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2008年06月28日

卑下して笑いを取ろうとする〝愚〟

 我が家の近くに「インドアテニス場」がある。

 このそばをクルマで走っていて、女房が苦笑しながら言った。
「あの看板を見て、私は〝インドのテニス〟かと思ったのよ」

「アハハハ」
 私は笑った。
 笑ったが、この笑いは複雑である。
 笑いの理由が「女房のアホさ加減」にあるからだ。

「アハハハ」
 と笑って言葉を継ぐには、
「おまえって、ホントにおバカだね」
 と言うしかなくなる。

 そんなことを口にすれば、女房の頭にツノである。

 さりとて、笑い理由が「女房のアホさ加減」にある以上、「アハハ」のあとにフォローする言葉が出でこない。

 かくして私は、「アハハハ」と意味不明の笑い声を発しただけで、この話題はそれ以上は発展しなかった。

 なぜこんな話を紹介したかというと、初対面での話題の振り方について、ふと考えたからである。

 初対面の場合、良好な人間関係を築こうとして、楽しい話を枕に振ることが多い。
 もちろん、これはいいことなのだが、問題は「話題」である。

 たとえば大手町の某社へ訪問し、名刺交換をしてから〝楽しい話題〟を振ったとする。

「いやあ、丸の内で迷っちゃいましてねぇ。再開発で東京駅周辺が変わったとは聞いていましたが、まさか迷い子になるとはね、アハハハ」
「ええ、このあたりもサマ変わりしましたからね」

 相手は微笑みながらも、二の句が出てこない。
 なぜなら、この〝楽しい話〟は、
(お宅、ドジだねぇ)
 という楽しさなのだ。

 だから、
「ええ、このあたりもサマ変わりしましたからね」
 と言うしかなく、あとの言葉が続かないのである。

 そして、中途半端な会話の途切れによって、何となく気まずい空気が流れてしまい、わざわざ〝楽しい話〟を枕に振ったことが逆効果になってしまうのである。

 その原因は、「自分を笑いのネタ」にしたことにある。
 これでは相手は、ハハハハと微笑むしかない。

「そうでっか! お宅、ホンマにおバカでんな」
 と言えるわけがないのだ。

 以上のことから、〝楽しい話〟は、第三者(あるいは世間話)を振ること。

「いま御社まで乗ってきたタクシーは、例の〝居酒屋タクシー〟だったそうですよ」
「ほう」
「役人が乗らなくなったってボヤてましたから、いっそのこと屋形船の向こうを張って〝屋形タクシー〟にしたらどうだ、って言ってやったんですよ」
「アッハハ。実は私も先夜、タクシーに乗りましたら……」

 話は弾む。
 少なくとも、「自分を笑いのネタ」にするより打ち解けるはずである。

 しかるに人間は、自分のドジさ加減をサカナにしたがる。
 そのほうが楽だからだ。
 だが、自分を卑下して会話を弾ませようなど、実は逆効果であることに気がつかない。

 自分をサカナにするなかれ――。〝インドのテニス〟の看板を見るたびに、私はそう肝に銘じるのである。

投稿者 mukaidani : 23:42

2008年06月27日

観光地の落書きと「存在証明」

 我が家にマックというトイプードルがいる。
 毛色が「真っ黒」であることから、「まっくろ」「マック」と名付けた。
 すでに十年を生き、老犬になりつつある。

 そのマックを連れ、気が向いたときに散歩に出かけるのだが、老犬は例によって、電柱など小便をあちこちにひっかけながら歩いていく。
 ご承知のように、マーキングという行為だ。

(本能とはいえ、犬も難儀なことよのう)
 と思っていたら、人間もマーキングすることを知って驚いた。

女子短大生6人のほかにも、大学の男子学生3人が、イタリア・フィレンツェの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」の柱に落書きしていたというではないか。

 犬のマーキングは、
「ここはワシの縄張りじゃ」
 というメッセージだが、人間のマーキングは、
「ほれ、このとおり、ここに来ましたぜ」
 という〝存在証明〟のマーキングである。

