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2008年09月29日

このブログが本になる

 土曜日から鴨川の仕事部屋に来ている。

 今日は朝から山間(やまあい)の粟斗温泉に出かけた。
 鄙(ひな)びた温泉宿が一軒あるだけで、ほとんどが日帰り入浴の客だが、平日はガラ空き。しかも、お湯はなかなかのもので、肌がツルツルになるのだ。

 私の肌がツルツルになったところでしょうがないが、部屋を借りて一日過ごせば、命の洗濯気分というわけである。

 粟斗温泉までの道中、彼岸花があちこちに咲いていた。
 やはり赤が強すぎる。
 並んで咲くコスモスの淡いピンクと見くらべれば、主張も強すぎれば逆効果になることがわかる。
 控えめは美徳であり、強烈なメッセージでもあるのだ。

 唐突ながら、私のこのブログが一冊の本になる。

 タイトルは、『道は目前にあり/ここにある。幸せの瞬間』(ディベロップ東京出版)。

 本書は、友人で著名な写真家である齋藤文護氏とのコラボレーションである。
 齋藤氏は周知のようにHealing Photgraphの第一人者であり、氏がファインダーで切り取った〝人生の断面〟は、ときにほのぼのと、ときに峻烈に、生きるということの意味と実相を私たちに突きつけるだろ。

 拙文はともかく、齋藤氏の写真を堪能していただければと思う。もの言わぬ写真であるがゆえに、いかに豊穣なメッセージを発しているか、おわかりいただけるだろう。

  発売は10月17日。

投稿者 mukaidani : 18:58

2008年09月25日

咀嚼(そしゃく)100回、哲学に至る

 最近、食事は、よく噛んで食べるように心がけている。

 なぜかと言うと、私は〝早喰い〟だからだ。

 私が食事に一緒に行ってイライラするタイプは、メニューを眺めてばかりでなかなか注文が決まらない人間と、食べるのが遅い人間だ。

 だから私は、たとえば焼鳥屋や串揚げ、お好み焼き屋などへ行けば、パッとメニューを広げて、
「こっからここまで」
 と素早く、そしていい加減に指さす。
 そして、ムシャムシャと食べて、
「さっ、帰るぞ!」

 だから、女房と昼飯を食いに近所のファミレスに行こうものなら、たいてい女房を残して私は先に帰るのである。

 それがなぜか、ゆっくりメシを食おうという気になってきた。

 これといって理由があるわけではなく、いつもの気まぐれである。

 ものの本に70回咀嚼せよ、と書いてあったので、ひと口70回を励行している。

 すると、どうだ。
 意外な発見があるのだ。

 ムシャムシャ、モゴモゴやっていると時間がたたない。
 で、いま口にしている食物について思いがよぎる。農薬のこと、食品偽装のこと、中国野菜のこと、美食のこと、粗食のこと……。

 飲み下して、またムシャムシャ、モゴモゴやっていると、咀嚼と健康について考えがよぎり、それはやがて健康とは何かという考えになり、病気について、長寿について、そして最後には人生についてまで、あれこれ考えがよぎっていくのである。

 だから余計、食事に時間がかかる。
 70回以上も噛むと、何を食べているんだかわからなくなってくる。
 いや、何のために食べいるのかもわからなくなるのだ。

(食事って何だ?)
(グルメって何だ?)

 そんなことを考えるのだ。

 これは意外で、そして新鮮な発見であった。

 お時間のある方は、ぜひ試してみるといいだろ。
 ヘタな〝哲学本〟を読むより、はるかに哲学的であることに気づくだろう。
 まさに「咀嚼100回、哲学に至る」なのだ。

投稿者 mukaidani : 14:28

2008年09月22日

政治家は、落選すればタダの人

 今日のニュースは、朝から夜中まで自民党総裁選一色である。

 家で女房と晩飯を食べながら、新総裁となった麻生太郎氏のインタビューをテレビで見ていると、
「地方を遊説してみて、不景気であることを実感しました」

 確信に満ちた麻生新総裁の口調に、女房はア然として、
「この人、不景気だってこと知らなかったのかしら」

 太田農水相が事故米の責任を頬っかむりして〝敵前逃亡〟したかと思えば、舛添厚労相が突如、後期高齢者医療制度の見直しを言い出した。
 言うまでもなく、選挙対策である。

