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2008年10月31日

続・子供に檄を飛ばしてみると……

「上達するには反復練習!」
 道場で小学生たちに檄を飛ばしたところが、
「……」
 反応がイマイチ。

 そこで、
「反復練習だぞ! わかったのか!」
 さらに声を張りあげてみたが、
「はい……」
 どうにも反応が鈍い。

 と、ふと疑念がよぎり、
「キミら、反復練習の意味がわかっているか?」
 問いかけてみると、
「半分練習……」
 一人が自信なげに口を開き、みんながそれに同調してうなずいている。

 《反復》を《半分》と理解しているのだ。 

 これには私も狼狽して、
「キミら、反復の意味を知らないのか?」
「知ってる」
「半分という意味でしょう?」
 どうりで話が通じないはずである。

 そこで白板に《反復練習》と書き、その隣に《反復横跳び》と書いて、
「反復横跳びと同じ〝反復〟。これは繰り返すという意味で……」
 と説明し、子供たちは納得した。

 このとき、
《人を見て法を説く》
 ということを再認識しつつ、
(しかし、人を見て法を説くには、まず〝人〟を知らなければなるまい)
 と思った。

 同じ仏法を説く場合、サラリーマンとフリーターとでは説き方を変えたほうが、相手はより深く理解できるだろうが、そのためにはサラリーマンのこともフリーターのことも知らねばなるまい。

 すなわち、
《人を見て法を説く》
 とは、
《人を知らずして法を説くべからず》
 という逆説になる。

 昨日、麻生総理が経済政策を発表した。
 総理の言葉は空虚で、説得力に欠けた、
 なぜだろうと考えていて、その意味がわかった。
 国民の心情を知らずして、経済政策を説いたからである。
 

投稿者 mukaidani : 16:30

2008年10月27日

子供に檄を飛ばしてみると……

 昨日は、佐倉市民空手道大会があり、まる1日、体育館にいた。

 参加選手は幼児から一般まで、市外近隣からの参加もあり、実数で500名を超える大盛況。9コートに分かれて熱戦が繰り広げられた。

 もっとも、私など〝枯れ木も山のにぎわい〟で、特に用もなく、本部席に座って斯界の長老の話し相手をするくらいだったが、それだけにヒマで、午後からは不謹慎にもアクビを噛み殺していた。

 それはさておき、試合前日の土曜日のこと。
 小学生のクラスがマジメに稽古しないので、
「こらッ! 1回戦でコロリと負けたら腕立て伏せ20回だぞ!」
 私が怒鳴ったところが、
「じゃ、館長。いま20回やっとけば、試合のあとでやらなくていい?」
 3年生の女子がニコニコしながら言った。

 私は一瞬、絶句したが、
「いいぞ」
 成り行きでOKしたとろが、
「じゃ、俺も!」
 別の男子が腕立て伏せを始めた。
「じゃ、俺も」
「私も」
「俺、10回だけやっとこ!」
 何人もがワイワイ言いながら腕立て伏せを始めたのである。

 それを眺めながら、私の心中は複雑だった。
 屈託がないというのか、欲がないというのか、私の心を知らずというのか……。

 そんな子供たちも、大会当日は目の色を変えて頑張っていた。優勝した子もいれば、1回戦で敗退した子もいるが、そんな姿を見ていると、技術の巧拙はどうあれ、やはり可愛いものだ。

 さて、明日は稽古。
 1回戦敗退組に何と言ってやろうか、いま考えている。
「腕立て伏せ20回!」
「土曜日にやっています!」
 そんなやりとりが目に見えているだけに、どう切り返してやろうか、あれこれ考えているのだが、名案はいっこうに浮かんではこないのである。