 ついでに言えば、記念写真も同じで、旅行のスナップ写真は、
「ほれ、このとおりパリに来たわよ」
 というマーキング(存在証明)。

 卒業写真は、
「ほれ、このとおり、学校を出たぜ」
 というマーキング。

 家族の写真は、
「ほれ、このとおり、これがわが家だぜ」
 というマーキング。

 私たちの人生はマーキングと共にあり、写真を眺めて思い出に浸ったり、笑ったり、悲しんだりするのは、「存在」に対する追憶なのである。

 では、なぜ「存在」を追憶したがるのだろうか。
 なぜ「存在証明」というマーキングに、私たちはこだわるのだろうか。

 それはたぶん、いずれ来るであろう「死」に対する無意識の恐れではないだろうか。

 死によって、自分の存在が「無」になるという恐れが「存在証明」に駆り立てているように私は思うのである。

 逆説的に言えば、記念写真や落書きなど、「存在証明」というマーキングにこだわらないということは、死を恐れないということになるのではないだろうか。

 だから、死を自然のこととして受け容れる人間は、記念写真も撮らなければ落書きもしない。

(よし、これからは記念写真など撮らんぞ)
 と思いつつ、その一方で、
(このHPをリニュアルしたら、写真もアップしようかな)
 などと考えている。

 自己矛盾だと反省しつつ、
(しかし脳は、右脳と左脳があって役割が違うと言うしな。矛盾して当然だろう)

 今日も自分に詭弁を弄しつつ、マーキングについて考えた次第。


投稿者 mukaidani : 15:29

2008年06月26日

とりあえずの健康に感謝

 資料本の字を追うのがつらくなった。
 老眼が進んだようだ。

 で、いつも世話になっているメガネ屋へ行った。

 検眼が終わって、中年の温厚な店員さんはニッコリ笑って言った。
「老眼はあまり進んでいませんね。遠くは少し見づらくなっていますが」
 朗報のつもりで言ってくれているのだが、私は面白くない。

「こりゃ、老眼が進んでますねェ」
 こう言ってくれれば、嬉しくはないものの、
(やっぱりな)
 と納得するのである。

 ところが、
「あまり進んでいませんね」
 と言われたのでは、
(おいおい、字が見づらくなっているんだぜ)
 と抗議したくなってくるのである。

 たとえて言えば、体調不良で病院へ診察に行ったときの気分と同じなのだ。

「疲れてるんでしょう。何ともないですよ」
 医者にノンキな声でこう言われると、
(冗談やねぇ)
 と反発が起こってくるが、
「血圧が高くなっていますね。これじゃ、頭が痛くなるでしょう」
 こう言われると、
「そうですか、やっぱり」
 妙な心理だが、「悪い」と言われて安心するのである。

(人間、アマノジャクなものよ)
 と嘯(うそぶ)いていたら、友人が入院した。

 重い病気で、検査が続いている。

 友人は、ワラをもすがる思いで、
「大丈夫です」
 という医者の言葉を待っている。

「悪い」
 と言われて〝安心〟するアマノジャクは、結局、心の片隅に健康だという自信があるからだろう。
 傲慢なことではないか。

 これからは、ガタがきた身体ではあるが、とりあえずの健康に感謝して生きていこう。
 友人の回復を心から祈りつつ、そんなことを思うのである。

投稿者 mukaidani : 00:48

2008年06月21日

善に理屈なく、悪に理屈あり

 梅雨の晴れ間を狙い、急いで畑へ行った。

 親父がヒマにあかせ、次から次へと野菜の苗を買ってきては植えるので、知人にお借りした畑の面積が次第に増えていって、いまでは百坪を超えてしまっている。

 植えるのは簡単だが、畑も百坪を超えると、難儀するのは雑草である。

 抜いても、刈っても、むしっても、雑草があざ笑うかのようにグングン伸びてきて、畑を覆い尽くそうとする。親父は鼻歌まじりで苗を植え、私は汗を滴(したた)らせながら、ひたすら草引きなのである。

 どこに何が植わっているかもわからず、地面を睨んで〝草削り〟の鍬を打ちこんでいると、ノドが乾いてきた。

 農道に駐めたクルマに水のペットボトルが置いてあるのだが、何しろ百坪超である。
(あそこまで歩いていくのはヤだなァ)
 と思ったとき、ふと、
《渇しても盗泉の水を飲まず》
 という故事が唐突に浮かんだ。

 前にも書いたと思うが、
「畑仕事は無心になれる」
 というのは、私の経験ではウソで、いろんなことが脈絡なく脳裡をかすめては消えていくのだ。

 まっ、「脈絡なくかすめて消える」というところがミソで、拘泥しないことをもって「無心」と言うなら、そうだろう。

 で、盗泉である。

 故事の由来は、ご承知のように、孔子が「盗泉」という所を通ったとき、ノドが渇いていたが、その地名の賤(いや)しさ嫌ってその水を飲まなかった、というものだ。
 ここから転じて、「盗泉」という言葉は、「恥ずべき行い」のたとえとして用いら、「人間は高潔であれ」とする。