 恥も外聞もかなぐり捨てるほどに、選挙は怖いものなのだ。

 私はかつて『政治家の実戦心理術』(KKベスト)という本を書いたことがある。いまから6年前、2002年5月の刊行で、小泉旋風の時代。田中眞紀子、辻本清美といった女性議員が活躍した時代である。

「まえがき」に、私は以下のように書いた。

*************

 政治家は、選挙に落選すれば、ただの人である。
 言い換えれば、当選しさえすれば、〝ただの人〟でも政治家になれるのだ。
 ここに、政治家の本質がある。
 だから、選挙、命(いのち)。
「ほな、一票入れたろやないか」
 と、いかに有権者に思わせることができるか。このパフォーマンスに、政治家は全人生を賭けるのである。
「ソーリ! ソーリ! ソーリ!」
 と、噛みつくもよし、
「構造改革なくして、経済成長なし!」
 と、煽(あお)るもよし、
「スカートを踏まれた」
 と、ダダをこねるもよし、
「私の人生を顧(かえり)みますれば」
 と、落涙するもよし。
 さらに詭弁、甘言、嘘、恫喝、裏切り、マッチ・ポンプと、何でもあり。常に「自分は正しい」というスタンスに立ち、ホンネと建前とでキャッチボールをさせながら選挙区という縄張りを守る手法は、まさにヤクザ界と同じなのである。(以下、略)

******************

 この視点から議員たちの発言や行動を見れば、彼らのホンネは一目瞭然だろう。
 サルは木から落ちてもサルだが、政治家は落選すればタダの人なのである。
 

投稿者 mukaidani : 23:32

2008年09月20日

「やる気」は「やる木」

 我が空手道場の審査会は春秋2回。
 秋は、この9月23日に行う。

 それで審査会に向けて稽古をしているのだが、熱心に稽古するのは大人と、黒帯が射程に入ってきた子供の茶帯クラスで、あとの子供たちは緊張感が今ひとつ足りない。

 毎度のことなので、ならば審査基準をうんと厳しくし、技量未熟者は全員不合格にしようかとも思う一方で、
(それは指導者として敗北ではないか)
 という思いがある。

 なぜなら、ひとつには「指導努力を放棄する〝恐怖政治〟ではないか」という思い。
 もうひとつは、「稽古に緊張感が足りないのは指導者の責任ではないか」という思いの2つである。

 そして、あれこれ考えた末、子供の「やる気」は、〝やる木〟という木の苗を植え、水をやり、育てていくしかないのだと、改めて思った。

 スクスクと伸びていく木もあれば、遅々として伸びない木もある。
 杉のように真っ直ぐ伸びていく木もあれば、松のような木もある。

 松に向かって、
「真っ直ぐ伸びろ!」
 とイラつくのは、イラつくほうが間違っている。

 松には松の素晴らしさがあり、その素晴らしさを見抜き、活かすのが指導者の責務だろう。

「指導」とはまさに忍耐であり、忍耐こそ〝やる木〟の木を育てることだと考える。

 となれば、私に必要なのは「根気」、いや〝根木〟という木をいかに育てるか、ということになる。

 子供に教えられることは多い。

投稿者 mukaidani : 20:11

2008年09月16日

「得れば、失う」という覚悟

 昨夜、スーパー銭湯の湯船に浸かっていたら、若い父親が男児を連れて私の隣に入ってきた。

 4、5歳児か。

 その子を抱いて肩まで沈みながら、
「ハーイ、1から100まで5回数えて」
 明るい声で言った。

 湯冷めさせないようにと、どこの親御さんでもやっていることだろうが、
「1から100まで5回」
 と聞いて、私は、
(そんなの、ありえねぇ)

 男児も同感のようで、
「そんなにたくさん、数えられない」
 たどたどしく抗議したころ、若い父親はニッコリ笑って、
「じゃ、100から1まで1回でいいよ」
「わかった!」

 男児は喜んで数え始めたが、当然ながらスムーズにはいかない。
 しかしながら、逆から数えるということが面白いらしく、
「……88、87、86……ええっと……85……」
 男児は飽きもせず、楽しそうに数えている。

