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2008年05月31日

見栄を張らず、人生ボチボチ

 見栄を張ってナンボ――そう信じて生きてきた。
 喜怒哀楽を表に出す人間は「素直」でもなんでもなく、腹が減ったと言ってキャンキャン泣いてみせる犬と同列である。
 だから「武士は食わねど高楊枝」で、人間は見栄を張るべきだと思うのだ。

 だが、最近は少し考えが変わってきた。
 見栄を張ることの愚かさに気がついた、というわけではない。
 面倒くさくなったのだ。

 これまで私は、10のものを5に見られるのはしゃくだった。
 むしろ12に見せるように努力してきた。
 ところが最近は、5に見られようが3に見られようが、
(ああ、そうですか)
 と、気にならなくなってきたのである。

 達観したのではない。
 57歳という年齢になってみれば、10のものを12に見せたからといって、人生ボチボチ。ほとんど影響しなくなってきたからだ。
 同様に、10のものが5に見られたからといって、これも人生ボチボチなのである。

(ならば、見栄を張るだけしんどいではないか)
 そう思うようになってきたのである。

 思うだけではだめで、即、実践だ。
 すぐさまデーラーに電話して、クルマも小さいものに買い換えることにした。
 時計も、ハデな金ムクはしない。
 今日は雨なので、古いジーパンに長靴を履いて出かけた。
 先ほど、女房と昼食に出かけたが、値段の安いものをあえて注文した。

 やってみると、これが実に清々(すがすが)しい気分なのである。

 あんまり気分がいいので、もう一枚、作務衣を仕立てたくなってきた。
「おい、京都の岩田呉服店から生地見本が来てたろ?」
 レストランで食後のコーヒーを飲みながら、思わず女房に告げていたのだった。

 煩悩とは、げに恐ろしきものなのである
 

投稿者 mukaidani : 15:57

2008年05月27日

世相と空虚なフレーズ

 かつて大相撲ファンは、力士に人生を見た。

 十代の少年が苦しい修行に耐え、関取となって郷里に錦を飾る――その努力と勇姿に〝人生の感動〟を覚えるのだと、かつて年配の相撲ファンは私に語ってくれたことがある。

「飛行機に乗せてやるぞ」
 そんな言葉に胸を弾ませ、郷里を後にした少年がいる。

「相撲取りになったら、腹一杯うまいものが食えるぞ」
 そんな言葉に目を輝かせ、郷里を後にした少年もいる。

 日本が貧しかった時代、相撲取りの多くは、それぞれの人生を背負って土俵に立った。その勇姿にファンは自分が果たせなかった人生の夢を重ね合わせ、熱い声援を送ったのだった。

 周知のように、朝青龍と白鵬の一番に対し、横綱の品格に欠けるとして批判が起こっている。
 来場所は〝遺恨試合〟として、大いに盛り上がることだろう。
 大相撲は、髷(まげ)をつけたプロレスになったのだ。

 いま思えば、
「感動した!」
 と土俵で叫んで流行語にした元首相は、いったい何に感動したのだろうか。

 ハンカチ王子にハニカミ王子、宮崎のセールスマンにオッパッピー、そして、どんだけぇ……。
 空虚なフレーズに乗って世相は流れて行く。

「ええじゃないか、ええじゃないか、えじゃないか……」
 江戸時代後期に流行ったフレーズが、私の耳の奥底で聞こえてくる。
 私たちは、いったいどこへ向かって歩いているのだろうか。

投稿者 mukaidani : 01:54

2008年05月25日

人生の大事は《セーフティー〝網棚〟》

 待望の作務衣が届いた。

 4月、京都に行った折り、馴染みの岩田呉服店に寄って、ご主人の岩田信一さんのアドバイスをいただいて仕立てたものだ。袖は着物袖に、陣羽織のデザインは……。

「おい、どうだ」
 試着し、得意満面で女房に言うと、
「素敵だけど、作務衣ばっかり次から次へと……。あんた、小欲知足じゃないの? 口先ばっかりね」
 嫌味を言う。

「バカ者!」
 私が諭す。
「いかに自分が欲にまみれた凡夫であるか、こうして自己確認をしているのだ。仏法を学ぶということは、自分の愚かさを知ることであり……」
「私をごまかそうたって、そうはいかないわよ。そういうのを〝自分のことは棚に上げる〟って言うのよ」
 私の手の内はお見通しで、すこぶるやりにくいのである。

 だが、このとき、ふと考えた。

 弱者救済のためのセーフティーネットという言葉があるが、我ら凡夫にはむしろ《セーフティー〝網棚〟》こそ不可欠なものではないのか?

