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2008年12月29日

万婦、ことごとく小町なり

 今朝、親父と女房、娘とその孫二人を連れて、お墓の掃除に行ってきた。

 孫(2歳と4歳)が、私たちのマネをして、
「ナンマイダブ」
 と称えながら手を合わせている。

 いい機会だから、合掌や墓参の意味を教えようとしたら、
「あなたは白骨だとか何とか、教え方が過激だからダメよ」
 女房からクレームがつき、娘も、
「そうね」
 とバチ当たりな賛意を口にしている。
 娘の亭主が同席していれば、私の味方をしてくれるのだが、今日は仕事に出ている。

 やむなく孫への解説は断念したが、孫たちが意味もわからず、一心に手を合わせる姿を見ていて、ふと、私は「感謝の念」が希薄になっている自分に気がついた。

 他人と我が身をくらべながら、つい損得でものごとを推し量ってしまう。
 自分はいつも正しく、悪いのは周囲であり、時世であり、環境であると無意識に抗弁している。

 それは間違いなのだ。
 幸せも不幸も「在(あ)る」のではなく、それを心がどう受け止めるかの違いだけなのだ。
 それがわかっているはずなのに、「感謝の念」が薄い自分に気がついたというわけである。

 芭蕉であったか、
「万婦、ことごと小町なり」
 という言葉がある。

 美醜という評価を超えて、すべての女性に美しさを見る。
「万婦」はたとえで、幸も不幸もすべてを受け容れ、泰然とした日々を過ごすところに真の意味の幸福がある、と、これは私の解釈である。

「万婦、ことごと小町なり」
 と心のうちでつぶやきながら、墓前で手を合わせる我が古女房を見やる。

 見やって、
(ウーン)
 と、私はうなった。

「ことごと小町なり」とは言うものの、世間には例外というものがあるのではないか。
 それとも、私の人格が完成にはほど遠く、美醜という評価にとらわれているのではないか。

 思いは千々に乱れながら、
「ナンマンダブ、ナンマイダフ」
 と称えた朝のお墓掃除であった。

投稿者 mukaidani : 15:38

2008年12月27日

勝ち組・負け組の時代

 今日27日が、海外旅行の出国ピークだという記事が出ていた。

 成田空港の出発ロビーは、大きな旅行バッグを持った家族連れなどで、朝から大混雑。この日だけで約5万人が海外に出発するという。

 一方で、年を越せない派遣労働者がいる。

 この〝格差〟から、私たちは何を感じるだろうか。

 解雇された派遣の人たちへの同情よりも、自己防衛だろう。

(他人のことより自分のこと)
 そう思うのではあるまいか。

 すなわち「勝ち組・負け組」という価値観は〝格差の拡大〟から起こるのである。

 ライブドア事件で、拝金主義が否定された。
 今回の経済恐慌で〝金融立国〟が否定された。
 だが、本当にそれらは否定されたのだろうか。

 私は違うと思う。
 来年は、もっともっと格差社会が進行するだろう。
「勝ち組・負け組」の時代である。
 海外旅行の出国ピークだという記事を読みながら、そう思うのだ。

投稿者 mukaidani : 12:38

2008年12月26日

人生は〝トッピング〟

 一週間ぶりのブログ更新である。

「あれもしなきゃ」「これもしなきゃ」で、〝きゃきゃ病〟の一週間だった。

 何が忙しかったのか自分でもよくわからないのだが、原稿を書く時間がなかったのだから、やはり忙しかったのだろう。

 先夜、某出版社の編集者と打ち合わせをした。
「そろそろ1年ですね」
 編集者がグラスを置いてボソリとつぶやき、
「いやホント、1年なんてアッという間だ」
 私は笑ってごまかした。

 歴史小説を引き受けて1年がたとうとしている。
 私にとって新境地の仕事になるので、いい作品にしようと資料を集めたのはいいのだが、集めすぎてわけがわからなくなった。資料を読めば読むほどストーリーが矛盾だらけになり、頭を抱えてしまうというわけである。

 もっとも、いつまでも頭を抱えていないのが私の特技で、
(まっ、矛盾をどう処理するかが〝小説の妙〟というやつさ)
 いまはすっかり割り切っているという次第。

 ならばすぐに書き始めればいいものを、ほかに何冊か抱えており、これも早く書かなければならず、
(書かなきゃ、書かなきゃ)
 と、これまた〝きゃきゃ病〟になって、おかげで仕事が遅々として進まないという悪循環になっているというわけである。