投稿者 mukaidani : 23:31

2008年10月25日

女房の脊柱湾曲と「不幸の本質」

 女房の脊柱が湾曲していた。
 背中が痛いというので病院で看てもらったら、そうと診断された。

 私は打ち合わせで外出していたので、そのことを女房から電話で知らされて、
(それは大変だ!)
 と思ったわけではない。

 私は脊柱管狭窄症があることから、
(ヤバイのは俺だけじゃないぜ)
 と〝仲間〟ができた気分だったのである。

 もちろん可哀相だとは思うが、生活に支障があるわけでもないし、
「体重を減らさなければ腰に負担がくるゾ」
 という〝警告〟を、私は10年以上も前から発している。

 警告を鼻で笑っていた罰であり、これを機に健康について真剣に考えることになれば、災い転じてなんとやら、であろう。

 人間は、不幸な状況にあるとき、〝仲間〟ができると安堵する。
 たとえば1万円を落としてガッカリしているとき、友人が、
「俺、1万円落としたんだ」
 と、落胆する顔を見れば、何だか救われたような気分になる。

 自分が1万円を落としたという事実は変わらないのに、なぜ気持ちが救われるように感じるのか。

 それは、不幸に見舞われ、落胆したり苦しんだりする本質は、不幸そのものではなく、
(なぜ自分だけが、こんな不幸にあわなければならないのか)
 という、〝自分だけが〟にあるからだろうと思っている。

 だから、同じように不幸な目にあう人間が出てくると、〝自分だけ〟ではなくなる。「同病相憐れむ」で、気持ちが少しでも救われるのは、そういうことなのだろう。

 ついでながら、ハッピーなときは、逆だ。
 1万円を拾って、心浮き浮きしているときに、友人が、
「俺も拾ったぜ」
 と喜色を浮かべて言うと、何となく面白くない。

 まして、
「俺が拾ったのは2万円だぜ!」
 と自慢されれば、1万円を拾っておきながら、何だか自分が損をしたような気分になる。

 不幸なときは「自分だけが」という思いに苦しみ、ハッピーなときは、「みんなも一緒」という思いに不満を抱くというわけである。

 電話口の向こうで、女房が気落ちした声で続けている。
「それで、腰のコルセットをつくることになったのよ」
「そうか、それは大変だな。で、コルセットをつくる費用は定額なのか、それとも面積に応じて加算されていくのか?」
 一瞬の沈黙があって、
「ちょっと、どういう意味なのよ!」
 脊柱が湾曲したくらいで、落ち込むようなタマではないのである。

投稿者 mukaidani : 11:28

2008年10月22日

損保、生保のCMを観て考える

 損保と生保のテレビCMが一日中、流れている。
 イチャモンをつけるわけではない。
 ただ、観ていて〝違和感〟を覚えるのだ。

 それが何であるのか考えているうちに、ハタと思い当たった。

 どのCMも、
「ほら、こんなにみなさんのためを思っているんですよ」
 と〝善意だけ〟を強調していることが、何となく胡散(うさん)くさく感じられるのである。

「みなさんため=我が社の得」ということを視聴者は先刻承知であるにもかかわらず、「我が社の得」という部分を頬っかむりし、「みなさんため」だけを強調するから、
(なんだかなァ)
 と違和感を覚えるのである。

 違和感を覚えつつ、このことは、私たちが人に忠告したり、励ますときに留意すべきことだろうと思った。

「キミのためを思うからこそ叱っているんだ」
「お勉強しなさい。あなたのためなのよ」

 確かにそのとおりだろうと相手は思いながらも、
(でもなァ)
 と釈然としない気持ちがするのは、「あなたのため=私のため」という図式が漠然と見えているからだろう。

 どう叱り、どう励ますか。
 損保、生保のCMを目にすると、私はそのことを考えるのである。

   

投稿者 mukaidani : 12:05

2008年10月20日

メールはウソをつきやすい

 米リーハイ大学チームの実験では、電子メールの場合、ウソをつく確率が手書きの1.5倍になるのだそうだ。

 その理由として、
「ウソがバレたとき、手書きの文書は責任が問われやすいなどと感じるためらしい」
 と記事は書いている。

 これを、私なりに解釈すれば、
「手書きは言い逃れができないため、ウソを書きにくい」
 ということだろうと思う。
 メールであれば、「打ち間違い」という言い訳もできるが、手書きはそうはいくまい。

