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2009年01月30日

高校の指紋採取と紛失事件

 一昨日のニュースで、三重県の私立海星高校の男性教諭が、クラス全員の指紋を取った問題が報じられた。

 ご承知のように、発端は、生徒の携帯電話メモリーカードの紛失である。
 犯人が名乗り出ないため、生徒の指紋を取ったわけだが、これが問題化し、校長は、
「学校としては認めていない。不適切な行為だった」
 と平身低頭である。

 うちの愚妻も、
「ひどいことするわね」
 と憤慨しているので、
「なんで?」
 と問うと、
「だって!」
 と言ったきり、黙ってしまった。

 生徒の指紋をなぜ取ってはいけないのか、深く考えることなく、気分で怒っただけなのである。

 なぜいけないのか、私も実のところよくわからないのだが、あえて言えば、
「生徒の心を傷つける」
 ということと、
「刑事事件のような扱いで問題を解決しようとする姿勢は、先生がみずから教育を放棄するもの」
 といったことになるだろうか。

「だが」
 という思いも一方である。
 メモリーカードの〝紛失〟はどうなったのか、という疑問である。

 もし盗難だとすれば、指紋採取と〝別の問題〟であるにもかかわらず、そっちについてはメディアは触れない。

 つまり、指紋採取のほうが「大きい事件」であるため、メモリーカード紛失という「小さい事件」は捨て置かれたのである。

 両者の問題は別個であり、指紋採取が由々しき問題なら、学校で盗難事件が起こることも由々しきことではないか。

 教育現場で指紋採取が行き過ぎだというなら、
「人のものを盗ってはいけない」
 という、人間として基本中の基本の道徳教育がなされていないということもまた、教育現場の大きな問題だろう。

 と、まァ、イチャモンをつけるわけではないのだが、教育環境はいまのままでいいのだろうかと、本気で思い始めたところなのである。

投稿者 mukaidani : 16:17

2009年01月28日

朝青龍と沢尻エリカ

 ここ数日、朝青龍の優勝と、沢尻エリカ挙式のニュースが繰り返し流れていた。

 どちらもオメデタイことだとは思うが、両人とも、ついこの間までバッシングされてたことを思えば、メディアの節操のなさには苦笑するしかないだろう。

 いや、節操のなさというのは正確ではない。

 メディアは、ニュースバリューのない〝無名の人間〟は扱わない。
 ということは、ホメたり、ヨイショして〝有名〟にしておいてドカンと叩き、叩いたら、今度は一転、またしてもヨイショしてニュースバリューを高めつつドカンと叩く。

 つまり、株価操作に似ていて、株価をつり上げて高値で売り浴びせ、暴落したところで再び買い戻して株価をつり上げ、そして売り浴びせ……。

 この繰り返しであることが、週刊誌記者出身の私としては身にしみてわかるのである。

 ただし、〝株価〟たるご当人たちが、そのことにどこまで気がついているだろうか。

 投機対象になっているうちはいいが、ボロ株になったら紙くずとしてポイ捨てされるのだ。

 かのリーマンブラザースだってポイ捨てだし、米国ビッグスリーだってヤバイ。
 同様に、どんな人気者や有名タレントでも、明日はわからない。
 株と同じで、ちょっとしたことで一転、売り浴びせられるのだ。

「向谷君な、大衆というは残酷なものだぞ」
 かつて、劇画作家の故梶原一騎先生が、暴力事件で世間からバッシングされたとき、私にしみじみ語ったことがあるか、まったくそのとおりだろう。

 そう考えれば、大衆には〝権力〟がないと言うが、それは違うのでないか。
 自民党の右往左往も、民主党の攻勢も、有権者という大衆を意識してのものだ。
 すなわち大衆、あるいは世間という〝得体の知れないもの〟が、結局、歴史を動かしているのではないだろうか。

(一般大衆とはいったい〝何者〟なのだ?)

