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2008年11月29日

釈迦と凡夫と、どこが違う?

 お釈迦様は罪つくりな方である。

 なぜなら、インド北部を治める釈迦族の王子として生まれ、なに不自由なく暮らしていたというのに、
(この世に生きることにどんな意味があるのだろうか)
 と悩み、出家してしまったからである。

 王子様の境遇は我ら庶民のあこがれであり、王子や王様になれなくとも、少しでもいい暮らしをしたいと願う〝目標〟でありながら、その〝目標〟が、生きることの意味を求めて苦悩するのだから、我々は何を人生の目標にして生きていけばいいのだろう。

 まったく罪つくりな話ではないか。

 しかも、お釈迦さんが難行苦行の末に悟ったことといえば、「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「涅槃寂静」の4つ。

 この4つを四法印と言い、その意味は、
「あらゆるものは変化し続けている」
「あらゆるものは因縁によって生じ、そこから独立した自己は存在しない」
「人生は苦である」
「煩悩から解き放たれたら安らかな気持ちになる」
 というもの。

 ただし、四法印などと言うからもっともらしく聞こえるのであって、この4つは、私たちもとっくに知っていることなのである。

「栄枯盛衰は世の習い、とはうまいこと言ったもんでんな。わしも昔は、ええ生活しとったのに、いつまでも続きまへんがな」(諸行無常)
「しゃあないな。自業自得、自分でまいた種や」(諸法無我)
「貧乏ヒマなし。人生、苦もんやで」(一切皆苦)
「働けど我が暮らし楽にならず。いっそ首くくったら楽になれるんやがなァ」(涅槃寂静)

 私たちは難行苦行などしなくても、四法印は先刻、身にしみて知っているのである。

 だが、私たちは、四法印という真理を実体験で知ってはいても、悟りとはほど遠いところにいる。

 なぜだろうか。

 それは、釈迦は四法印を人間が本来、裡(うち)に有しているもので、「人や環境のせいではない」と説き、ここから人生を観るのに対して、私たちの〝四法印〟は、その逆。
「あいつが悪い、社会が悪い、運が悪い……」

 みんな人や環境のせいにして人生を観る。口に出さずとも、心のどこかにそんな思いがある。

 だから四法印を実体験で知ってはいても、〝悟り〟とはほど遠く、不平不満のうちに人生を終えるのである。

 釈迦族の王子様は、恵まれた境遇をわざわざ捨てることで悟りに至った。
 私たち庶民が王子様ほど境遇に恵まれていないということは、逆説的に言えば、それだけ悟りに近いスタンスにいる、ということになるのではないか?

 王子様の地位を捨てたお釈迦さんのことを〝罪つくり〟と思いながら、一方で、ふとそんな思いがよぎっるのである。

投稿者 mukaidani : 19:33

2008年11月26日

日雇い派遣問題を考える

 周知のように、日雇い派遣の劣悪な労働条件が社会問題になっている。

 安い賃金、いつ仕事を切られるかわからない不安、機械の歯車のように扱われる労働環境……。

 麻生総理は、アジア太平洋経済協力会議(APEC)でリーダーシップを発揮したと自画自賛しているようだが、経済大国である日本の〝富〟は、いったいどこに在るのだろうか。

 日雇い派遣という社会問題を考えれば、「経済大国」であることと「国民の幸福」は同じでないことに気がつくだろう。

 だが一方で、ついこの間まで、
「フリーターや派遣こそ、自由な生き方である」
 とした若者意識はなかったろうか。

「きちんと就職したほうがいいぞ」
「いやっスよ」
「なんで」
「会社に縛られるから」

 会社や職場の人間関係に縛られるより、フリーターとして気楽に働いたほうがいい、という価値観である。

「フリーターと言えば聞こえがいいが、不安定で、大変だぞ」
 かつてフリーライターをやっていた私が言うのもヘンだが、フリーという不安定な生活を知るだけに、老婆心ながら忠告すると、
「大丈夫っスよ。いまの時代、何やっても食っていけますから」
 私が保護司として担当した若者はそう言って笑った。

 なるほど経済成長の時代はフリーターもよかった。
 時給の高い仕事を探してどんどん移っていく。
 派遣会社もそれにつれて伸びていき、ここに企業が〝雇用の安全弁〟として目をつけるのは当然だったろう。

 派遣ブームが起こる。
 「スキルを磨いてステップアップ」と派遣会社があおり、企業の思惑と相まって、派遣が労働現場を支えるシステムができあがった。
 そして、このたびの経済危機で、企業は予定どおり派遣労働者を切っていったのである。