 私もメールを多用するが、最近はハガキなど、なるべく手書きの手紙を出すようにしている。

 と言うのも、手紙を頂戴し、しかもそれが手書きであれば、
(ご丁重に恐縮です)
 と、そんな気分になってくるからである。

 ならば、私もそうしようと、購入して30年になる愛用のモンブランをリフレッシュに出し、手書きをするようになった次第。

 だが、「電子メールはウソをつく確率が手書きの1.5倍になる」という記事を読んで、いささか考え方が変わってきた。
(ご丁重に恐縮です)
 という私の思いは、手間ヒマへの感謝よりもむしろ、「手書きの手紙はウソをつきにくい」という無意識の直感が働いていたのではないか、と思ったのである。

 パソコンで打つ手紙は、「書いた後で直せばいい」と安易に書き始めるが、手書きではそうはいかない。
 書き出しの文字一つに全神経が込められている。
 その緊張感が、たぶん行間から伝わってくるのだろう。

 中断して久しい書道を始めたくなった。
 暗記しなければならないお経もある。
 いい機会だ。
 一日に五分でも十分でもいい。
 写経しつつ暗記しようかと、そんな思いでいる。

 

投稿者 mukaidani : 03:57

2008年10月18日

母の死に目

 歌舞伎俳優の中村獅童が、亡父の通夜で、
「親の死に目に立ち会えない役者で幸せでした」
 と目に涙をためながら気丈に語ったと、昨日の記事に出てた。

 私がマスコミ界に飛び込んだとき、
「芸能人とスポーツ選手とジャーナリストは、親の死に目にあえない覚悟がいる」
 と、先輩に言われた。

 大学を卒業した年で若くもあり、
(そんなものか)
 と、さして気にもとめなかった。

 ところが、それから8年ほどが過ぎ、母がガンに冒された。暮れに見舞いをかねて広島県呉市に帰省し、元気な顔を見て帰京した3ヶ月後。容態が急変し、危篤であるという知らせを受けた。

 すぐに帰りたかったが、翌日、雑誌の〆切原稿を抱えていた。当時はメールはもちろん、ファックスも珍しいころだった。

 私は徹夜で原稿を書いた。
 翌朝、女房と幼い子供二人を連れ、地下鉄九段下駅で編集者と待ち合わせ、原稿を手渡して東京駅へ急いだ。
 まだ携帯電話のない時代で、母の容態はわからない。

 気をもみながら、母が入院していた病院へタクシーを飛ばした。
 暗くなった病院の玄関先で、イトコが私たちを待ってくれていた。
 私は母の死を直感した。
「いま、家に連れて……」
 と、イトコは小さな声で言った。

 そのとき、
「芸能人とスポーツ選手とジャーナリストは、親の死に目にあえない覚悟がいる」
 と言った先輩の言葉を思い浮かべた。

 そんな昔のことを中村獅童の記事を読みながら、ふと思い返した。

 来年3月10日、母の27回忌を迎える。

投稿者 mukaidani : 16:39

2008年10月16日

説教に、子供たちの逆襲

 稽古中におしゃべりする子が多くなってきたので、昨日、稽古が始まる前に注意することにした。

 おしゃべりは注意力が散漫になって、稽古のさまたげになるからだ。

 で、子供たちにどう話しをするか。

「しゃべってはいけない!」
 と叱るのは簡単だが、それではなぜ私語がいけないのか、子供たちにはよく理解できないだろう。

 そこで、携帯電話を例に引くことにした。
 クルマを運転中の携帯電話がなぜ違反であるかを例に引き、「注意力散漫」に話をもっていこうとしたのである。

 全員を正座させて、私が切り出した。
「エー、クルマを運転中に、どうして携帯電話で話しをしてはいけないか、わかる人!」
 誰も手を挙げない。
 子供たちは顔を見合わせながら、ザワついている。
 やおら一人が、私を諭すように言った。
「館長、運転しながら携帯電話で話しをしてもいいんだよ」

 これには私が驚いて、
「何を言うんだ。話してはいかんのだ」
 あわてて言うと、子供たちは口々に、
「いいんだよ」
「そうだよ」
「みんな運転しながら話してるもん」
「館長、知らないの?」