《セーフティー〝網棚〟》とは、電車の網棚のようなもので、「自分のことを棚に上げる〝網棚〟」である。

 医学に素人の私の独断だが、ウツ病など精神的な変調は、この《セーフティー〝網棚〟》がしっかりしていないことに一因があるのではないだろうか。

「あんた、小欲知足じゃないの? 口先ばっかり」

 女房にこう言われて、
(ああ、女房の言うとおり、わしは言行不一致。何て愚かな人間なんだ。バカ、バカ、バカ……)
 自己批判すれば、陰々滅々。やがて精神に変調をきたすだろう。

 たとえ自分に非があろうとも、
「バカ者!」
 一喝し、自分のことを棚に上げ、自己の正当性を主張するからこそ、大手を振って生きていけるのである。

 ウソをつけと言うのではない。
 我を通せと言うのでもない。
 時に応じて、自分のことを棚に上げる〝図太さ〟もまた、生きていくうえで必要なことだと、私は思うのである。

 自分のことを棚に上げて、自己正当性を主張すれば、ちょっぴり心に痛みを覚える。
 それでいいのだ。
 最悪なのは、「自分のことを棚に上げている」という自覚のないことなのである。

「正当性の主張」と「心の痛み」――この狭間で揺れることを「生きる」と言うのではないだろうか。

「このことに気づいただけでも、作務衣を新調してよかったではないか」
 かくのこどく、私は女房に正当性を主張するのである。

 ついでながら、作務衣に興味のある人は、以下、岩田呉服店のホームページをのぞいてみてください。作務衣もいいものです。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/iwatasin/

投稿者 mukaidani : 14:48

2008年05月22日

怒りの本質は「敵は本能寺」

 昨日、稽古態度の悪い子供たちを怒鳴りつけた。

 稽古が終わって、ふと考えた。

(俺はなぜ怒ったんだ?)

「稽古態度が悪い」というのは確かに《原因》ではあるが、
(果たしてそれは怒りの《真因》なのだろうか?)
 そんな疑念が浮かんできたのである。

 そして、子供たちを怒った真因を探っていくと、仕事が捗(はかど)っていないことに行き当たった。イライラが、子供の稽古態度の悪さを〝引き金〟として怒りに転嫁したのである。

 どうやら〝怒り〟というやつは、《原因》と《真因》があり、両者は直接関係しないということのようだ。

「福田首相は何だ! 人ごとみたいなこと言いやがって!」

 怒りの《原因》は、福田首相の木で鼻をくくった態度にあるが、《真因》は物価高騰など、暮らしにくくなってきたイライラであると言えるだろう。

「何よ、たまには家事を手伝ったらどうなの!」
「仕事をやる気があるのか!」

〝敵は本能寺〟で、怒りの《真因》が別にある以上、あわてて家事を手伝うのは無意味。
「何よ、その掃除の仕方は! あなたのそういう無神経さが嫌なのよ!」
《真因》が解消されない限り、怒りは次から次へと続いていくことになる。

 上司の怒りも同様で、叱責の《原因》を改めても、上司の怒りは収まらないのである。

 では、なぜ人間は《真因》でなく、《原因》を怒りの引き金にするのだろうか。

 たぶんそれは、《真因》は見えにくいからだ。
 もっと言えば、
「自分の思いどおりにならない」
「願望が満たされない」
「理想と現実とのズレ」
 といった不満が《真因》になっている場合が多いからである。