「大丈夫っスよ。いまの時代、何やっても食っていけますから」
 若者が言った言葉を、私は思い浮かべる。

 楽観は人生の〝潤滑油〟のようなもので、生きていくうえに不可欠なものだ。

 だが、根拠のない楽観は、往々にして裏切られるものだ。

 緻密な計画を立て、それに向けて努力し、結果については「なんとかなるさ」と楽観する。
 これが本当の意味で「楽観」であろう。

 派遣の問題は多くのことを私たちに問いかけている。

 正規社員のリストラも始まった。

「働く」とは「どう生きていくか」という、個々人の人生観にかかわる問題なのである。

投稿者 mukaidani : 11:38

2008年11月21日

所詮、人生は、ないものねだりか

「お昼はどうするの?」
 女房から、道場の仕事部屋に電話がかかってきた。

「何度、言ったらわかるんだ。昼だからメシを食べる、というのは間違っている。メシは、腹が減ったら食べるものだ」
「いいから、どうするのよ」
 うんざりした声で、女房は取り合わない。「食事」と「人生」という深遠なるテーマについて話してやろうと思っているのに、罰当たりな女である。

 私は「食事の時間だから食べる」という考え方を断固、拒否してきた。
 動物を見よ。
 彼らは腹が減るからエサを漁るのであって、
「朝だから、昼だから、夜だから」
 と時間で食事をしているわけではない。

 腹が減ってもいないのに、食事時間だから食卓につくというのは、自然の摂理に反するというのが私の信念なのである。

 そういう私の考え方を女房は承知しているはずなのに、先程、おにぎりを届けてきた。
「いま電話で言ったろ。昼だから食べるという考え方は……」
「わかってるわよ。食べようと食べまいと好きにすればいいでしょ。あなたの我が儘につき合っているヒマはないのよ」
 言い置いて、そそくさと帰って行った。

 なるほど、女房の言うとおりだろう。
 となれば、我が儘に、そして思うように生きようとするなら、女房や人に頼るのではなく、天涯孤独にならなければだめであるということに改めて気がついた。

 私の好きな詩に、藤原惺窩(せいか)の『山居』(さんきょ)というのがある。
《青山(せいざん)高く聳(そび)ゆ、白雲の辺(ほとり)
 仄(ほの)かに樵歌(しょうか)を聴いて世縁(せいえん)を忘る……(略)》

 娑婆のしがらみに苦しむ人間は天涯孤独にあこがれ、天涯孤独に苦しむ人間は娑婆のしがらみにあこがれる。

 晴耕雨読、そして時間に縛られず、腹が減ったら食べるという人生にあこがれつつ、
(所詮、人生は、ないものねだり……)
 とつぶやくのである。

投稿者 mukaidani : 16:00

2008年11月18日

どうして人間は緊張するのだろうか

 昨日は、『月刊BSL』のゲストスピーカーに招かれた。

『月刊BSL』は、中小企業のビジネスの成功を支援する『BSL―ビジネス成功研究会』の有料会員向けサービスの一つで、経営情報が詰まったラジオ番組風の音声教材CDである。

「編集は一切なしです。ラジオの生番組だと思っていただければいいでしょう」
 担当編集者の榊原氏が、ニコやかな笑顔で過不足なく指示をしてくれる。
 執筆の場合もそうだが、担当者が優秀だと、安心なような、手抜きができないような、複雑な気持ちになるが、このときもそうであった。

 気がかりは「編集なし」。余計なことをポロリと言えば、それが記録として残ってしまうではないか。

 だいたいが余計なことを知りすぎているので、緊張よりも、ついポロリを心配しながら、録音スタジオに入ったのだが、パーソナリティーの倉島麻帆さんの巧みなリードで何とか無事録り終えた(と思う)。後半のフリートークでは、㈱創客営業研究所代表の木村尚義氏に加わっていただき、楽しい収録になった。

 帰途、「しゃべる」ということについて考えた。

 人間は本来、おしゃべりである。
 おしゃべりどころか、「 もの言わざるは腹ふくるる業(わざ)」と言われるように、しゃべらないでいるというのはストレスになる。

 ところが、結婚披露宴などでスピーチするのは、みんなが嫌がる。
 しゃべるのは大好きなのに、人前でしゃべるのは大嫌いなのだ。実際、自分のスピーチが終わるまでは、気もそぞろで、食事もノドを通らないという人も少なくない。