 今日の昼食は、近くのファミレスでミックスピザを食べた。
 あれもこれもと〝具〟が載っているピザを見ていて、
(自分のようだ)
 と思った。

 すなわち〝我がトッピング人生〟である。

 ミックスピザと言えば聞こえがいいが、要するに「あれもこれも」で、節操のないピザなのである。
 我が人生も、しかり。
 だから〝きゃきゃ病〟になる。

 ピザも人生、シンプルがいい。

 58歳になって、やっとこさ、そのことに気がついた師走の一日であった。

投稿者 mukaidani : 16:38

2008年12月19日

〝錦の御旗〟で我田引水

 参院厚労委で、野党三党が雇用関係4法案を強行採決した。

 法案の内容はともかく、
「強行採決は横暴だ!」
 と自民党が喚(わめ)いたのには驚いた。
 これまで、さんざん強行採決してきたのは自民党ではないか。

 一方の野党もしかり。
 これまで自民党の強行採決を非難しておいて、
「この法案は緊急性を要するものと判断した」
 と、自民党が強行採決のたびに口にしたセリフで応酬する。

 民主党の菅直人代表代行など、
「強行採決ではない、迅速採決だ」
 と、〝モノは言いよう〟のお手本のような反論である。
 
 メディアは、「攻守ところを替える異例の展開」などと、プロレス中継のようなノンキな報道をしているが、自民党にしろ野党にしろ、強行採決こそ、まさに「目的は手段を正当化する」という見本なのだ。

 すなわち、
「国民にとって、この法案は緊急課題である。ゆえに強行採決をした。どこが悪いんじゃ」
 という論法で、「強行採決」という《悪》は、「国民にとって」という《正義の目的》と抱き合わせることによって、コロリと《正義》にすり替わるというわけである。

 となれば、ドジを踏んだときは、大急ぎで〝錦の御旗〟をみつくろえばいいということになる。

「あなた! また飲んで帰ったの!」
「ごめん。でも、我が社はいま経営危機なんだ。リストラされないようにと部長のお供をして……。オレ、飲みたくて飲んでるんじゃない、家族のために飲んでるんだ」
 こう言われれば、カミさんも怒れまい。
 むろん、本当に部長のお供であったかどうかは関係ない。

 あるいは、デートの食事代を競馬でスッた学生サン。
「ごめんよ。バイト代、競馬でスッちゃった」
「どうしてよ!」
「キミに指輪をクリスマスプレゼントしたくて……。バイト代じゃ、とても買えないから」
 こう言われれば、彼女もそうは怒れまい。

「憎くてキミをリストラするんじゃない。会社がつぶれたら元も子もないんだ。わかってくれ」
「冗談じゃない! 会社が生き残って、われわれ社員が路頭に迷ったのでは、なんのためのリストラですか!」

 それぞれが〝錦の御旗〟を振りかざして、我田引水をはかる。
 世に言う《正義》とは、こんなものなのだ。

投稿者 mukaidani : 12:17

2008年12月16日

麻生総理を〝反面教師〟とせよ

 麻生内閣の支持率急落は、周知のように麻生総理の指導力の無さが原因である。

 解散するために登場したはずなのに、景気の非常事態ということで、解散を先送りにしたことから優柔不断のイメージができてしまった。

 麻生内閣がつぶれても私には関係がないが、早期解散を躊躇した麻生総理の煮え切らない態度は、大いに学ぶべきことがあるだろう。

 まず、予定どおり11月解散、総選挙に打って出ていたらどうだったろうか。

 勝てば「さすが麻生!」と賞賛だ。
 惨敗すれば、
「この経済非常時に解散するバカがいるか」
 クソミソに言われて即刻、退陣である。

 では来年、解散・総選挙ならどうか。
 勝てば、
「麻生のヨミはさすがだ」
 賞賛である。
 圧勝でもすれば、
「軽薄に見えるが、実は深慮遠謀の政治家だったのだ」
 評価はガラリと変わる。