 そんなことに思いを馳せながら、朝青龍と沢尻エリカの笑顔をテレビで見ていたのである。
 
  

投稿者 mukaidani : 16:22

2009年01月26日

畑とサウナで考えた

 今朝、ひさしぶりに畑へ出かけた。
「ジャガイモを植える準備をせんにゃいけん」
 と、親父が毎日うるさいので、私は重い腰をあげたというわけだ。

 昨日は築地本願寺で通信教育生の勉強会があり、夕方帰宅してから保護観察の少年宅を訪問。晩飯をかきこんで徹夜で原稿の追込み。

 正直、畑どころではないのだが、子供がデズニーランドをせがむがごとく、「ジャガイモ」を毎日連発されたのではしょうがあるまい。
 愚妻を叩き起こして、畑へ出かけたのである。

 親父も八十半ばを過ぎて、さすがに動きが鈍くなり、
「あっちを掘れ、こっちを耕せ」
 と、命じるだけ。

 命じるだけだから、親父は疲れない。
 これまでは2時間もすると、
「さあ、そろそろ帰るか」
 と、早々に〝帰るコール〟を親父は発していたのだが、今日は疲れないものだから、
「あっちを掘れ、こっちを耕せ」
 おかけで、めまいがするほどだった。

 人に命じてやらせるのは楽しいもので、これを親父のクセにしては私の身体がもたない。次は、親父にも鍬(くわ)を持たせなくては。

 午後、仮眠をとってから、ノートパソコンと資料を持って健康ランドへ出かけた。

 いま書いているのは「良寛の清貧」をテーマにした〝生き方本〟だが、いろいろ考えさせられることが多い。
 
 生きることは難儀で、それならば死ねばいいようなものだが、それはイヤだとする。
 
 死ぬのがイヤなら、生きることを楽しめばいいのに、それは難儀だとする。

 畑が大儀であるならやめればいいものを、収穫のときはニコニコ笑顔。

 人間は何とも救いがたいものだと、人ごとのようにサウナで考えるのである。

投稿者 mukaidani : 21:55

2009年01月24日

精神的にひ余話な子供を考える

 自分の意志をハッキリ伝える子供が少なくなった。

「あのう、手が痛いんですけど……」
 道場で、こんな言い方をする。

「そうか。それで?」
 私が先をうながすと、
「はッ?」
 という顔をするのだ。

「痛いのはわかった。だからどうしたいんだ? 稽古を休みたいのか、手に力を入れないでやるというのか、組手だけ休むというのか。何が言いたいのかハッキリしろ」
「組手を休みたいんですけど」
 こうやって初めて会話が成立するのである。

 子供だけではない。
「館長、来週、ちょっと忙しいので……」
 若者もこんな言い方をする。
「忙しいからどうしたんだ」
「稽古を休みたいと……」

 かつて日本は、口にハッキリ出さないで〝会話〟してきた。
「みなまで言わせるなよ。わかってるだろ?」
 あからさまに口に出すことで、人間関係を損(そこ)ねるかもしれないという気づかいからだ。

「だが、それは日本独特の文化であり慣習だから、世界には通用しない」
 というのが戦後の考え方で、自分の意志をハッキリと相手に伝えることが大事だと教育された。

 これが「自主性」というやつである。

 なるほど「自主性」は身についたが、たとえ自分に非があっても、自分は正しいのだと〝自主性〟をもって主張するようになったため、おくゆかしさという日本の美徳はなくなってしまった。

 これを私は残念に思っていたのだが、ここへきて子供たちから〝自主性〟が陰をひそめ始めたというわけである。

「あのう、手が痛いんですけど……」
「だからどうした?」
 こんなやりとりを子供たちとするたびに、自主性の欠落を痛感するのだが、この原因はどこにあるのだろうか。

 親の過保護にある、と私は思っている。
 子供が何をしたいのか、どうしたいのかを自己主張する前に、
「どうしたの? お腹がすいたの?」
「どうしたの? 足が痛いの?」
 お母さんが先走りして問いかけてしまうため、子供はコックリ、とうなずくだけとなる。