 ならば、この「人前」とはいったい何だろうか。

 たとえばオリンピック選手が競技に臨んで緊張するのはわかる。
 国や郷里の期待を一身に背負っており、
(それに応えられなかったどうしよう)
 というプレッシャーから緊張する。

 しかし、結婚披露宴のスピーチは、誰も期待などしていないのだ。
 期待の逆で、
(どうせ、ろくでもない長話をするんだろう)
 と、うんざりしている。

 それにもかかかわらず、当の本人は大マジメで緊張しているのだから、考えてみれば滑稽なことである。

「人前」というテーマは実におもしいろものだと一人で頷きつつ、家路についたのである。

投稿者 mukaidani : 13:37

2008年11月14日

耕耘機なんぞ、クソくらえ!

 昨日、畑に出かけた。

「ジャガイモを植える準備をせにゃいけん」
 と、指南役の親父が言い出したからだ。

「ジャガイモは来年だろ?」
 私は忙しいので、やんわり抗議するが、
「畑を少しずつ耕しておくんじゃ。いっぺんにゃできん」
 と84歳は譲らず、
「それに」
 と女房に向かって、
「収穫があるじゃろう」

 このひと言で、女房の表情が一変。
 それまで私の味方をしていたのだが、
「そうよ、収穫しなくちゃ」
 バチ当たりが、嬉々とした笑顔で私に言ったのである。

 かくして畑に出かけた次第。
 久々の晴天だそうで、Tシャツ一枚になって鍬を打ち込んでいると、親父と女房の会話が聞こえてくる。

「これだけの畑を耕すのは大変じゃ。耕耘機を買おうか?」
「そうだわね」
「じゃ、明日にでも見に行ってみるか。――おい、明日、耕耘機買いに……」
「ダメだ!」
 私は振り返って叫んだのである。

 晴耕雨読とはいかないまでも、鍬を振るうことを楽しみにしてきたのではないか。
 商売でやっているのではない。
 不便さゆえに、畑仕事の楽しみがあるのだ。

 ところが人間というやつは、馴れるに従って「便利」という工夫を始める。
 スローライフとやらを求めつつも、精神構造は結局、〝ファーストライフ〟のままなのである。

《這えば立て、立てば歩めの親心》
 という言葉が唐突に脳裡をよぎった。

 我が子の成長を心から願う親心、とこれまで解釈してきたが、そうではなく、〝親の欲目〟のことを言っているのではないか。

 いや、〝親の欲目〟を引き合いに出しつつ、人間のあくなき欲求を揶揄(やゆ)しているのだと、畑で気がついたのである。

 ただ鍬を打つことに喜びを見いだしていたはずなのに、耕耘機を買うの、軽トラックがどうのと言い出し、そのうち作物を市場に出荷してみたくなるだろう。

 すなわち、
《打てば耕耘機、買えば市場のスローライフ》
 ということになる。

 その結果、またぞろ苦労を背負うことになるのだ。

 趣味は楽しむものであって、決して凝ってはならない。
 いま、そんなことを本気で考えるのである。

投稿者 mukaidani : 14:54

2008年11月11日

閃きと、メモと、シュレッダー

 私の仕事術は〝瞬間芸〟である。

 テーマの〝眼目〟が閃(ひらめ)き、ピタリと照準が合った段階で、原稿は仕上がったも同然となる。

 言い換えれば、閃かなければ原稿は仕上がらないというわけで、稽古のときも、食事をしているときも、風呂に入っているときも、常に頭の片隅でテーマを遊ばせておいて、ひたすら閃きを待つのである。

 問題は、閃きというやつは、時と場所を選ばないことだ。

 風呂で閃けば、
「おーい! 紙と筆記用具!」
 女房に怒鳴る。

 運転中に閃けば、信号待ちで素早くメモする。

 先夜は、ベッドに入ってウトウトしかけたときに閃いた。
 眠い。
 葛藤の末、ようやくベッドから抜け出てメモをした。

 で、翌朝。
 道場内にある仕事部屋に出かけて、
「あッ!」

 不要の紙と一緒に、閃きを書きつけたメモをシュレッダーにかけてしまったのである。

 閃きは、閃きゆえに記憶に残らない。
 だからメモをするのだが、そのメモはシュレッダー……。

 逃がした魚は大きいと言うが、このときの落胆と後悔は、ポカをやって大魚を逸した気分なのである。

 誰が悪いのでもない。
 自分が悪いのだ。
 だから余計に腹が立つ。

 こうしてみると、他人を羨(うらや)んだり怒ったりするほうが、はるかに精神状態がいいことに気がついた。

「うまくいったら自分の手柄。失敗したら他人のせい」

 これでいいのだ。

 自責の念と自己嫌悪が精神を病むということを、シュレッダーは私に教えてくれたのである。

 