 私はタジタジとなり、ついぞ「おしゃべり」と「注意力散漫」について話をすることができなかった次第。

 大人は子供の見本である、などと青臭いことは言うまい。
 
 ただ、「子供は大人たちを見ている」ということだけは忘れてはなるまいと、私は自分に言い聞かせたのである。

投稿者 mukaidani : 16:35

2008年10月14日

子供を〝手のひら〟で転がす面白さ

 毎週火曜日は、夕方5時から10時まで4コマの稽古である。

 5時からは幼児、小1のクラスだが、4時45分には道場へやってくるから、4時30分には着替えてスタンバイしている。

 となると、執筆していても、4時には気が散って落ち着かなくなる。皮肉なもので、稽古時間ギリギリまで書いていると、次第に調子が出できて筆を置けなくなってしまうのである。だから、いまは4時になると、さっさと店仕舞いにかかるというわけだ。

 子供は指導していて面白い。
 何が面白いかというと、言うことをきかないことである。
 きかない子供たちを相手に、怒らずして、どう自分の手のひらで転がすか。ここに面白さを見つけたのである。

 たとえば、みんなの前で一人ずつ型をやらせてみる。
 小学校低学年までは、おだてれば嬉々としてやる。調子に乗せすぎると、何度でもやりたがる。

 高学年や中学女子になると、自意識が出てくるから、
「わたし、やりたくない」
 と言い出す子がいる。

「なんでだ?」
「ヘタだから」
「そんなこと言ってないで、やってみろ」
 と説得したのではダメ。
「いやです」
 ムクれて黙ってしまう。

 だから私は、こんな言い方をしてみるのだ。
「いいか、上手になったからみんなの前で演舞するんじゃないんだ。みんなの前で演舞するから上手になるんだ」
「……」

 そこは子供。
 もっともらしい〝言い回し〟に思考がついていけず、
(そんなもんかしら)
 という顔で、演舞を始めるのである。

 子供の指導には、こんな楽しみと面白さがある。

「もう、親の言うことをきかなくて困ってるんですよ」
 と嘆く親御さんがいるが、これではせっかくの楽しみを放棄しているようなものだ。

 我が子をいかに手のひらで転がすか。
 やってみればわかる。ご亭主を転がすより、はるかにスリリリングで面白いことに気がつくはずである。

投稿者 mukaidani : 23:18

2008年10月12日

やっとこさ校正が終わった

 一昨日の夜のことだ。

 道場から帰宅すると、女房が、
「腹が痛い」
 と顔をしかめている。

「どうした?」
「背中というか、お腹というか、なんか痼(しこ)りがあるみたいな感じで」
「ウム。それは塊(かたまり)だな」
「?」
「欲の塊だ」
「ちょっと!」
 急に元気がもどってきた次第。

 ブログ本『道は目前にあり/ここにある。幸せの瞬間』の見本が版元のディベロップ東京出版から送られてきた。

 自分で言うのも何だが、なかなか素晴らしい。
 拙文はともかく、齋藤文護氏の写真はぜひご覧いただきたいと思う。ページをくっていると、ほのぼのと「人生」というものが伝わってくるだろう。17日発売である。

 人生と言えば、今月はもう一冊、拙著が出る。
 書名は『釈迦が教える「ビジネスの知恵」』(青志社)。

 実を言うと、いまゲラの校正を終え、ひと息つきつつ、このブログを書いている。
 午後9時までに校正を終えてスーパー銭湯へ行くつもりであったが、すでに10時30分。
 しょうがない。
 これから帰宅し、自宅の風呂につかって本でも読むことにしよう。

投稿者 mukaidani : 22:33

2008年10月09日

東国原知事の「今のところ」考

 東国原知事が出馬するのかどうか、メディアをにぎわせている。

 彼が繰り返し口にする「今のとろは考えていません」という言葉にズルさを感じるのは、私だけだろうか。

 出馬しないなら「しない」と言えばすむことなのに、「今のところ」という〝保険〟をかけるところがいやらしいのである。

 記者会見で、出馬について執拗に質問され、
「私の姿勢は一貫している」
 と逆ギレしていたが、これは彼の思いあがり。

 たとえば、こんな例はどうか。

 婚約者の彼女が、彼氏に尋ねる。
「ねぇ、わたしのこと、愛してる?」
「今のところは愛しているさ」

 これで彼女は納得するだうか?

