社をやっていたときのことだ。
 某クライアントに企画を提出した。
 当時の金でン千万円のプロジェクトだ。

 企画書を読んだ会長が、
「この企画、うまくいくかね?」
 と念を押してきたので、
「もちろん」
 私が胸を張って返事すると、
「わかった。じゃ、バードンシェアリングでいこうじゃないか」
 会長がニッコリ笑って言ったのである。

 私はバードンシェアリングの意味がわからず、なんとなく語感と会長の表情から、私はこう解釈したのだ。
「いい企画を立てたので、おまえの会社に分け前をシェアしてやろうじゃないか」

 長くなるのでこれ以上は書かないが、あとになってバードンシェアリングが「費用負担」の意味であることを知って、大騒動になるのである。

 それがトラウマとなって、以来、「シェア」という言葉を聞くと眉にツバをつけるようになったという次第。

 友人との「同居」を「ルームシェア」と呼びかえるなら、親と同居して面倒を見る場合は、「ハウスシェア」なんてどうか。

 二世帯住宅は「シェアハウス」。

「共働き」と言えば何となく生活臭が漂うが、「ライフシェア」なんて言えばオシャレじゃないか。

 おっ、「ワークシェアリング」なんてカッコいいぜ!

「バードンシェアリング」のトラウマを引きずる私は、そんな嫌みの一つも言いたくなるのである。

投稿者 mukaidani : 02:23