投稿者 mukaidani : 07:25

2008年11月05日

小室哲哉と守谷前次官の人生に思う

 今朝、畑に出かけた。
 収穫は白菜にキャベツ、ニンジン、サツマイモ、水菜、小松菜、ヤーコン、里芋など、ほんの少量ずつだが、種類だけは盛りだくさんだった。

 野菜の栽培と同じように、百円玉を植えて一万円札の収穫になればいいのにと思ったが、そういえば〝金の成る木〟というのがあることを思い出して、人間、考えるのは同じだと苦笑した。

 例によって収穫係は女房で、私は指南役の親父の指示で、豆類を植える準備のため、エッチラオッチラ畑を耕した。

 鍬(くわ)を振るいつつ、出かけしなにイタンーネットで見た防衛省前次官・守谷被告の判決を思い浮かべていた。
 退職金を全額返還するため、自宅を売りに出したが買い手がつかず、担保に入れて3500万円の借金をしたという。再就職先もない。追徴金の支払いもあり、生活に窮していると報じていた。

 昨日は、小室哲哉が詐欺容疑で逮捕された。
 わずか10年で銀行口座にあった100億円を使い切り、逆に10数億円の借金を負ったという。

 生活費は月に800万円、事務所運営費も月に1200万円。
報道では、詐欺の原因の一つとして、「1度味わった華やかな生活レベルを落とせなかったプライド」をあげていた。

 確かにそれはあるだろう。
 だが私は、プライドと言うよりも、
「いつまでもいまの生活が続く」
 と小室が信じ切っていたことが真因だろうと思う。

「〝時代の寵児〟が、いつまでも寵児でいられるはずがない」
 という《無常観》が小室哲哉には欠落していたように思う。

 守谷元次官も同じだ。
 権力者としての生活がいつまでも続くと思いこんでいた〝無常観の欠落〟が、墓穴を掘ったのだろう。

「よくも悪くも、いまの人生が未来永劫、続くわけではない」
 という《無常観》を、私たちはしかと肝に銘じるべきだろうと、畑に鍬を打ちながら考えた次第。

 満(み)つれば欠けるのが世の習いなら、欠ければ満つるのもまた、世の習いということになる。

「驕(おご)るべからず、悲観するべからず」ということか。

投稿者 mukaidani : 16:17

2008年11月02日

電車の「優先席」を見て考える

 都内に出るときは、いつもクルマを運転していくのだが、昨日は気まぐれで電車に乗った。

 席が空いていると思ったら「優先席」だった。

 優先席としてシルバーシートが登場したとき、いよいよ日本も社会のコンセンサスとして、思いやりの時代に入ったものと感心したことを覚えている。

 だが最近は、優先席に対して、少し考え方が変わってきた。
 老人や妊婦、身体にハンデを持っている人に席を譲るのは、人間として当然のことなのだ。それをわざわざ「優先席」として設置しなければならないということは、席を譲る人が少なくなったということになる。
「優先席」のある社会は健全なのだろうか?

 あるいは「挨拶」。
「挨拶をしましょう」
 という子供たちに対する教育は、言い換えれば、子供たちが挨拶をしなくなったということだ。

 挨拶するのは当たり前のことではないか。
 その当たり前のことが〝挨拶運動〟になるということは、家庭における躾(しつけ)の崩壊を象徴しているように、私は思える。

 なぜなら躾とは、社会規範を教え込むことだ。
 挨拶するのに理屈はない。
 社会人として、挨拶はするものなのだ。

 ところが価値観の多様化によって、躾に理屈を持ち込むようになった。
 躾は理屈で説明できないから、親は無意識に躾を敬遠するようになった。

 その行き着く先が、
「どうして人を殺しちゃいけないの?」

 この質問に、親は戸惑う。
 だが、親は気づいていないだろうが、戸惑いの本質は「問い自体」にあるのではない。「そんな問い」を発する子供の価値観に戸惑っているのである。

「オレだって電車賃を払っているんだ。なんで年寄りに席を譲らなくちゃならないんだ」
 こんな屁理屈をこねる子供にしてはならない。

「お年寄りには席を譲るものだ」
 理屈を超えて叩き込む。
 これが躾だと私は考えるのである。

投稿者 mukaidani : 18:15