 だから自分の意志を口にしなくなる。
 する必要がないのだ。
 その結果、意志をハッキリ主張しなくてはならないときに、それができなくなる。
 そういう訓練がなされないのだから、当然だろう。

 だが、〝自主性〟が陰をひそめたからといって、おくゆかしさという日本の美徳がもどってきたわけではない。
 単に、精神的にひ弱になってきただけのことなのだ。

 しつけは家庭でなされるものだが、本当に家庭でそれができるのだろうか。
 そんなことを考えつつ、道場に出るのである。
 

投稿者 mukaidani : 20:03

2009年01月21日

オバマ人気が教えること

 米国民の熱狂的な支持を受けて、オバマ新大統領が誕生した。

 就任式では、感極まって泣いている支持者もいた。

 私はオバマ大統領の手腕についてはわからない。
 経済政策がどうあるべきかもわからない。
 今後の見通しとなると、さらにわからない。

 ただ、経済不況と閉塞感にあえぐ米国民が〝救世主〟を求めているであろうことなら、理解できる。

 だから、何かを変えてくれそうであれば、オバマでなくてもよかったのだろうが、「黒人初の大統領」という〝大変化〟が、米国をも変えてくれるのではないかという期待感を、米国民は抱いたのだろう。

 オバマ人気には、米国民の悲壮感が漂っている。
 言い換えれば、歴史をひもとくまでもなく、〝英雄〟は、国民にとって不幸な時代に登場する。

 そして〝英雄〟の多くは、国民の期待が生んだ幻想であり、やがて国民はそのことに気づいて失望する。

 だが国民の叡智は、ここで深く目覚める。
「そうだ、人に頼ったのが間違いだった。幸せは、自分たちの努力でつかむしかないのだ」
 そう気がついて、新たな歴史が始まるのである。

 いま日本は「心の時代」と言われる。
 宗教の時代とも言われる。

 不幸な時代が英雄を待望するように、心を求める時代は、実は不幸な時代ではないのか。
 心、モラル、生き方、福祉などが社会で問われるたびに、私はそのことを思うのである。

投稿者 mukaidani : 12:24

2009年01月19日

親父を見て考える「歳をとる」ということ

 朝から親父がガタゴトと、部屋の押し入れを探しまわっている。

 何事かと思ったら、加湿器を探しているのだと言う。

「どうした?」
「いまテレビでやっておったが、湿度が15パーセント以下になると、インフルエンザにかかるんじゃて」

 なに、イフンフルエンザ対策だと?

「もう長生きはせんでもええわい」
 と達観したようなことを言ったのは、当の親父じゃないか。
 それも、つい昨日のこと。
「じゃ、3月のお彼岸には京都西本願へお参りしようか」
 と私が言うと、
「ほうじゃのう」
 と、うなずいていたではないか。

 それが一転、今度は大騒動してインフルエンザ対策である。

 なるほど人間、生への執着は煩悩ということか。

 親父の在(あ)りようは「明日の我が身」と思い、私の部屋で使っている加湿器を親父の部屋に用意したのだが、ふと思って、
「しかし、あんたはインフルエンザに罹(かか)らんかもしれんが、わしが罹ったらどうするんじゃ? あんたにうつるぞ」
「ウーム……」
 親父はうなって、
「ホンマじゃ」
 マジメな顔をしてつぶやいたのである。

 これが歳をとるということなのか。

 面白いようで、悲しいようで、いずれ自分もそうなっていくのかと思うと、なんとも複雑な心境になるである。

投稿者 mukaidani : 16:11

2009年01月16日

〝内定取り消し〟を「幸運」に転じよ

 高校生の〝内定取り消し〟は186人。その半数がいまも就職活動をしていると、今日のニュースで報じている。青雲の志を抱いたであろう彼らの心中は、いかばかりであろうか。

 だが、ここでイジケてはいけない。
 内定を取り消され、それが原因で人生につまづいたとなれば、踏んだり蹴ったりではないか。

 私なら、
「よかった、入社しなくて」
 と考えるだろう。

 内定を出しておいて取り消すような会社は、将来性ゼロ。信義にもとる会社の職場環境など、最悪に決まっているではないか。
 入社してから、
(しまった!)
 と後悔するより、事前に会社の〝正体〟がわかったことは実にラッキーだったと、ポジティブに考えるべきなのである。