 惨敗すれば、
「だから予定どおり11月に解散すればよかったのだ」

 つまり、いつ解散しようが、勝てば賞賛、負ければ非難というわけである。

 野球にたとえて言えば、1点差で負けている9回裏、ツーアウト満塁。一打逆転サヨナラの場面で、麻生総理が代打で登場したようなものだ。

 麻生選手は、打ち気満々でバッターボックスに入った。
 と、その瞬間、
(打って凡打になればゲームセットになっちまう。ヤバイぜ。ここは球を選んで〝押し出し〟という策もあるんじゃないか? 同点にして、なおツーアウト満塁となれば、オレの責任は果たせる)

 弱気の虫に屁理屈がくっついて、麻生選手の打ち気はそがれた。

 そこを見透かしたか、ど真ん中の直球が立て続けに2球。たちまちツーナッシングに追い込まれ、
「なんで、あの球を打たねぇんだ!」
 と非難されているのが、現在の状況だろう。

 ただし、ここで留意すべきは、「なんで、あの球を打たねぇんだ!」というのは結果論。

 果敢に打って出てヒットなら、
「よくやった!」
 賞賛の嵐。

 ところが凡打であったなら、
「なにやってんだ! じっくり球を選ぶべきじゃねぇか!」
 非難囂々である。

 あるいは、四球を選んで押し出しになれば、
「よく球を見た!」

 見送り三振となれば、
「バッキャロー! ビビらねぇで、一球目から打って出るべきだろッ!」
 非難囂々。

 11月解散と同じく、すべて結果論であり、勝てば拍手喝采、負ければボロクソ。

 ただ、日本人のメンタリティーとしては、同じ負けるにしても、「潔(いさぎよ)さ」を尊ぶ。
 座して死を待つより、積極的に仕掛けて討ち死にするほうを美化する。
「死中に活を得る」
 という、その勇気をホメたたえるのだ。

 麻生総理はここを読み違えたために、支持率は急降下したのである。

 私たちも、このことは肝に銘じるべきだろう。

 迷ったら、果敢に打って出るのだ。
 勝てば賞賛。
 たとえ負けたとしも、周囲はその度胸と気概を評価してくれるのである。

投稿者 mukaidani : 21:07

2008年12月12日

「知らぬが仏」とは、よく言ったもんだ

 今朝、気になっていたインフルエンザの予防接種に、近所の医院へ行った。

 混んでいたら後日にしようと思ったが、幸い4、5名しかいなかったので接種を受けた。
 接種後、異変がないか見るため、30分ほど待合室で休憩させられてから、帰ろうと席を立って、
(あッ!)
 と胸の内で叫んだ。

 入口にスリッパがある。
 患者さんたちの履き物が、きちんと下駄箱に納まっている。

 なんと私は靴を脱がず、土足のまま医院にあがって接種を受けていたのである。

 看護婦さんたちも、医師も、患者さんたちも、誰一人としてそのことを指摘してくれなかった。

(なるほど、これが〝知らぬが仏〟というやつか)
 と私は得心した。
 私があまりに堂々としていたので、誰も土足に気がつかなかったということなのだろう。

 このことを帰宅して女房に話し、
「何事も堂々とすべし」
 と諭すと、
「ああ、恥ずかしい。堂々じゃなくて、ツルっ禿のヘンな男が来たと思って無視されたのよ」
 相変わらずバチ当たりなことを言っていた。

 私は考え事をしていると、集中のあまり、ついポカをやるのだ。

 以前、某有名デパートの女子トイレに入ったこともある。
 考え事をしながらトイレに入り、やけに小さいアサガオ(男性の小便用便器)だな、と思いながら用を足し始めた。

 私の背後を女性客が何人か行き来する。

 用を足し終え、手を洗おうと思ったが、洗面台は女性客たちが鏡を見ながら化粧を直している。
 空きスペースがないので、手を洗わず、そのままトイレを出た。
 何かが脳裏に引っかかるというのか、なんとなくヘンだな、と思いながら歩いていて、
(あッ!)
 と胸の内で叫んだ。

 女子トイレに間違って入っていたことに気がついたのである。

 冷や汗、タラリ。
 もし、「キャーッ!」と女性客が叫んでいたらどうなっていたろうか。
「うっかり間違えまして……」
 本当であっても、警備員は耳を貸さず、警察に突き出されていたろう。
 よくぞ「キャーッ!」の悲鳴があがらなかったものだ。