(でもなァ。それって正しいことなのかなァ)
 ノドの渇きをこらえつつ、私は首をひねったのである。

 ノドが渇けば、「盗泉」だろうが「奪泉」だろうが、ガブガブ飲めばいいのだ。高潔も結構だが、まずノドの渇きを潤(うるお)すこと。倒れたら元も子もないのだ。

(それに)
 と、私は思う。
《清濁併せ飲む》
 という言葉もあるではないか。

 そんなことを自問自答していると、これまた脈絡なく、
(理屈ってのは、後ろめたいことにつくんじゃないか?)
 そんな思いがよぎったのである。

 なぜなら、私は心の隅で《渇しても盗泉の水を飲まず》という生き方を「善」と認めているのだ。
 そういう高潔な生き方が、理屈抜きで正しいと思っているのだ。

 だから、もし私がノドの渇きを癒すため「盗泉」の水を飲もうとするなら、「善」であるという思いを否定しなくてはならない。
 そこで、
(倒れたら元も子もないのだ)
 という〝理屈〟がつくというわけである。

 《善に理屈なく、悪に理屈あり》
 そんなフレーズが浮かんだところで、私は鍬を置いて、ペットボトルを取りにクルマに向かったのである。


投稿者 mukaidani : 11:16

2008年06月17日

「ハゲだ!」と園児に言われて考えた

 夕方、孫二人を迎えに女房と保育園へ行ったときのことだ。

 ワンパク顔をした園児が、私のスキンヘッドを指さして、
「あっ、ツルっ禿(ぱげ)!」
 と言って笑った。

「こらッ! ツルっ禿で悪かったな!」
 わざと噛みつくように言うと、
「ワー!」
 驚き、走って園庭へ逃げて行った。

 あとで女房にこっぴどく怒られたが、それから数日後。
 また女房と保育園へ迎えに行くと、先日のワンパク坊やが待ちかまえていたかのように、
「あっ、ツルっ禿!」
「悪かったな!」
「ワー!」

 またしても女房に怒られたので、その次はバンダナをかぶって保育園に出かけた。
 すると例によってワンパク坊やそばにやってきて、バンダナを恨めしそうに見上げながら、
「それ、ヘンなの」
 とだけ言って、園庭へ去っていった。

「ツルっ禿!」
 とワンパク坊やは言いたかったのだろが、私の頭がこの日は〝ツルっ禿〟ではなかったので、そうと言えなかっのである。

(面白いな)
 と思った。

 ツルっ禿げであるのに、布一枚で隠しただけで、ツルっ禿じゃなくなったのだ。
 このことに、私は考えさせられた。

 たとえば、ハゲとカツラ。

 カツラをつければ、ハゲと承知していても、「ハゲ」とは揶揄しない。
「あいつ、ヅラだぜ」
 と、揶揄するのは、目に見えるカツラなのである。

 あるいは、背が低い男と踵(かかと)が高くなった〝シークレットシューズ〟もそうだ。
 背が低いとみんなが承知していても、シークレットシューズを履いて背が高くなった彼を、「チビ」とは揶揄しないで、
「あいつ、シークレットシューズを履いているんだぜ」
 と、揶揄するのは目に見えるシューズである。

 さて、ここからである。
 たとえばカツラをつけた男が、接客業であればどうなるか。
「じゃ、ヅラもつけるよな」
 と、周囲は納得。

 シークレットシューズの男が俳優であればどうなるか。
「じゃ、履いて背を高く見せるよな」
 と納得である。

 その結果、「ハゲ」や「背が低い」という〝本質〟は問われなくなる。

 このことから〝本質〟は、理由をつけて矛先をかわしてしまえば不問となり、あとはいかようにもできるということなのである。

 ということは、〝悪あがき〟は実に有効な手段であるということ。
 論点を拡散させればさせるほど、本質はそのなかに埋没していくのである。

 以上、私は保育園でワンパク坊やから、貴重なことを学んだ次第。

投稿者 mukaidani : 23:45

2008年06月16日

「男物の日傘」でブームを考える

 今日――といっても、日付が変わったので昨日になるが、注文していた男物の日傘が宅配便で届いた。

 男性のあいだで、日傘が静かなブームだというニュースを見て、さっそく通販で購入したのである。

 布はシルバーグレーの透け透けで、鏡に映して見ると、実にカッコいいのだ。作務衣にこれをさせば、ドンピシャリではないか。
 カミさんに自慢して見せたかったが、あいにく出かけている。
 84歳の親父に見せてもしょうがない。