 これは高校生に限らず、新卒の大学生にも言える。

 と、なれば、内定を取り消された諸君は、これから10年がたって、
「本当に幸運だった。もし、あのとき内定を取り消されなかっなら、いまの自分はなかったろう」
 そう思うような人生になるよう奮起をうながしたい。

 内定を取り消されたことはショックだろうが、これから長い人生、理不尽なこともあれば、もっともっとつらいこともあるのだ。マイナスを踏み台として、いかにステップアップするか。人生はここで決まるということをおぼえておいて欲しいのだ。

投稿者 mukaidani : 22:18

2009年01月14日

麻生総理の歩き方について一言

 昨日から道場で空手の稽古が始まった。

「今年の目標を決めた人!」
 小学生クラスの時間にそう問うと、3年生の女の子が口をとがらせて、
「館長、そのことは稽古納めのときに一人ずつ訊いたじゃない」

 そうだった。
 うっかり忘れていたが、私はそれを顔に出さず、
「もちろん覚えているとも。で、目標は何ったんだ?」
「えーと、えーと……」
 異議をとなえた3年生の女の子は、目標が何であるか忘れているのである。

「ほら、みろ。だから今年の目標は何だときいたんだ」
 ひとくさり訓辞をたれてから、
「背中が曲がっているぞ。姿勢を正して!」
 まっ、そんなこんなで今年の稽古が始まったのである。

 私は「姿勢」のことを子供たちにうるさく言う。
 姿勢をきちんとすれば、精神に一本筋が通るからである。
 無気力になるから姿勢がだらけるのではなく、姿勢がだらけるから無気力になるのだ。
「健全なる精神は、健全なる肉体に宿る」
 という言葉は、そういう意味で正しい。

 で、稽古が終わって帰宅すると、テレビニュースが第二次補正予算について報じていた。

 麻生総理が国会の廊下を歩く姿が画面に写っている。
(そういえば……)
 と、前々から麻生総理の歩き方が気になっていたことを思い出した。

 麻生総理は唇をゆがめるだけでなく、身体を左右にギコタン、バコタンと振って歩くクセがあるのだ。
 それが前々から気になっていたのだが、ここでハタと気がついた。

 姿勢が、精神の在(あ)りように大きく影響する以上、身体をギコタン、バコタンと振って歩く人間の考えが、右に左にブレるのは当然ではないのか。
 麻生総理がコロコロ考え方を変えることに批判が集中しているが、これは総理が悪いのではなく、歩き方に原因があったのである。

 私は、麻生総理の揚げ足を取っているのではない。
 総理たる者、姿勢を正し、身体をギコタン、バコタンやることなく、堂々と胸を張って歩けば、考えもブレないだろうにと、ただただ気の毒に思うのである。

投稿者 mukaidani : 20:29

2009年01月13日

私たちは「本質」を見ようとしない

 人間は「本質」を見ようとしない。

 たとえば、先日のこと。
 取材でヤクザ親分に会ったフリーライターが、
「すげぇベンツに乗って、指輪なんか石ころみたいなダイヤなんですよ」
 と感嘆していた。

 ヤクザの「本質」や社会的存在を考えるよりも、関心はクルマや服装にいくのである。

 あるいは成人式。
 例によって沖縄の〝荒れる成人式〟をニュースで流していたが、成人式を報道する「本質」は、いまの二十歳が社会人として一人前であるかどうかであって、バカ騒ぎするかどうかではないのだ。

 ところがメディアは「本質」を見ないで報道し、視聴者の私たちも〝荒れる成人式〟をおもしろがって見ているというわけである。

 だが、逆説的に言えば、他人は「本質」を見てくれないということでもある。

 あなたの人格がいかに素晴らしくとも、汚れたボロ服を着ていれば、
(この人、なに?)
 と眉をしかめるだろうし、汗臭ければ、
(不潔!)
 たちまち嫌悪感を抱くだろう。