 だから、見えにくい。
 いや、見ようとしない。

 そして、そうした不満が、怒りの〝正当性〟にならないことを本人が誰より承知している。怒るには正当性――すなわち〝錦の御旗〟を必要とするからである。

 だから、正当性になりそうな《原因》に仮託して怒るのだ。

「ちょっと、オナラするのをやめてよ!」
 女房に怒られ、オナラするのをやめたとしても、女房の機嫌は直らないのだ。

「やる気があるのか!」
 必死でやる気を見せても、上司の機嫌は直るまい。

 これが怒りの実相であろう。

 怒りに限らず、人生というやつは、常に〝敵は本能寺〟なのだ。

投稿者 mukaidani : 10:37

2008年05月20日

人生は〝面白がる〟もの

 今日の午前中、東京商工会議所品川支部でセミナー講演をしてきた。

 品川支部に招かれるのはこれで3度目だが、今回もご担当の増山雄三氏が過不足のない段取りをしてくださった上、みなさん、私の拙(つたな)い話を熱心に聞いてくださり、気持ちのよい講演会だった。

 話すときのノリは「聞き手」との呼吸が左右し、書くときのノリは「自分」との呼吸が左右する。
 それぞれに質の違う難しさがあり、またそこが面白いところでもある――と言いたいところだが、ホンネを申せば、どっちも楽じゃない。

 楽じゃないから、面白がってみる。

 すると、人生が愉快になる。

「そんなバカな」
 と鼻で笑うのは、人生の何たるかを知らない人だ。

 思春期の女の子は、箸が転んでも笑うではないか。

 箸が転んだことが可笑しいのではない。

 人生に興味津々の思春期は、箸が転んでさえ「面白がれる」ということなのである。

 面白がること――ここに人生の要諦があると、私は思うのだ。
 

投稿者 mukaidani : 21:17

2008年05月17日

優位に立つ「我田引水法」

かつて、イケイケで鳴らした若手総会屋が、こんな話をしてくれたことがある。

「雑巾に柄(え)をつけりゃ、立派なモップになる。これが私の仕事のやり方ですよ」

 つまり雑巾という「ネタ」に「理屈」という柄をつければ、もっともらしい「意見」になるということである。

 たとえば、頻繁(ひんぱん)に海外出張している社長に対しては、
「この非常時に会社を留守にして何事か!」
 と噛みつく。

 逆に、海外出張がまったくなければ、
「この非常時に会社に引きこもっていていいのか!」
 と噛みつく。

 柄の付け方によって解釈はどうにでもなるということで、この手法を「我田引水法」と私は呼んでいる。

 たとえば徳川家康の、
《人生は、重き荷を背負いて、遠き道を行くがごとし》
 という箴言をどう解釈するか。

「あの家康ですら苦労しているんだ。人間、同じなんだな」
 と肯定的にとらえるか、
「富も権力も手に入れりゃ、荷物も重くなるさ。苦労するのは当たり前。自業自得だろ」
 と否定的にとらえるか。

 どう理屈をつけるかによって、解釈は正反対になる。
 すなわち、何事も理屈と解釈次第で「我田引水」になる、ということなのである。

「怠けてばかりで、ちっとも書かないわね」
 女房が嫌みを言えば、
「バカ者。量より質。それがまた量につながっていくんだ。違うか?」
「……」

「オナラするのはやめてよ」
 女房が顔をしかめれば、
「おまえの前だからできるんじゃないか」
 何だって応用がきくのだ。

 釈迦は入滅に際して、
《自灯明、法灯明》
 という言葉を弟子に残した。

「法をよりどころとし、自らをよりどころとせよ」
 と言う意味で、法とは仏法のことで普遍の真理を言う。

 つまり「解釈次第」ということがあってはならないということだが、私たちは「法灯明」を無視し、自分に都合よく「自灯明」だけをよりどころにして生きている。

 オナラにさえ理屈をつけるのだ。

 なるほど凡夫は、救い難ものではないか。
 

投稿者 mukaidani : 11:51

2008年05月14日

ネガティブな過去は吹聴すべし

 福田政権の支持率が20パーセントを割り、いよいよ自民党はヤバくなった。
 道路財源のデタラメ、年金のグチャグチャ、そして医療費を上げ、ついでに物価まで上げた。これだけ住みにくい世の中にしたのだから、自民党がヤバくなるのは当然だろう。
 
 で、政界再編成の動き。

(ウーム。いよいよ日本も変わるのか……)
 健康ランドのサウナ室でテレビニュースを見ながら、私は腕を組んで唸った。

 唸って、ふと考えた。
(住みにくい世の中にした責任は誰が取るんだ?)

 むろん、自民党の政治家である。
 ところが政界再編成になったら、どうなるのか?

