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2008年08月30日

夢の達成はゴールではない

 昨夜、稽古のあと風呂屋へ行き、サウナ室でテレビを観ていて何となく違和感を覚えた。

(何だろうな)
 と考えて、ハタと膝を打った。

 北京オリンピックが終わって、「ニッポン頑張れ!」の喧噪がテレビから消えていたのである。

 テレビも現金なもので、
(北京五輪って今年だったっけ?)
 そんな雰囲気になっている。

 国民栄誉賞でも与えられれば、また話題になるのだろうが、そうでなければ、栄光も屈辱も「人のウワサも75日」ということになってしまうのだろう。

 北京五輪はニュースでしか観られなかったが、ひとつ感じたことがある。

 それは、オリンピツクにあこがれ、死にものぐるいで練習してきて見事、オリンピック選手という栄光を手にしながら、それゆえプレッシャーに苦しむという皮肉である。

 これは、私は週刊誌記者時代、人気歌手を取材したときに感じた皮肉と同じだ。
 歌手を夢見て、努力して、幸運をつかん人気歌手になりながら、
「忙しくて、ちっとも休みがない」
 と人生に悩んでいる。

「じゃ、無名歌手のほうがいいってこと?」
 私が問うと、
「とんでもない!」
 と目を剥くのである。

 私たちは、それぞれにおいて夢を描き、そうありたい、そうなりたいと切望する。
 ところが、いざその夢を手にして、心から満足する人は、たぶん希(まれ)ではないだろうか。

 夢を持つのが悪いというのではない。
 夢に向かって努力することが愚かだと言うのでもない。
 夢はゴールとするのが間違っている、と私は思うのである。

 すなわち夢の達成は、常にあらたな人生のスタートなのだ。


 

投稿者 mukaidani : 16:16

2008年08月27日

親子の絆と「共通の目標」

 空手を習わせる親御さんの多くは、
「もっとしっかりさせたいから」
 と、その動機をおっしゃる。

 実際、空手を長く続けていれば、精神的にしっかりしてくる。
 なぜなら、野球やサッカーのような「ゲーム」とは違って空手は「格闘」であり、本能的な恐怖があるからだ。
 しかも試合では、人前で「強い」「弱い」という〝原始的な優劣〟を競わなければならない。

 この恐怖とプレッシャーを克服し、空手の稽古を継続するには、子供なりに自己との葛藤がある。
 この葛藤が、精神力を養うのだと私は考えている。

 だから、我が子に空手を習わせようとする親御さんの動機は間違っていない。

 ただ、しつけや子育てということから考えれば、親御さんに勘違いがあるように思う。

 空手に限らず、何か習い事をさせれば我が子が成長する、と思っているのではないか。
 つまり、「親御さんは何もしないで、じっと突っ立たままでいる」ということである。
 これでは、ダメだと私は思う。

 こんな例はどうか。
 私の道場には、親子で稽古に来ている人が何人かいる。
 夏の試合前、そのなかの一人の子供が、自分の試合のことよりも、親子による演舞競技のほうを心待ちにしていた。
「パパと出るんだ」
 と、ニコニコして私に言うのである。

 この父子は稽古時間は別々である。
 しかし「パパと一緒に空手をやっている」という「目標を共有すること」で、親子の距離はうんと縮まっているのである。

 ここに、親子関係をめぐる解答があるように思う。

 子供のしつけに関心の深い親御さんは、
「休みの日は、できるだけ子供と一緒に遊ぶようにしています」
 とおっしゃる。

 これはとても素晴らしいことだと思う。
 
 しかし、「遊び」は遊びなのだ。

 共通の「目標」と「価値観」を持ち、それむけて親子がある時期、一緒に努力するということこそ大事なのではないだろうか。

「目標」とか「価値観」というと漠然とし過ぎると思い、空手を一例に引いた次第。

 ついでに言っておけば、空手など武道は年長者を敬ってくれる。
 いい大人が、いまさら子供と一緒に野球やサッカーでもあるまい。
 空手は生涯武道であり、ここに素晴らしさがあると、我田引水しつつ思うのである。
 