 人間は、「悲しいときは一人でも耐えられるが、嬉しいときにこそ孤独感に苛(さいな)まれる」という言葉を思い出す。

《咳をしても一人》
 というのは、尾崎放哉の有名な一句だが、私の場合は、
《日傘をさしても一人》
 ということか。
 放哉は孤独感を咳に託し、私は日傘に託して詠んだというわけである。

 放哉の心情に思いを馳せつつ、私が一人、日傘をさして居間のソファに座っていると、グッドタイミングで、近所に住む娘が孫を二人つれ、買い物途中に立ち寄ったのである。

「何してるの?」
 日傘をさし、パジャマ姿でソファに座る私を見て、娘が目を剥いた。
 4歳の孫(男)は奇異な目で、私を見ている。
 まもなく2歳になる孫(女)は、居間の入口で立ち止まり、警戒心を露わに私を見ている。

「ちょっと、何よそれ」
 娘が咎めるように言う。
「男物の日傘だ」
「通販?」
 破って放置した包装紙を見ながら言う。
「そうだ。いま届いた。流行しているのを知らんのか?」
「そうらしいけど、でも、そんなもの、本当に買う人がいるのねぇ」
 妙な感心をして、
「すぐに置き忘れてきて、お母さんに怒られるんだから」
 バチ当たりなことを言って帰っていった。

 再び一人になって、
「そんなもの、本当に買う人がいるのねぇ」
 という娘の言葉を反芻した。

 考えてみれば、番傘は欲しいと思っていたが、男が日傘をさすなど、私自身、思いもよらないことだった。
 実際、社会通念としても、日傘は女のものだ。スキンヘッドの私にとって夏はつらいが、日傘という発想はハナからなかったのである。

 ところが、「ブームです」というニュースの一言で、「男の日傘」が奇異ではなくなってきたのである。

 ここですな。

「ブーム」という一言は、価値観や社会通念を一変する力がある。

 もっといえば、「ブーム」は〝お墨付き〟のことで、ひとたび〝お墨付き〟をもらえば、何でもOKということであり、そのことを知らない人間は、「遅れてるゥ~」とバカにされるだ。

 男の化粧も、脱毛も、み~んな「ブーム」という言葉の〝お墨付き〟で市民権を得たのである。

 ヨン様だって、「ブームです」と報じるから、おばちゃんたちが遠慮なくキャーキャー騒げるのであって、あれが〝ブーム〟でなければ、冷たい目で見られることだろう。

 モノの価値観とは、ことほど左様に浮薄なものなのである。

 世間の〝ブーム〟に背を向け、へそ曲がりと言われる私が、自分に都合のいい〝ブーム〟には、いそいそと乗る。

 日傘をさした自分をもう一度、鏡に映しつつ、
(人間、勝手なものだな)
 と、つくづく納得した次第。

投稿者 mukaidani : 00:20

2008年06月12日

心の闇

 人を殺そうと思って生まれてくる人間はいない。
 殺されると思って生きている人間もいない。
 まして我が子が殺人犯になろうなど、育てる親は夢にも思うまい。

 理不尽な凶悪事件が起こるたびに、「心の闇」という言葉が用いられる。
 秋葉原の殺傷事件も、「心の闇」という言葉で報じられている。なぜ凶行に至ったか、その動機と原因が常識で図れない場合、メディアはこの言葉を使う。

 だが、理屈や常識で説明できないから「闇」なのではない。
 人間はそうと自覚しないだけで、誰しも生来、解明不能の「闇」を心に抱えているのだ。

(自分の心に、どんな闇が潜んでいるのか)

 秋葉原の悲惨な事件をニュースで見ながら、私はそのことを考えないわけにはいかない。

投稿者 mukaidani : 20:23

2008年06月09日

桜は散るをめでたしとする

 土曜日から鴨川市の仕事部屋いる。

 昨日、毎度のごとく館山の健康ランドに行く。

 露天風呂に浸かって手足を伸ばし、ひょいと庭を眺めると、目を楽しませてくれたモミジが、いまも紅葉を保っていた。

(おっ、頑張ってるな)
 と思ったわけではない。

(なんだ、まだ紅葉したままでいるのか)
 心の中で毒づいていたのである。

 このモミジの紅葉を、ブログでご紹介したのは、調べてみると4月28日だった。

 赤く色づいたモミジを紹介しつつ、
《裏を見せ、表を見せて、散るモミジ》
 という良寛の歌を引いて、人生の思いを綴った。

 まっ、我ながら感動したのである。

 だが、感動のモミジも、いつまでも赤く色づいたままで突っ立っていると、何だかシラケてきて、
(やっぱり、花の美しさは、散り際の見事さだなァ)
 と、勝手なことを言うのである。