 政界再編成と言えば聞こえがいが、要するに、沈没しかけた〝自民党丸〟からスタコラさっさと逃げ出し、別の船に乗り換えることを言う。
〝自民党丸〟は沈没するが、責任をとるべき乗組員はちゃっかり別の船に乗り移って、
「ヨーソロー! 面舵いっぱい!」
〝自民党丸〟を沈没させたことは頬っかむりして、またぞろ操船するのである。

 責任を誰も取らない――これが、政界再編成。

 だが、それで世の中は通るのだ。
「おまえ、元自民党だろ!」
 と非難はされない。
 これが、組織に属して世渡りする人間の強みで、組織という衣(ころも)を着替えさえすれば、大手を振って歩いていけるのだ。

 たとえば、かの〝マダム寿司〟の小池百合子女史。「タレ目のパンダちゃん」なんて失礼なことを言う人もいるが、どうしてどうして。日本新党を振り出しに新進党、自由党、保守党、自民党と衣を〝着替え〟つつ、とうとう次期総理候補にまでなった。

 あるいは、民主党の小沢のイッちゃんだってそうだ。いずれ総理になると言われたバリバリの自民党議員だったが、その過去を咎める者はいない。
「組織を変われば評判も変わる」――これが組織人である。

 ところが、私たち「個人」は違う。
 いったんレッテルを張られると、それは容易には剥がれない。
「カッコつけてるけど、あいつは不良で鼻つまみ者だったんだ」
 過去の悪評は延々とついてまわるのだ。

 ならば、どうすれはいいか。
 過去を隠さない。
 積極的にさらすのだ。

 たとえば、元ヤンキーであることを積極的にアピールすることで、議員になった人間もいる。「元ヤンキー」という肩書きがなければ、世間から注目されることはなかったろう。

 こんな例はいくらでもある。

 ネガティブな過去は、隠そうとするとスキャンダルになり、積極的に吹聴すれば勲章になるのだ。

 人間とは、なんと面白い生き物だろう。
 政界再編を話題にしたニュースをサウナ室で見ながら、そんなことを考えた次第。

投稿者 mukaidani : 12:42

2008年05月12日

船場吉兆が私たちに突きつけるもの

今朝――と言っても、日付が変わって昨日の朝、写真家の齊藤文護氏のアトリエへ出かけた。

 リニュアルするホームページ用に、私の写真を撮ってもらうためだ。

 齋藤文護氏は、通称「ブンゴちゃん」。2001年の『カンヌ国際広告賞』をはじめ『毎日広告デザイン賞グランプリ 』『ニューヨークADC賞』『ニュ-ズウイ-ク企業広告賞』『朝日広告賞』などを受賞する大家で、私の写真など頼める人ではないのだが、まっ、友人のよしみでお願いした次第。

「仕事じゃないんで緊張するな」
 
 ファインダーを覗き込みながら、ブンゴちゃんがつぶやく。
 彼のこういうところが、私は好きなのだ。
 もっとも、「緊張する」という言い方は彼のやさしさで、凡庸な被写体に頭を悩ませてのつぶやきだったのだろう。

『船場吉兆』の〝使い回し〟が連日報道されている。
 パート従業員までその事実を知りながら、なぜ十年近くも発覚しなかったのだろうか。
 そこが、私には不思議でならない。