投稿者 mukaidani : 16:37

2008年08月24日

人生の〝ヘッドアップ〟

 昨日、友人の葬儀があった。

「54歳の若さ」
 と、私は弔辞で読んだ。

 弔辞は、通夜のあと帰宅して書いた。
(いずれ私も逝く。人間の死は、早いか遅いかだけだ)
 という思いにうなずきながら、「いずれ」と考えている自分に気づき、愕然とした。

(明日も生きている)
 そう信じて疑わない自分が、そこに在(あ)る。

(人間は必ず死ぬんだけど、まだ先だな)
 そんな楽観がある。

 僧籍を得たといっても、その程度の自分であることに、忸怩(じくじ)たる思いがした。

《明日ありと、思う心の徒桜(あだざくら)、夜半に嵐の吹かぬものかは》

 これは浄土真宗開祖・親鸞聖人のよく知られた歌で、「明日」を恃(たの)むことの愚かさを厳しく戒めている。

 私もこの言葉に深く感じ入り、いかに「今日」を生きるかを考えるようになった。
 いや、なったはずだった。
 それが、いかに浅い覚悟であったかを、友人の死は私に教えてくれた。

 仏教における時間の概念は、「不連続の現在でしかない」と、先日、京都で行われた勉強会で改めて教わった。
 過去は、「現在から見て過ぎ去った時間」、未来は「現在から見て未(いま)だ来たらぬ時間」。すなわち、すべては「現在に内包される」というわけである。

 しかる私たちは、決して戻ることのできない過去にとらわれ、実態のない未来を恃(たの)みとする。

 過去の追憶が悪いというのではない。

 未来を思い描くことが悪いというのでもない。

 過去と未来に目がいくことによって、本来、もっとも大切にすべき「現在」を忘れがちになってしまうということが問題なのだろうと、これは私の勝手な解釈である。

「ヘッドアップするな」
 20代の一時期、私がゴルフをやっていたときに、レッスンプロによく言われた。
 結果を早く知りたいという気持ちがヘッドアップさせるのだ。

 教員採用試験の合否の結果を、発表前に知らせたとする事件がさかんに報道されているが、これも、結果を早く知りたいという〝ヘッドアップ〟の心理が根底にある。

 人生も同様で、早く結果を知りたいと気持ちがあせる。
 ハッピーな人生になるのか、それとも不本意な結果に終わるのか。

 若い人ほど占いに興味を持つと言われるが、彼らが占いに惹(ひ)かれるのは、ゴルフで言えば1番ホールに立ってティーショトを放ったようなもので、球の行方を追ってヘッドアップする。それが占いに惹かれる理由だと私は思う。

 しかし、いまこの瞬間のショットを抜きにして、ボールの行方を追うのは本末転倒だ。
 いかに、しっかりと打ち切るか。
 すなわち「現在」をいかに生き切るか。
 ここを疎(おろそ)かにしてはなるまい。

「ヘッドアップするな」
 改めて私は自分に言い聞かせるのである。 

投稿者 mukaidani : 02:27

2008年08月21日

「わかったつもり」という錯覚

 浄土真宗の集中講義に出席し、本日帰ってきた。
  2泊3日で、場所は京都のホテル。
 例年のことだが、講義は朝から夕方までと長丁場のため、クーラーのせいで震えるほどの寒さになる。
 今年もまた、冬に着るフリースを持参。盛夏であることを忘れた3日間であった。

 集中講義は親鸞聖人の和讃がテーマで、講義を聞いていると、
(そうか、なるほど)
 と実によくわかる。

 ところが、いま帰宅してノートとテキストを開いてみると、
(ウーム……)
 よくわからないのである。

 もちろんメモはとってある。
 ただし、講義を聞きながらわかったつもりでいるから、メモは要点だけ。
 要するに〝走り書き〟の断片なのだ。
 何度、読み返しても断片と断片がつながらす、ひたすら唸るばかりであった。

 このとき、「わかる」と「わかったつもり」は似て非なるものであることに気がついた。

 勉強だけではない。
 日々を顧(かえり)みて、いかに「つもり」で生きているかを思い知って愕然とする。

 仕事をしたつもり。
 稽古をしたつもり。
 気をつかったつもり。

 言動だけではない。

 自分は、「まっとうな人間である」というつもりでいるのだ。

 すなわち、「つもり」という《主観》を、あたかも《客観》であるかのように錯覚して生きているである。

 50代も後半になってそんなことに気づくのだから、いかに身勝手な人生を送ってきたことかと、これは《客観的》に見て反省しつつも、
(今回の集中講義で、きっと親鸞聖人がそのことを私に諭してくださったのだろう)
 と、これまた《主観的》に納得するのである。