 いま振り返るに、私があまりに堂々としていたため、オカマだろうと女性客は思ったに違いない。

 そんな経験から、「やっぱり人生、何事も堂々である」と、いまさらながら思うのである。

 余談ながら、女子トイレには、子連れ客のために、小さな男性用便器もあることを、このとき知った。

投稿者 mukaidani : 16:35

2008年12月08日

紅葉に「コトの本質」を考えた

 一昨日のことだ。
 自宅から数分の公園のそばをクルマで通っていて、
「おっ!」
 と感嘆した。

 樹木があざやかに紅葉していたのである。

 目と鼻の先にありながら、道場と逆方向にあるため、公園を見ることがめったになかったのだ。

 紅葉が見たくて、先月はわざわざ鬼怒川に行き、房総山間部にモミジを訪ねたというのに、灯台もと暗し。自宅から数分先に見事な紅葉があったとは、我ながら不覚の極みであった。

 ところが、見に行かないのである。
 日曜日は快晴であったにもかかわらず、公園に行く気は起こらず、昼飯を食いに逆方向の焼肉店へ行った。

 要するに、公園が近すぎて、
(行くぞ!)
 というワクワク感が起こらないのである。

 そう言えば、私はコスモスが好きで、女房にやかましく言ってコスモスを鉢に植えさせたが、ついぞ見た記憶がない。そのくせ、クルマに乗って、遠くまでコスモス見物に出かけるのである。

 どうやら私は、花や紅葉を無意識の口実としながら、「見に行く」という〝行為〟を楽しんでいるのではあるまいか。

 あるいは旅行が楽しいのは、観光ではなく、「自宅という日常から離れる」という〝行為〟そのものにあるのではあるまいか。

 そんな思いで人生を見渡せば、コトの本質が、少しだけわかるような気がする。

 高級レストランで食事するのは、おいしいということよりも、「高級店に行く」ということが楽しいのではないか。

 高級車を所有するというのは、乗り心地のよさよりも、「高級車に乗る」ということに満足感があるのではないか。

 こうしてコトの本質を考えていくと、自分を含め、人間の滑稽さに思わず笑ってしまうのである。

 そしてコトの本質について考え、納得すると、
(なんだ、くだらねぇことに執着していたな)
 という思いがしてきて、ちょっぴり気が楽になるのである。

投稿者 mukaidani : 05:09

2008年12月06日

「状況が変わった」という重宝な言葉

 ガソリンの小売価格が続落していると、ニュースで報じていた。

 結構なことだと思う一方、ガソリン価格高騰で悲鳴をあげたのはついこの間のこと。
 経済評論家とかアナリストといった肩書きの人がテレビに登場して、
「今年の年末には200円を超えるでしょう」
 と、したり顔でご託宣を述べ、我ら庶民の不安をあおった。

 これに対して、私はいささかの腹立たしさを覚えるのだ。

 200円どころか、100円を割ろうとしているではないか。

「いや、スマン。わしの予想が間違っておった」
 と頭のひとつも下げればまだしも、彼らはこんな能書きを言って自己正当化している。
「景気減速にともない、投機マネーが石油からいっせいに引き上げ……」

 要するに、予測がハズレたのではなくて、「経済状況が変わったせいだ」と居直っているのである。

 これなら、経済オンチの私にだって〝評論〟も〝予測〟もできる。
「エー、世界経済の回復は当分見込めそうもありませんので、ガソリン価格の下落はまだまだ続くと見ていいでしょう。リーター50円になっても、私は驚きませんね」

 それでもしガソリン価格が再び高騰すれば、
「懸念はしていたんですがねェ。経済状況がガラリと変わってしまいましたね。いまの状況では、リーター300円になっても私は驚きませんね」
「状況の変化」という言葉を枕に振れば、何だっていえるし、何だって言い逃れできるのである。

 そういえば麻生総理が、さかんに「状況が変わった」ということを口にしている。

 就任当初、早期解散するつもりが、支持率急落で解散できなくなって、その言い訳が、
「状況が変わった」

 小泉改革路線に対しても、
「当時とは状況が変わった」

 もちろん、状況によって柔軟に対応することは大切だ。

 だが、「柔軟な対応」は当面の手段であり、根っこは絶対に変節してはなるまい。樹木と同じで、葉っぱは紅葉したり落葉したりするが、根がしっかり張っているから四季を生き続けられるのである。