「人格」という〝人間評価の本質〟とは無関係に、その人を判断してしまうのである。


 以上のことから、自分としては「相手や物事の本質」を見抜くように努力し、相手に対しては「自分の本質以外で勝負する」というのが、〝かしこい処世術〟とされる。

 悲しいかな、これが現実なのである。

投稿者 mukaidani : 01:47

2009年01月10日

「おバカなキャラ」について考えた

「笑わせる芸人」と「笑われる芸人」とは、似て非なるものだ。

 前者の笑いは芸であり、後者のそれは嘲笑である。

 だから「おバカなタレント」に私は関心がなく、雑誌で拾い読みすることはあっても、テレビで観ることはなかったのだが、たまたま年末年始のバラエティー番組で「おバカなタレント」を初めて見て、考えが変わった。

 彼らは「笑われる」だけで「笑わせる芸」はないと思っていたが、そうではなく、
(笑われることで、笑わせているのではないか?)
 そんな思いがよぎったのである。

 もし、そうだとすると、
(これもまた立派な芸ではないか)
 と思う一方、
(いや、違う。それは買いかぶりだ)
 と、唐突に畑の野菜が脳裏に浮かんできたのである。

 つまり「おバカなキャラ」は、たとえて言えば畑で抜いたばかりのニンジンやダイコンのようなもの。「芸」という調理は一切なく、素材勝負。泥を指先で落として、ダイコンにかぶりつき、
「わッ、甘い!」
 と簡単しているようなものではないのか。

 なるほど、採れたて野菜は調理しないがゆえに、新鮮でうまい。

 だが、だからとって毎日、畑のダイコンやニンジンにかぶりつくだろうか。

 そうはなるまい。

 食材は、やはり料理してこそうまいのだ。

 となれば、「おバカなキャラ」は一過性のものだろう。

 それで当人が是とするならかまわないが、芸能界で生き残るのは至難のワザだ。

 生き馬の目を抜く芸能界にあっては、やはり芸を磨くという王道を歩んでこそ大成し、生き残っているのだと私は思う。

《往(い)くに小径(こみち)に依(よ)らず》
 という言葉がある。

 人生も仕事も、近道を求めず、遠回りしても王道を歩めという意味だ。

「おバカなキャラ」をテレビで観ながら、ややもすると近道を求めたがる自分を反省したのである。

投稿者 mukaidani : 00:05

2009年01月06日

タイタニック号と〝麻生船長〟

 国会で与野党の白熱した論戦がスタートしたが、定額給付金をめぐる問題は、よくよく考えてみると、実に不可解である。

「お金をあげましょう」
 と、政府が2兆円も大盤振る舞いしようとしているのに、国民の多くが、
「いりません」
 と、政府を批判をしているのだ。

 この不景気で、お金は誰だってノドから手が出るほど欲しいはずなのに、
「給付金なんてムダ」
 と言っているのだ。

 しかも、ノーの理由が、
「福祉や医療、中小企業対策など、もっとほかにつかい道があるはず」
 と、《私》より《公》を優先すべきだという意見なのである。

 平成10年に地域振興券が発行されたときは、《公》より《私》が最優先で、
「おッ、ラッキー!」
 と大喜びした人が多いようだが、今回はそうはならないのである。

 私の愚妻ですら、
「麻生さん、おかしいんじゃない?」
 とテレビニュースを見ながら、定額給付金を批判している。

 お金をもらえばニッコリするはずの愚妻が、眉間にシワをよせて批判しているのだから、実に不可解だと、私は思うのである。

 これをどう解釈すればいいのか。

 理由はいろいろ考えられるが、最大の理由は、
「このままでは日本は大変なことになる」
 という危機感の、無意識の現れだろうと私は思っている。

 これまで、日本は何度も不況の波をかぶってきたが、
「何とかなるさ」
 という楽観が国民にはあった。

 だから《公》より《私》が最優先で、地域振興券がバラまかれたときは、
「おッ、ラッキー!」
 と喜んだ。

 ところが、今度は百年に一度と言われる大不況だ。
 しかもその一方で、後期高齢者医療制度や年金問題、妊婦のたらい回し事件、通り魔殺傷事件、政治の混迷……等々、世情不安がある。
(日本、ヤバイぜ)
 という潜在的な不安感を抱いているところへ、サブブライム問題を引き金に経済危機が襲ってきた。