 どんな感動も、いつまで続けば厭(あ)きがくる。

 桜がもし2ヶ月も3ヶ月も咲き続けたらどうだろう。
 凡庸な花になるに違いない。

 酒席も同じだ。
 人さまの家を訪ねたときも同じだ。

 どんなに話が弾もうと、グズグズと〝長っ尻〟していたのでは、次第に倦(う)まれることになる。

「まだいいじゃないか」
 引き留められるくらいで席を立ってこそ、余韻が残るのである。

《月は惜しまれて入り、桜は散るをめでたとしとする》

 これは、人生のすべてにおいて言えるのではないか。
 露天風呂でモミジを眺めながら、そんなことを思った。

投稿者 mukaidani : 17:47

2008年06月08日

「正義感」と「過剰防衛」

 犯人が拳銃自殺して幕切れとなった埼玉県川越市の「発砲立てこもり事件」。

 解決まで8時間半を要したことで、住民から批判の声があがっているとの報道がある。

「もっと早く解決できたのではないか」「人質がいないから狙撃してもよかったのではないか」――など、さまざまな意見が出ていると報じている。

 私は、こうした批判の声を聞くたびに、〝後出しジャンケン〟の身勝手さを感じる。

 後出しジャンケン――つまり、無事解決という「結果」が出てからの批判であるからだ。

「よし! 人質がいないから犯人を狙撃だ!」
 警察が断を下し、もし住民に危害が及んだら、住民たちは何と言うか。

「もっと慎重に対処すべきではないか!」
 こう批判することだろう。

 メディアも尻馬に乗って、イケイケドンドンの批判の嵐となる。

 無事に解決すれば「もっと早く解決しろ」。
 アクシデントが起これば「警察のミスだ」と批判。
 こういう〝後出しジャンケン〟はイヤな風潮である。

 実は、このあいだから気持ちに引っかかっていることがある。

 電車の中の痴漢事件。
 女性が助けを求めたが、周囲の客は助けてくれなかったという報道だ。女性は自力で逃げ出し、車掌に知らせ、男は警察に引き渡されたが、報道は乗客の態度を批判的に報じていた。

 なるほど、乗客の態度には私も悲しくなる。
 腹立たしくなる。

 私がその思いを口にすると、知人が言った。
「もしケンカになって、痴漢野郎をブっ飛ばしてみろ。過剰防衛になってしまうぞ」
 正義が一転、傷害事件になってしまう、と知人は言うのだ。

 このときメディアは、「正義感」を擁護するだろうか。
 擁護はしまい。
「暴力を振るう前に車掌に通報するなり、適切な手段があったのではないか」 と批判的に書くだろう。

 知らん顔をしていれば批判し、正義感が結果として暴力沙汰になれば、過剰防衛だと批判する。

 これも〝後出しジャンケン〟なのだ。
《義を見てせざるは勇なきなり》
 という正義感こそ尊いのであって、〝傷害事件〟は成り行きの結果に過ぎないと、私は思うのである。

 かつて私は、深夜の電車で、私の隣で痴漢していた男を見つけたことがある。
 娘さんは気の毒に、うつむいて耐えていた。
 私は頭に来た。
 男を怒鳴りつけ、胸ぐらを締め上げたところ車内は騒然となり、その隙に男は停車した駅で逃げた。