 政治家にとって根っこは何かと言えば、「国民のために」という大原則だ。
 ところが、麻生総理にはそれがない。
 ないように思えてしまう。
 だから信頼がないのである。

 私たちも同じだ。
「確かに、そう約束したよ。だけど、あのときと状況が変わったんだ」
 こんな変節漢になってはならない。

 だが視点を変えるなら、前言を翻(ひるがえ)すには、重宝な言葉であることもまた、事実なのである。

「もうしわけない。しかし、あのときと状況が変わって……」
 誠意をもって変節すれば、それは変節漢とは呼ばれまい。

 すなわち言葉は、「態度」によって、是にもなれば非にもなる。
 これが、メールでは及ばない〝会話の妙〟というやつなのである。

投稿者 mukaidani : 12:55

2008年12月04日

ブッダと、親父と、屁理屈と

 今朝、畑に行くクルマのなかでのこと。
「いやァ、薬がよう効いてのう。朝までぐっすりじゃった」
 84歳の親父がバカにご機嫌で、後部座席からペラペラと安定剤の効能についてしゃべり始めた。

「眠れてよかったじゃない」
 女房の相槌が〝火に油〟となり、畑に着くまで親父のペラペラは続いていた。

「眠りが浅くて、すぐ目が覚める」
 と、親父がブツブツ言い出したのは、先月の中旬だったろうか。

「昼寝をするからじゃないのか」
 私が言うと、
「そうじゃない」
 親父はムキになって、
「夜、眠られんけん、昼に寝とるんじゃ」

 さすが私の親父である。
(ナルホド、ものは言いようじゃわい)
 と妙な感心をした。

 仏陀(ブッダ)とは「目覚めた人(さとり)」という意味だが、お釈迦さんは仏陀になる前はゴーダマシッダールタと言った。
 この名前をもじって、私は〝夜、目覚める親父〟のことを「爺っちゃまシッダールタ」と名付けていたのである。

 その「爺っちゃまシッダールタ」が、医者で安定剤を処方してもらってから、目覚めなくなったというのである。
 惜しいではないか。
 もう一息で、〝さとり〟を得て、ブッダ(目覚めた人)になれたのに……。

 そんなことを考えながら、畑を耕していると、そうと気づかずイモリを鍬で殺してしまったのである。

 かわいそうなことをした。
 ナンマンダブと念仏を称えてから、
(おまえが草の陰にいるから悪いんだぞ)
 とイモリに告げて、ふと気がついた。

 小動物を殺してさえ、「おまえが悪い」と、私は自己正当化しているのだ。

「夜、眠られんけん、昼に寝とるんじゃ」
 とムキなった「爺っちゃまシッダールタ」と同じではないか。

 どんな身勝手なことをしても、理屈はついてまわる。
 そして、それぞれの理屈が、
「わしは正しい」
 と主張し合うのだ。

 人間社会というのは、何と厄介で、滑稽で、そして愉快なことか。

 そんなことを思いながら、2時間ほどかけて畑を耕して帰った。
 

投稿者 mukaidani : 13:24

2008年12月01日

諸悪の根源は《正義》にあり

 タイの空港占拠事件、インドの同時多発テロ事件、ナイジェリアで激化するキリスト教徒とイスラム教徒の衝突……。

 それがテロであれ、民主化運動であれ、宗教対立であれ、それぞれの国や組織が《正義》を掲げ、命懸けで戦っている。

 つまり古来より、《正義》は国や組織の数だけ存在するということだ。

 いや、人間の数だけ《正義》は存在すると言ってもいいだろう。この世のなかは、〝八百万(やおよろず)の神様〟ならぬ「八百万の正義」ということなのである。

 そして、対立する《正義》においては、力の強い者、声の大きい者に軍配が上がる。
 逆説的に言えば、《正義》という言葉が存在する限り、国は戦争をし、個々人はいがみ合うということになる。

 すなわち、諸悪の元凶は《正義》にあるのだ。

投稿者 mukaidani : 08:02