 

投稿者 mukaidani : 16:52

2008年08月17日

人生に「正解」なし

 今日は、軽井沢で打ち合わせがあり、未明に自宅を出発した。

 高速道路を使うときはいつもそうだが、ノートパソコンを持参し、予定よりうんと早めに最寄りのSAまで行って、クルマのなかで原稿を書くことにしている。

 目覚まし時計も用意しているので、執筆の途中で眠くなれば、安心して仮眠を取れる。コーヒーの自動販売機もあるし、SAは広々として景色もよく、仕事がはかどるのだ。
 それに、約束の時間に遅れる心配もなく、一石二鳥なのである。

 今日は、行きはスイスイ、帰りは夕方とあって渋滞していたが、私は高速道路の渋滞は嫌いではない。

 いろんな考え事ができるからだ。
 ことに、原稿のアイデアが浮かんだときなどハミング気分で、渋滞に感謝である。

 ついでに言えば、道路スイスイも嫌いではない。
 スッ飛ばせば気分爽快になるからだ。

 渋滞してよし、スッ飛ばしてよし。
 ものごとをポジティブに考えると言えば聞こえがいいが、要するに、都合よく考えるのが、私の持ち味ということなのである。

 で、帰途。
 千葉に向けて高速道路の分岐点が2カ所ほどあるのだが、どの分岐点を行けば渋滞にぶつからないですむか。

 A地点。
 迷っているうちに通り過ぎてしまい、B地点から分岐して千葉に向かった。

 思ったより流れていたが、走っているうちに、
(A地点のほうが距離的には近いんじゃないか?)
 そんな思いがよぎったが、すぐに考え直した。

 もしA地点から分岐していて渋滞していれば、
(やっぱB地点にすればよかったんだ)
 と後悔するに違いないからである。

 よしんばA地点から分岐してスイスイ流れていても、
(こっちがスイスイだったら、B地点はビュンビュンじゃないか?)
 と、これまた後悔の気持ちが起こってくるだろう。

 人間、身勝手なもので、選択したあとで必ず後悔の気持ちが起こるのだ。

 右を選択すれば、
(ひょっとして、左のほうがよかったかも)

 左を選択すれば、
(ひょっとして、右のほうがよかったかも)

 選択が悪結果であれば当然のことで、好結果であっても、
(もし、あっちを選んでいれば、あるいはもっとよかったかも)
 という思いがしてくるのである。

 なぜなら、右と左とは同時に行くことができず、右を選択すれば、「左を選択した結果」は永遠の謎であるからだ。

 と言うことは、人生の岐路において、どっちを選択しようとも、あとで必ず後悔の念が起きるということになる。

 つまり、「人生に正解なし」。
 正解がないのに正解を求めるのは、愚かなことだ。
 もっと言えば、人生に正解を求めようとする、その考え方が間違っているのである。

 自分の人生は、自分が正解を決めるのだ。
 だから、すべての人間が百点満点になるはずなのに、そうはならないのは、「選択しなかった片方」に未練を残しているからではないか。
 そんなことを考えながら、一路、湾岸道路を自宅に向かったのである。
 

投稿者 mukaidani : 23:57

2008年08月13日

子供合宿で考えた「女子のたくましさ」

 1泊2日の子供合宿が本日終わった。

 今年は日程がお盆にかかったせいで、参加者は例年の半数余りだったが、それでも40名ほどだった。

 1日目は午後1時から4時まで稽古。食事の後、午後7時からキャンプファイヤー、風呂、就寝。
 2日目は朝6時起床、外で体操、部屋を片づけてから朝食、9時から昼まで稽古にドッチボール。昼食後、解散である。

 夏場は熱中症が心配だし、ケガをさせてもいけない。
 小学校の低学年も多く、
「参加して楽しかった」
 ということが主眼なので、日程はゆるく組んである。

 また班編制にして、上級生に下級生の面倒を見させ、稽古内容も基本の他、型試合から組手試合まで班別の戦いとし、「参加してよかった」の工夫をした。
 手伝いも一般、大学生、高校生が来てくれて、充実した合宿になったと思っている。