 もしこのとき、男が居直ったら、私とケンカになったはずだ。
 そして、私が男をボコボコにしたらどうなっていたろう。
 傷害事件である。

「よけいなことしてバカな奴」
 と嘲笑されたことだろう。

「正義感」が「過剰防衛」という法律に屈するのだ。
 そんな世の中が、果たして健全なのだろうか。

 暴力を否定しつつ、釈然としない思いが私の心に引っかかって離れないでいる。

投稿者 mukaidani : 01:01

2008年06月06日

尿管結石の兆候に「ヤバ!」

 先週は、黒人演歌歌手のジェロ君、今週はガッツ石松さんを取材した。

 それぞれ話は興味深く、面白く、また触発もされて楽しかったが、人物取材がいかにエネルギーを要するものか、〝現場〟を離れて久しい私は改めて思い知らされた。

 数年前、週刊女性で人物記事の連載をもっていたのだが、よくぞ毎週インタビューしていたものだと、我ながら感心する。「生活のリズム」とは何とも怖いものである。

「生活のリズム」と言えば、このところ集中力が散漫で、執筆のペースが遅くなっていて、
(ヤバイぞ)
 と思っていた。

 何がヤバイのかと言うと、〆切の〝綱渡り〟をしているときに限って、パソコンに不具合が生じるなど、のっぴきならないアクシデントが起こることを経験則で知っているからである。

 仕事に限らず、「ものごとは自分の都合よくはいかない」というのが私の人生観で、予定は必ず〝計算違い〟が生じるのだ。

(何だかイヤな予感がするなァ)
 と思っていたら、昨日の未明。
 突如、左の脇腹が痛み始めた。

(石だ!)
 咄嗟に飛び起きた。
 私は尿管結石の〝持病〟があるのだ。
 この痛さはハンパじゃなく、この20年で4回、脂汗を流している。うち1回は入院したほとだ。

 だから、結石の対処法は、これまた経験則で知っている。
 痛みが激しくなるまでが勝負。
 私はすぐさま寝室から階下に下りるや、居間で飛び跳ねた。
 尿管の途中で引っかかっている〝石〟を膀胱に落とせば、痛みは収まるからだ。

 跳んだ。

 跳んで、跳んで、跳んで、跳んで……。

 朝4時から6時まで、両足跳び、片足跳び、その場走り。
 息は上がり、全身は汗びっしょりになったが、痛みは激しくなる前に何とか収束した次第。

 そう言えば、沖縄に古武道の稽古で毎月通っているときも、夜中に〝石〟で横腹が痛み始めて、ホテルの前の横断歩道橋を、跳ねるように上がったり下りたりしたものだった。

 この〝持病〟を抱えたまま、歳を拾うのかと思うと気が重くなる。
 後期高齢者になれば、2時間も飛び跳ねることなど不可能で、結石の痛みに七転八倒することになる。

 身勝手ながら私は、いま論議されている後期高齢者医療制度より、そっちを心配しているのだ。
 

投稿者 mukaidani : 01:05

2008年06月03日

橋下府知事は、府民に寄付を募れ

 大阪府の職員は気の毒である。

 命ぜられるままに仕事をしてきただけなのに、財政が赤字でヤバイからといって給料を減らされるのだ。

「私たち、何か悪いことをしたでしょうか」
 と、府職員が橋下徹府知事に訴えたそうだが、職員たちは腸(はらわた)が煮えくりかえる思いだろう。
 責任を取るのは、府政の舵取りをした歴代の知事と議員ではないのか。

 私は財政問題にはシロウトだが、外野席から見ていて思うのは、あれは財政再建でも何でもない。ゼニが足りなくなったので、ご主人様(橋下府知事)が、奉公人(府職員)の給金を削ろうとしているだけなのだ。

 奉公人は口はとがらせても、ご主人様にタテつくことはできない。
 こういうのを「弱い者いじめ」と言うのではなかったか。

 大阪府の財政が破綻するというなら、等しく府民からゼニを出してもらえばよい。

 860万人の府民がいるから、単純計算で1人2万円を寄付してもらえば1720億円になる。

 もちろん、そんなことを口にすれば、当然ながら府民から非難囂々だろう。
 だが、ドロをかぶる覚悟なくして、大阪府の財政再建ができるのだろうか。

「みなさん、大阪府を救おうではありませんか!」
 橋下府知事は、このときこそ泣いて訴えればよいのだ。
 それをせずして〝奉公人〟の給金だけ削るのは、安易に過ぎると同時に、府民の人気取りと思われても仕方があるまい。

 ゼニがないから削る――というのは正しい。
 だが、それは誰でもできる。
 現実問題として、そうするしかないからである。
 すなわちリーダーたる知事の手腕は、削るだけでなく、いかに金をつくってみせるか――ここで評価されるのだ。

 そして、蛇足ながら、「府知事」を「亭主」に置き換えれば、我が身となる。
 いかに稼ぎを多くするか。
 ガソリン200円時代を目前に、一般家庭の〝知事〟は、いま必死なのである。


 

投稿者 mukaidani : 02:27