「ちょっと、どういうことよ。将来は愛さなくなるかもしれないっていう意味?」
「なに言ってるんだ。今のところは愛しているって何度も言ってるじゃないか。俺のキミに対する思いは一貫しているはずだぜ」

 これが東国原知事の「今のところ」なのである。

《信用》とは、将来という不確かなことに対し、
「どういう事態になろうとも、いま私が明言したことを貫きます」
 と約束し、それを相手や周囲が信じることなのだ。

 つまり、東国原知事が問われているのは、「今」ではなく「将来」に対する約束であり、それを貫く姿勢なのだ。

「今は考えておりません」
 と「今」を繰り返す人間を、私は信じない。
 

投稿者 mukaidani : 10:57

2008年10月08日

金融不安ごときにジタバタしていられるか

 NYダウが1万ドルを割り込み、日経平均株価も1万円を割った。

 私は株をやらないので実感はないのだが、連日、金融不安のニュースに接していると、
(なんだかヤバそうだなァ)
 という気分になってくる。

 ウチの女房も、
「トイレットペーパーを買い込んでおいたほうがいいかしら?」
 と、真顔で私に訊く。

 昭和48年のオイルショックを知っているだけに笑うわけにもいかず、
「ついでに洗剤も買っておけ」
 私も真顔で応じた次第。

 オイルショックというのは、第4次中東戦争を引き金にした原油高騰のことで、テレビの深夜放送はなくなり、街からネオンが消え、雑誌もページ数が少なくなった。

 ついでながら、当時、大学4年生だった私は某弱小出版社でバイトをしていて、このままこの会社にもぐり込むつもりでいたのだが、オイルショックのおかげで、バイトをクビになってしまった。

「向谷君、悪いけど、このオイルショックで我が社も……」
 編集長が私を昼食に誘ってそう切り出し、クビになった私は「人生ショック」を受けたことを覚えている。

 そのときの昼食が、忘れもしないエビフライ定食。そんなわけで、いまもエビフライを見るたびに、あのときのことを思い出すのである。

「水は買わなくていかしら?」
 女房がテレビニュースを見ながら、さらに訊く。
「買っておけ」
「缶詰は?」
「買っておけ」
「米は?」
「買っておけ」
「あっ、そうだ。いま電話したら、指圧は予約が一杯なんですって」
「買っておけ」
「ちょっと、マジメに聞いてるの!」

 こっちとら、フーフー言いながら人生街道を歩いているんだ。金融不安ごときにジタバタなんぞしていられるか。
   

投稿者 mukaidani : 12:10

2008年10月06日

衆院選はまだかいな

「選挙さえなければいいんだけどねぇ」
 かつて、某議員がそう言って溜め息をついたことがある。

 選挙さえなければ議員という職業はいいものだ、と言外に言っているのだ。

「そうでしょうね」
 と、そのとき私は曖昧に笑っておいたが、この話を酒席で友人たちに披露したところ、
「バカ言ってんじゃないよ。オレだって、会社へ行かなくていいなら、サラーリマンも楽なもんだぜ」
 と憤慨した。

 なるほど、私だって原稿を書かなくても作家をやっていられるなら、これは楽なもんだ。プロ野球選手だって、ゲームに出なくてもレギュラーでいられるなら最高だろう。

 だが、選挙で選ばれるから議員なのだ。
 原稿を書くから作家なのだ。
 ゲームに出場するからレギュラー選手なのだ。

 しかるに人間は、その地位や職業に狎れるにしたがって〝存在理由〟が重荷になってくる。
 私も含めて、身勝手なもんだ。

 衆議院の解散・総選挙の日程が迷走し、若手代議士は、このままでは選挙資金がもたないと悲鳴をあげているという。

 勝手に出馬準備をしておいて悲鳴をあげるとは身勝手もいいところだが、選挙はそれほどに恐いということなのだろう。

 いま思いついたが、「選挙」という言葉は、「戦々恐々」を縮めて「センキョ」に掛けた言葉かもしれない。

 