(が、それしても)
 と感じたのは、女の子のたくましさである。

 今年は、小学1年生から中学生まで女の子は8名の参加であったが、驚いたのは2日目の朝である。
 6時の起床時間に、女子は誰ひとり起きてこないのである。

 女子の部屋のドアは閉じたまま。
 シーンと静まりかえっていて、熟睡の気配は廊下からもわかる。

 もちろん、朝の体操にも出て来ない。

 もっと驚いたのは、それについて男子の誰からも不満の声があがってこないことである。

 例年なら、
「なんで女たちは来ないんだよォ」
「オレたちばっかり不公平だ」
 ブーイングの大合唱。

 そんなとき、私は女子を擁護して、
「バカ者。男と女は違うんだ。文句いうんじゃない!」
 と一喝するのだが、今年の男子は〝音なしの構え〟なのである。

 なぜか不思議に思って考えてみると、男子たちは〝達観〟しているのだろうと、雰囲気から推測した。
 女子に文句を言うと、反撃が2倍にも3倍にもなって返ってくることを知っており、「リスク」と「不満」とを天秤に掛けた結果、「沈黙」を取ったというわけである。

 女子トイレのスリッパが乱雑に脱ぎ捨ててある。
 それを見て、男子トイレのスリッパを置き直していた小学生の男子たちが、
「なんで散らかってるんだよ」
 とブツブツ言いながら、それでも女子のスリッパを直していた。

 これも例年なら、私が、
「女子のスリッパも直しておけ!」
 と男子に怒鳴ると、
「女子のスリッパは女子が直すんじゃないんですか」
 と口をとがらせるのだが、今年は叱らずとも黙々と直しているのだ。

 私は、若夫婦の「家事の分担」という世相が脳裏をよぎった。

 道場で子供たちを見ていても、「男だから」「女だから」という意識の差が少なくなってきたように思う。
 そういうことから、「女の子はたくましくなった」と私は感じたのである。

 女の子がたくましくなるのは、もちろん結構なことだと思う。

 だが、女の本当の強さとたくましさは、その対極にある〝涙〟と〝恥じらい〟と〝いじらしさ〟にこそあるのだ。

 その強さに気づくことを成長と言うなら、朝寝坊するウチの女の子たちは、たくましく見えて、年相応に幼く、弱いということなのだ。

 いや、「夫婦で家事の分担」が当然と考え、亭主に感謝しない若い主婦も、女としての強さに気づいていないのかもしれない。
 そうだとすれば、年齢には〝不相応〟に幼いのかもしれない。

 私の考えが古いと言うなかれ。
 古来より、男女の機微はそう変わってはいないのだ。
 モタイナイナ――と、そんなことを考えるのである。

投稿者 mukaidani : 22:50

2008年08月10日

一人に「複数の個性」を求めるの愚

 脱稿のめども立ち、稽古のない日でもあるので、馴染みの鮨屋に顔を出してから風呂屋に行った。

 いつもなら早々に上がって、休憩室でノートパソコンを叩くのだが、原稿が予定より捗(はがど)っているので、のんびり湯船に浸かっていた。

 こんなとき、道場の子供たちについて思いをめぐらせる。
 できのいい子、不器用な子、お茶目な子、やる気のない子……。
 いろんな個性の子がいるが、指導者の数は限られているので、すべての子供を上達させるのは難しい。

 難しいが、放っておくわけにはいかない。

 で、湯船に浸かってはいても、いろいろと頭を悩ますのである。

 結論から言えば、
「その子にとって将来、もっとも資するであろうと思われることを指導する」
 というのが私の考えだ。

 空手で活躍したい子共は技術をしっかり身につけさせる。
 引っ込み思案の子供は、堂々と胸を張れるような指導を心がける。
 思いやりのある子供には、さらにリーダーとして大成するよう人間関係をも指導する。
 知的好奇心の旺盛な子供には、それをさらに刺激するような話を投げかけてやる。
 やる気のない子には、いかに空手に興味を持たせるか……。

「その子の将来」などと言うと僭越の極(きわ)みだが、これは子供を預かる「指導者」としての責任だろうと私は思っている。

 子供たちのことを考えていて、面白いことに気づいた。
 個性に合わせて指導するということは、「多数対一」の関係である。
 これが大変だと私は溜め息をつくだが、実は大人社会のほうがもっと大変であることに気がついたのである。