 結局、「1から100まで5回」よりも、はるかに時間がかかり、それだけ男児はしっかり温まったことになる。

 若いが、この父親はたいしたもんだと感心しながら、ふと別の考えがよぎった。

 つまり、「身体を温める」ということにおいて、目先を変える数え方は有効だが、「我慢させる」ということにおいはマイナスではないか、という思いである。

「……85、86、87、88……」
 順当に数えていくのは、まさに我慢と辛抱である。

 なぜ、そんなことを思ったかというと、空手の稽古方法で考えていたことがあるからだ。

 たとえば「その場突き」で100本を突かせようとすると、子供なら飽きてしまう。
 しかし、「稽古時間内に総計100本を突かせればよい」と考えれば、子供を飽きさせないで突かせることはできる。

 そう考えて目先を変えて練習をさせていたのだが、それは湯船に浸かるのと同様、「突く」という技術においては有効でも、「我慢させる」という精神面での稽古ではマイナスだろう。

 どっちの方法がいいかではなく、「プラス面とマイナス面がある」ということに指導者は気づくことが大切だろうと思った次第。

 風呂や空手の例に限らず、何事においも、必ずプラスとマイナスの両方がある。
 しかるに私たちは、プラスの面しか見ようとしない。
 だから、あとになって、
「こんなはずじゃなかった」
 と愚痴をこぼす。

 何かを得ようとすれば、同等の何かを失うのだ。
 いや、「失うかもしれない」のだ。
 自戒を込め、そういう厳しい覚悟が私たちに欠けているような気がしてならないのである。

投稿者 mukaidani : 15:25

2008年09月12日

時代は「エコ」より「エゴ」か

 ガイジン力士の大麻騒動が連日、メディアをにぎわせている。

 どうして大騒ぎになるのか、私は理解に苦しむ。

 日本を代表するオリンピック選手が大麻をやったというなら、この騒ぎはわかる。
 だが、相手は相撲取りじゃないか。
 モンゴル出身の朝某という横綱やリンチ殺人を見ればわかるように、品位とはおよそ無縁の日本相撲協会にあって、大麻くらいやっても不思議ではあるまい。

 なぜなら「相撲」は「国技」かもしれないが、「日本相撲協会」が国技というわけではない。ここを混同するから、所属力士の大麻に大騒ぎするのだ。

 自民党の総裁選もしかり。
「政治」は国民のためにあるが、「政党」は国民のためにあるのではない。
 ここを混同するから、「総裁選=日本の将来」であるかのように錯覚するのだ。

「エコの時代」は、実は「エゴの時代」の間違いではないのかと、このごろ思うようになった。
 そうとするなら、相撲大麻、総裁選、一連の食品偽装からモンスターペアレントまで、すべての説明がつくのである。

   

投稿者 mukaidani : 23:02

2008年09月08日

人生とは、網で水を掬うようなものだ

 この土、日で、我が昇空館の河口湖合宿を終えた。

 一泊二日と短くしているのだが、それでもみなさん多忙で参加できない人も多く、30名ほどが集まった。

 土曜日が空手、日曜日が古武道の稽古だったが、懇親会となれば白帯も黒帯も関係なし。同好の士が集うのは楽しいもので、たぶん歳を取れば取るほどそうなっていくのだろう。

 これは合宿で話をしたことだが、空手や古武道の稽古は奥が深く、稽古すれども遅々として上達しないように感じる。

 たとえて言うなら、網で水を掬(すく)おうとするようなものだ。

 なるほど水は掬えない。
 徒労かもしれない。
 だが、網に水滴は残るのだ。
 その水滴をコップに一滴ずつ溜めていけば、やがて満杯となる。
「稽古とはそういうものではないか」
 と、私は話をした。

 そしていま、ふとそのことを考えていて、これは稽古に限らないな、と思った。

 人生などと大上段に振りかざすつもりはないが、夢を描き、その実現に向けて必死の努力をしてなお、網で水を掬うがごとく、遅々として到達しないのが人生だ。

 私も顧(かえり)みて忸怩(じくじ)たる思いをなしとしない。

 だが、
「果たして自分は、網についた水滴を溜める努力をしてきただろうか?」
 と自問して、私は愕然とする。

 水を汲むことばかり必死になって生きてきた自分が、そこにいた。
 網は水を汲むものではなく、水滴をつけるものなのだということに気づかない自分がいた。
 だから徒労の人生になる。