投稿者 mukaidani : 23:55

2008年10月04日

蝉の鳴き声と、麻生総理

 明日から天気がくずれるという予報なので、午前中、畑に出かけた。

 例によって、指南役の親父、収穫係の女房、そして草引き係の私の3人である。

 道中、指南役は、きょう植える苗の話を持ち出すが、女房はおざなりの返事をしながら、
「収穫するものがあるかしら」
 と、つぶやいている。

 私は、草刈りと耕すことに思いを馳せ、溜め息をつきながら運転している。

 同床異夢ならぬ、「同乗異目的」で、クルマは一路、畑を目指したのである。

 指南役はすぐさま苗植えの準備。女房は収穫用のハサミを手にし、私は鍬をかつぎ、三者三様、それぞれのポジションに散った。


 エッチラオッチラ耕していると、蝉(セミ)の鳴き声が聞こえてきた。

 切れかかった電池を連想させるような、ちょっとスローテンポの弱々しい鳴き声である。

(まだ鳴いてやがる)
 と思った。

 すでに10月なのだ。蝉の鳴き声が大好きな私だが、老いさらばえてなお、いつまでも未練がましく鳴いているこの蝉に対して、少しばかり不機嫌になった。

(退き際が大事なのは、蝉も同じだな)
 と、そんなことを考えつつ、
(いや、待てよ)
 と思った。

 蝉の命は確か2週間ではなかったか。
 となれば、この蝉は、いつまでも未練がましく鳴いているのではなく、少なくとも2週間以内に生まれているのだ。老いさらばえるどころか、きのう生まれた新人かもしれない。

 人気の夏場に生まれればいいものを、シーズン終了後にノコノコと生まれてきたため、
「いつまでも鳴いてるんじゃねぇ」
 と、私に毒づかれてしまうのだ。

 つまり、この蝉は〝遅れてきた蝉〟なのだ。
「時宜(じぎ)を外した」
 と言ってもいいだろう。
「時代に恵まれる」
 という言葉があるが、人間も蝉も評価は、時代に恵まれるかどうかで大きくわかれるということなのである。

 そんなことを思いながら鍬を振り下ろしていると、唐突に麻生総理の顔が浮かんできた。
 ミンミンミンと鳴いているが、〝麻生蝉〟にとって「時代」はどうか。

(自民党の人気が去りつつあるいま、麻生総理は〝遅れてきた総理〟になるかもしれない)
 鍬を振るいつつ、今朝は畑でそんなことを考えたのである。

 

投稿者 mukaidani : 14:48

2008年10月02日

人生はキリギリスであるべきだ

《荷おろし症候群》というのがあるのだそうだ。

 難題を乗り越え、目標を達成したと同時に緊張の糸が切れて、無気力状態になるのだという。

 いま、こうしたビジネスマンが増えつつあるというのだから、何とも住みにくい時代ではないか。難題を途中で放り出せば挫折感に襲われ、達成すれば無気力状態になる。

 行くも地獄、退くも地獄、狭間で悩めばウツ病となれば、
「どうせぇちゅんや!」
 と叫びたくもなるだろう。

 だが、このことはビジネスマンに限るまい。
 たとえば、母親。
(この子が一人前になるまでは……)
 と、我が子を一所懸命に育て、成人したと思ったらさっさと親元を離れていく。
 あとに残された母親は、
(何のために育てたのだろう)
 と、《荷おろし症候群》に見舞われる。
 その裏返しとして「子離れできない母親」になってしまうのではないだろうか。

 人生も同じ。
(定年になったら、第二の人生を楽しむぞ)
 と自分に言い聞かせ、必死で働く。

 そして、いざ定年になったら《荷おろし症候群》で、
(こんなはずじゃなかった……)

 だから、私がいつも提言するごとく、「今」が大事なのだ。

 イソップ物語に、周知の『アリとキリギリス』がある。

 アリの人生を是とするのは、「未来永劫、生き続ける」という幻想に立った価値観で、
「定年になったら」
「子供が手を離れたら」
 という、〝根拠のないゴール〟を目指してヒタ走るマラソン人生だ。

 人生が「今」の集合体であるなら、「今」を幸せに生きなくして、どうして人生が幸せになるだろうか。

 人生は、キリギリスであるべきだと思う。

投稿者 mukaidani : 08:43