 たとえば、こんな例はどうか。

 奥さんが、亭主の尻を叩く。
「出世しなさい、もっと稼ぎなさい!」

 亭主は家庭を顧(かえり)みず、仕事に没頭する。
 すると、奥さんが言うのだ。
「なによ、仕事ばっかり。家族と仕事と、どっちが大事なの」
 夫という「一人の人間」に「複数の個性」を求めるのである。

 自動車で言えば、ケツを叩くときはF1マシンの高性能を求め、家庭を持ち出すときは軽自動車の利便性を求める。
 F1マシンであることと、軽自動車であることの両方を求められる亭主はたまらないだろう。

 ところが、道場で子供100人の個性に合わせるとしても、接し方と指導法を変えるだけであって、私自身の個性は変えなくてよい。
 つまり、子供が軽自動車であり、トラックであり、F1マシンであって、運転するのは私なのだ。
 とすると、「多数対一」というのは、実は楽なのはないか、と思ったのである。
 
 こういう考え方をすると、親の子供たちに接する方法が間違っていることに気づく。

「勉強しなさい!」
「もうグズなんだから、もっとしっかりしなさい!」
「あんたねぇ、人にはやさしくしなくちゃだめなのよ」

 一人の子供に「複数の個性」を求めたのでは、子供もたまったものではなかろう。

「我が子にどうあって欲しいのか」という視点が親にないから、その場の気分で、我が子にF1マシンを求めたり軽自動車を求めたりするのだろうと私は思っている。

「我が子にどうあって欲しいか」は、子供の成長につれて変わってかまわない。「いま何を求めるか」が大事なような気がするのだ。

 上司と部下の関係も同じ。
 いや人間関係すべてがそうだろう。

「昼は良妻賢母、夜は娼婦のごとく」
 という言葉があるが、これは二律背反する人間の身勝手さを皮肉ったものであろうと、私は思うのである。

 あさってから、一泊二日の子供たちの合宿である。

投稿者 mukaidani : 15:50

2008年08月08日

辛抱は、半(なか)ばをもって完遂とする

 今月15日〆切の単行本があるのだが、原稿は半分を過ぎたあたりから快調になり、3分の2を過ぎると急速に筆が早くなる。

 これは毎度、経験することだ。
 理由は簡単。
「あと何ページ」
 と、脱稿まで〝引き算〟で考えるようになるからだ。
 筆が早くなるというより、「早く感じる」のである。

 2年前、坊さんになるとき、得度習礼で11日間、本願寺の西山別院にカンヅメになったときも、
「今日で二日、今日で三日……」
 と〝足し算〟で辛抱しているときは遅々として日は進まず、暗澹たる気持ちになったが、中日を過ぎると、あれよあれよで日にちが過ぎていった。

 どんな辛いことも、結局、「総量の半分」を耐えさえすれば、あとはスイスイということなのである。
「3ケ月の入院」
 と言われるとウンザリするし、
「30年の住宅ローン」
 となれば気が遠くなるが、実質はその半分の辛抱なのである。

 人生だって〝引き算〟で考える年齢になれば、歳月は早いものだ。

 週刊誌記者として社会生活をスタートし、少なからぬ波乱の人生ではあったが、過ぎてしまえばあっけなく、レースが終わったあとハズレ馬券を手にしているような気分である。

 まさに、たかが人生、されど人生。

 どうせハズレ馬券であるなら、馬という〝人生〟がゴールに入るまで、思い切りレースを楽しむがよかろう。

 レースを楽しまずして、ハズレ馬券にガッカリするのは、実に愚かなことだと、私は思うのである。


投稿者 mukaidani : 02:06

2008年08月05日

沖縄の海を思い浮かべながら考える

 部屋にこもって原稿に追われているせいか、沖縄の海が恋しくなった。

 恋しくなったが、考えてみれば、私は沖縄の海を知らないのである。

 一昨年まで、古武道の稽古のため、毎月毎月、7年余にわたって沖縄に通い続けたのに、考えてみれば一度も海に入っていないのである。

 短くて2泊3日、長ければ4泊5日。
 道場に行き、稽古が終われば仲間と飲み屋。
 稽古がない日は、佐敷か与那原の飲み屋で、書家の玉城氏と語らう。

 気が向けば、玉城氏と佐敷の山頂にある休暇村に出かけ、眼下に沖縄の海を眺めながら風呂につかる。
 あるいはホテルのプールサイドで、生ビールを飲む。
 ときに玉城氏の運転で、本島北部の「やんばる」へ出かける。