 不沈と信じていた〝日本タイタニック号〟が、
(ひょっとして、このまま進めば氷山に激突するかもしれない)
 と、国民の多くが真剣に考え始めたのである。

 ところが〝日本タイタニック号〟を操船する麻生船長と乗組員たちは、
「大丈夫。操船は、あたしたちにまかせない。そんなことより、シャンパンでもいかがです?」
 ノンキに定額給付金という〝シャンパン〟の栓を抜こうとしている。

 だから〝乗客〟が怒った。
「バカ野郎! それどころじゃねぇだろ!」

 これが定額給付金に対する批判の実相だろうと思っている。

 百年に一度の経済危機という〝氷山〟を、日本タイタニック号の麻生船長は回避できるのだろうか。

「おかしいな。舵を切れば氷山は回避できたはずだったんだが、ゴメン、ぶつかっちゃった」
 まさか、麻生船長のそんなセリフを聞くことがないよう祈るばかりである。

投稿者 mukaidani : 23:53

2009年01月04日

脇腹の激痛に「無心」を説く

「あなた、痛くないの?」
「ン?」
 今朝、愚妻に問われて、脇腹の痛みがなくなっていることに気がついた。

 昨年暮れのことだ。
 自宅の風呂で、浴槽に片足をいれたまま洗い場に身を乗り出し、頭に残ったムースをシャワーで洗い流していた。
 頭とヒゲは、湯船につかったまま剃るのが私の毎朝の楽しみなのだが、付着したムースはシャワーで洗い流さなければならない。

 で、この日。
 横着して、浴槽に片足をいれたまま洗い場に身を乗り出し、シャワーを使っていたところ、右脇腹の下方部分に、キリで刺すような痛みが走ったのである。

(あッ、ヤバ!)
 と思うまもなく、激痛で動けなくなった。

 数年前、市の体育指導委員をしていた私は、軽スポーツの集いでソフトバレーをやり、果敢な回転レシーブで右脇腹のスジを痛めたのだ。それ以来、何かの拍子に、この部位がキリキリキリと痛むようになったのである。

 風呂から四つんばいで出た私は、ソロリ、ソロリと近くの整体・鍼灸治療院へ出かけた。20年以上も我が家に来てくれている友人の整体師がいるのだが、暮れも押し詰まって来てもらうわけにはいかないと思ったのである。

 私がソロリ、ソロリと訪ねた治療院は中年女性の先生で、マッサージから鍼灸と、時間をかけ、実に丁寧に治療してくれた。

 しかし、痛みは取れない。

 翌日も行く。
 痛みは取れない。

 私は、あせった。
 一所懸命に治療してくださっているのに、痛みが取れないのでは申し訳ないではないか。
(マズイなァ。治らないかなァ)
 次回の治療で、先生を落胆させるのかと思うと、気が重くなるのである。

 で、今日が三回目の治療だが、
「あなた、痛くないの?」
 と愚妻に問われるまで、脇腹の痛みのことをすっかり忘れていた。

 痛みが無くなっていたからである。

「痛くねぇな」
「何よ、大騒ぎしていて、ケロッと忘れるんだから」

 愚妻があきれているので、私はいい機会だと思い、次のように諭した。
「無心という言葉の意味を知っているか。これは心を無にすることではなく、欲望を突き抜けた先に訪れるものなのだ。たとえば野球のバッターが無心の境地に至るのは、ヒットを打ちたい、打ちたいと渇望し、執着し、その渇望と執着を突き抜けた先に、ひょいとエアポケットのようにして無心の境地が訪れる」
「だからどうしたのよ。私は忙しいんだから」
 愚妻がイライラしている。
「まだわからぬか。脇腹の痛みよ去れ、去れ、去れと渇望し、執着し、その渇望と執着を突き抜けて無心の境地に至ったればこそ、痛みが取れたことも気がつかず……」
「バカみたい。ヘ理屈はよそへで言ってよ」
 バチ当たりが、洗濯物を干しに二階へトントコ上がっていったのである。