 これがもし、「水滴を溜める」という人生観であったなら、もっと楽に生きてこられたのではないだろうか。

 世のなかに「不幸」はない。
「苦悩」もない。
「徒労」もない。

 あるのはただ、流れゆく日々をどうとらえるか、という人生観だけである。

投稿者 mukaidani : 17:55

2008年09月05日

時代は「癒し」から「戦闘」モードへ

 都内に出るときは、用事をまとめるようにしている。

 昨日も都内で3件ほど編集者と打ち合わせをしたが、3つ目のやつは酒席だった。前々から引き受けていたテーマだが、私の都合で執筆が延び延びになっていることから、いわば〝ケツ叩き〟の打ち合わせである。

 編集者と雑談するのは楽しく、話題は遊びから天下国家まで縦横無尽となるが、昨夜は福田首相の突然の辞任をどう観るか、という話になった。

 安倍前首相の1年前の辞任劇のときもそうだったが、私が面白いと思ったのは、
「政治家なら死ぬ覚悟でやれ」
 という過激な責任論である。

 なぜかと言うと、ついこのあいだまで、私たちは〝癒し〟を求めていたはずであるからだ。

《つまづいたっていいじゃないか 人間だもの》

 相田みつを氏のこの言葉に代表されるように、人間の弱さを肯定し、そこに癒しを見いだしたはずである。

 このデンでいけば、
「辞任したっていいじゃないか、人間だもの」
 となっていいはすだ。

 首相だら、公職だから責任がある、と非難するのは当たらない。

「人間、みな同じ」
 というのが癒しのキモであるからだ。
 つまりは、立場にかかわらず、「人間だもの、みな同じ」というわけである。

 ところが、安倍辞任も福田辞任も「人間だもの」と、寛容には受け入れてもらえない。

 これは政治家に限らない。
 北京オリンピックで惨敗した野球も、指揮をとった星野氏は責任論がにぎやかだ。

 どうら時代時の精神性は、「癒しモード」から「戦闘モード」に変わりつつあるということか。

「つまづいたら、すぐ起き上がって走らんかい!」
 これが、現代の風潮だろう。

 癒しから戦闘へ、戦闘から癒しへと精神モードは交互に繰り返していくのである。

 となれば、時代の風潮に乗るか、我が人生観を貫くか。

 ここいらが思案のしどころのようである。

投稿者 mukaidani : 14:46

2008年09月02日

一億総辞任の時代

 昨日は、保護司会の研修で少年鑑別所へ出かけ、夕方帰宅して孫二人を保育園に迎えに行き、二時間ほど仮眠をとって原稿を書き始め、何となく気になってインターネットでニュースをチェックしたら、
「福田首相、辞任」

 階下の居間に降りて、
「おい、福田が辞任だってな」
 女房に言うと、
「そうよ。サミットが終わったから、あとはどうでもよくなったんじゃない」
 ずいぶんと醒めていた。

 世間の反応も、
「エッ!」
 と驚いて、たぶん、あとは苦笑いだろう。

 人ごとのように一国の舵取りをしてきた首相が、人ごとのように「やーめた」と言ったのだ。苦笑いするしかあるまい。

 ただし、その苦笑いは、福田首相に対してではなく、こんな無責任な男を首相とした我々国民に対して苦笑いなのである。

 まっ、それはそれとして、最近の風潮として、「辞任」がずいぶん安易になってきたような気がする。

 かつて「辞任」といえば、切腹と同じくらい重い意味を持った。辞任は社会人として終止符を打つことであり、〝負け犬宣言〟である。

 それがホイホイと辞任するようになったのは、食品偽装など一連の企業不祥事からではないだろうか。
「責任をとって辞める」
 と言えば聞こえがいいが、矢面からトンズラしただけのことなのだ。

 いや、辞任だけではない。
 就職も、結婚も、趣味も何もかも、ちょっと壁にぶつかると「やーめた」である。

「辛抱しなさい」
 と言うと、
「辛抱? それって人生のムダじゃん」
「違う、ムダなんかじゃない。石の上にも三年。辛抱する木に花が咲くと言ってだな……」
「バッカみたい」

 ま、こんな反応ですな。

 いよいよ「一億総辞任の時代」が始まったのだと、私は思う。

「責任とって辞めます」
「いやいや、私のほうこそ辞めさせていただきます」
「とんでもない、私が辞めると言ってるじゃないですか」

 これぞ、沈没船からネズミが逃げ出すがごとく、日本という船が沈む前兆かもしれない。

 そう言えば、福田首相、ゲゲケゲの鬼太郎に出てくる〝ネズミ男〟に似てませんか?

投稿者 mukaidani : 05:23