 あとはホテルの部屋にこもって、ひたすら原稿書きである。

 そんなことを毎月7年間もくり返した。
「いつでも海に入れる」
 という思いが、結局、一度も入らないという結果になった。

「いつでもできる」は「できない」と同義語なのである。

 ヒマになったら、あれをやろう、これをやろうでは、結局、何もできないのだろう。
 なぜなら、ヒマになるということは、「いつでもできる」という環境になることであるからだ。

 忙しいとこぼす今が、実は何でもできるときではないだろうか。

 沖縄の海を思い浮かべながら、そんなことを考えるのである。

投稿者 mukaidani : 16:24

2008年08月03日

「福田の説得」と「麻生の駆け引き」

「仕事は〝お願い〟されてするもんだよ」
 故人になられたが、私が敬愛するT氏の言葉だ。

 T氏は十五歳のとき、家出して上京。
 辛酸を舐め、会社を興し、今日までに発展させた。

 そのT氏が、波乱の半生を通じて体得した〝人生の要諦〟など、私に多くのことを教えてくださったが、その中の一つが、
「仕事は〝お願い〟されてするもんだよ」
 という言葉だった。

 多くを語らない人で、私がまだ若かった当時、この言葉の意味を私なりに考え、
「仕事をください、雇ってください、と頭を下げるのではなく、相手から〝ぜひ、お願いします〟と依頼されるような人間になれ」
 と解釈した。

 そのためには、まず周囲に認められなくてはならない。
 人に負けないだけの仕事をしなければならない。
 そう自分に言い聞かせたものだ。

 それから歳月がたち、世間の駆け引きというやつを覚えるにつれて、
「仕事は〝お願い〟されてするもんだよ」
 という解釈に、私はもう一つの意味を見いだした。

 きっかけは知人のカメラマンだ。
「撮影、お願いできますか?」
 広告代理店から、彼に仕事の依頼がきた。 
「海外ロケが続くんで、ちょっと無理かな」
 あっさり断った。
「そうおっしゃらないで、合間を縫って何とかお願いできませんか?」
「ウーン」
「ぜひ、お願いします」
「頭を下げられたんじゃ、断れないね」
「ありがとうございます!」
 かくして、カメラマンが優位な立場で仕事を引き受けたのである。

 これがもし、
「撮影、お願いできますか?」
「いいよ」
 と二つ返事では、カメラマンはここまで優位に立つことはできなかったに違いない。

「仕事は〝お願い〟されてするもんだよ」
 という意味には、そういう心理的駆け引きもあるのではないか、と思うようになったのである。

 福田改造内閣がスタートした。
 麻生氏の幹事長就任によって内閣支持率は上がったそうだが、麻生氏の起用は、
「福田首相が説得に説得を重ね、麻生氏が折れた」
 とメディアは報じている。

「自民党は存亡の危機だ。力を貸してほしい。党総裁としてお願いする」
 という福田首相の〝殺し文句〟に麻生が折れたとする。
 つまり、福田首相の粘り腰の勝利、というわけだ。

 だが、果たしてそうだろうか?
「仕事は〝お願い〟されてするもんだよ」
 というT氏の言葉が、ふと脳裏をよぎる。
 麻生氏が就任を渋ることで、福田首相に必死に〝お願い〟をさせたのかもしれない。

 お願いされ、断り過ぎれば、
「じゃ、結構です」
 と相手は腹立たしくなってあきらめる。

 さりとて、早く引き受け過ぎると、軽くあしらわれる。

 ギリギリまで〝お願い〟をさせ、
「そこまで言うなら」
 と引き受ければ、恩を売ることになり、立場も強くなる。

 難しいのは、どの段階で〝折れてみせる〟かであり、そこを見極めるのが〝能力〟というものだろう。

 このことは、政治やビジネスに限るまい。
 恋愛上手の女性は、生来、その能力を身につけているではないか。

 内閣支持率のニュースを読みながら、そんなことを思った次第。


投稿者 mukaidani : 14:19