 愚妻はバチ当たりなことを言ったが、無心に至る境地は、渇望と執着を突き抜けた先にあると、私は信じている。

 ついでながら、浄土真宗僧侶の末席につらなる一人として「信心」について講釈をたれるなら、阿弥陀如来の本願を信じ、信じ、信じ切って、信じることさえ忘れた先に、ふと心の平安が訪れるのである。

 すなわち、これを逆説的に言えば、私たちはもっともっと煩悩を大事にし、それにトコトン執着することこそ、人生渡世の要諦ということになるのだ。
 

投稿者 mukaidani : 12:36

2009年01月01日

〝間隙ビジネス〟と日本文化

「正月らしくなくなった」
 と言われて久しい。

 元旦からフライドチキンやカレー、ピザを食べていては、正月の雰囲気はあるまい。これらの食べ物が悪いというのではなく、かつて正月には食べなかったと言っているのだ。

 子供たちの遊びも、凧揚げや独楽(コマ)、羽子板、歌留多の代わりにテレビゲームだ。テレビゲームが悪いというのではなく、〝正月の遊び〟が無くなったと言っているのだ。

 大型スーパーも、元旦から開いている。
 これが、正月らしくなくなったトドメの一撃ではないかと、私は思っている。

 かつて正月三ガ日といえば、お店はどこも休みで、だからお節(せち)を用意して家にこもった。
 正月の団らんである。
「店が休み」という〝非日常性〟が正月の大きな特徴だった。

 ところが元旦から大型スーパーが開いているのだから、そうと意識しないまま、正月は昨日の続きであって特別な日ではなくなったというわけである。

 店側にしてみれば、
(正月も営業すれば儲かるじゃないか)
 と考えたのだろう。

「正月は仕事をするもんじゃない」
 という〝価値観〟なんて時代遅れ、と考えれば、正月に営業するのは当然だろう。

 これと同じ発想が、社会のそこかしこに見られる。

 かつてコンビニエンス・ストアの営業時間は、夜の11時までであった。セブン・イレブンという社名が何よりそのことを表している。

 ところがコンビニ間の競争が激化するにおよんで、
(朝まで営業したほうが儲かるじゃないか)
 となった。

 テレビだって、昔は夜の11時くらいで放送は終わりだった。
 それが深夜にまで放送時間が延び、
(どうせなら朝まで放送したほうがスポンサーもついて儲かるじゃないか)
 となっていったのである。

 つまりスーパーの元旦営業も、元旦のカレーやピザも、コンビニの営業時間もテレビ放送も、これまで日本人の慣習や価値観として「空白」であった部分に、ズカズカと入り込んできたというわけである。

 要するに、慣習という曖昧な価値観の間隙(かんげき)をついた〝間隙ビジネス〟が、日本から〝日本らしさ〟を削ぎ取っていっているように、私は思うのである。

 そいう意味で、日本文化から「間隙」というものが、どんどん無くなっている。
 なるほど「間隙」は「無駄」である。
 だが「書」が、余白という〝無駄〟な部分があって成立するように、私たちの生活もまた、「間隙」という無駄があってこその潤いではないだろうか。

「間隙」という曖昧な部分を「文化」とするなら、間隙が無くなるにつれて日本文化が「らしくなくなる」のは当然だろう。

 習慣や価値観は時代とともに変わっていく。
 それはいい。
 何かを得れば、何かを失うのは当然だ。
 だが、私たちは「正月の風情」を失った代わりに、いったい何を得たのだろうか。

 酒を飲まなくなった私は、元旦早々、醒めた思いでそんなことを考えるのである。

投稿者 mukaidani : 10:40