「ここだけの話だけどさ」
 辞めた従業員なら、そう言ってこの秘密をバラすだろうに、よく黙っていられたものだ。

 従業員も、元従業員も、
「『吉兆』で働いている」
「働いていた」
 というステータスを守ろうとする意識が働くのだろうか。

 これが『居酒屋』であれば、ウワサはたちまち広がり、とっくに表沙汰になっていたろう。

 それと、もう一つ。
「『船場吉兆』ですら〝使い回し〟しているとなれば、他の料理屋は……」
 という懸念の声が起こらないのはなぜだろう。

「あの店なら、さもありなん」
 と、老女将のイメージに引きづられてのことであれば、本質を見落とすだろう。
 
 いま日本社会は「信頼」が揺らいでいる。
「このままではいけない」
 と考えるか、
「正直者がバカを見る」
 と、うまく立ちまわるほうにまわるか。

 どっちに振れるかで、日本社会は大きく変わっていくだろう。
 その分水嶺に私たちが立っていることを『船場吉兆』の一件は突きつけているような気がするのだ。
 

投稿者 mukaidani : 03:05

2008年05月06日

菊丸さんを熱海に訪ねて考えた

 一昨日のこと。
 所用があって、熱海の山腹で〝田舎暮らし〟を楽しむ桂菊丸・泉アキ夫妻を訪ねた。

 菊丸さんとは旧知だが、お会いするのは久しぶり。眼下の絶景を楽しみつつ、畑のこと、田舎暮らしのこと、人生のことなど話が弾み、愉快な時間を過ごした。

 私も〝田舎暮らし〟には興味がある。
 古武道の稽古で毎月、沖縄に通っていたころ、本気で沖縄に居を構えようかと思い、過疎地の物件を探したこともあるのだが、千葉に道場もあり、諸般の事情で断念した経緯がある。

 沖縄が無理なら、私が住む千葉県内で〝田舎暮らし〟をしようか――熱海からの帰途、新幹線のなかで、そんなことをつらつら考えていたら、ふと、
(年を取って、車の運転ができなくなったらどうするんだ?)
 そんな思いがよぎったのである。

(ウーン)
 私は唸った。

 何を唸ったかというと、人生の不条理に、である。

 若いころは、仕事に忙しくて〝田舎暮らし〟はとてもできない。
 さりとて、リタイヤしてからでは、そう遠くないうちに車の運転ができなくなるだろう。病気にでもなれば、通院もままなるまい。

 つまり、人生において〝田舎暮らし〟をするのは、至難のワザということなのである。

 だが、菊丸・泉アキ夫妻はすべてを承知で〝田舎暮らし〟を存分に楽しんでいる。
「今」を謳歌している。

(やはり人生、そうあるべきだな)
 私は反省した。

 来るか来ないかわからない「将来」のことなど、思い煩うことはないのだ。 

(桂菊丸さんブログ http://ameblo.jp/kiku-maru/

投稿者 mukaidani : 22:23

2008年05月01日

妙想は〝寝たふり〟をして待て

 脳の話をテレビで観た。
 解説は、人気の脳科学者・茂木健一郎氏で、とても面白かった。
 ことに暗記の話は、お経が覚えられずにいる私には、
(なるほど)
 ハタと膝を打つ思いであった。

 この記憶法は、まず声に出して書き写し、そのあと暗記対象を伏せて、思い出しながら書いてみる――というものだ。

 試しにおってみると、これが面白いように覚えられる。

 で、考えた。

(写経の要領で、小筆で書いてみてはどうか?)

 書の練習にもなって一石二鳥ではないか。

(さしもの脳科学者も、そこまでは気がつくまい)
 と得意気分で、さっそく小筆で書き始めた。

 うまくいかないのである。
 字を書くことに気を取られて、ちっとも暗記できないのである。
 一石二鳥ではなく、「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということか。
 欲をかいて〝写経〟など、心がけがよくないと反省した次第。

 脳の話と言えば、かねがね不思議に思っていることがある。

 街を歩いているときや、クルマを運転しているとき、風呂に入っているときなど、
(おっ、そうか!)
 と、不意に妙想が閃(ひらめ)くことがある。

 この閃きは、懸案を解きほぐすキィーワードであったり、コンセプトの眼目であったりするので、目の前の霧が一瞬にして晴れたような、浮き浮き気分になる。

 ところが、である。

 この閃きというやつは、その場でメモをしておかないと、蜃気楼のように消えてしまうのだ。
(ウーン、なんだっけな……)
 なまじ閃いただけに、気分は重く沈むのである。

「瞬時」のアイデアは、忘れるのも「瞬時」ということに気づいた私は、
(ならば)
 と、メモ帳を常に携行し、クルマを運転しているときはICレコーダまで用意するようになった。

 ところが、準備をすると、閃かないのである。

(さあ、いつ閃いてもいいぞ!)
 と期待して待っているのに、まったくもって妙想は浮かんでこないのである。

 そして、皮肉にもメモ帳を持たないときに限って、
(おっ、そうだ!)
 ピピピッと閃くという次第。

 これが不思議でならないのである。

「お金は、追えば逃げる」
 と言われるが、妙想もそれと同じということか。

 以上のことから、お金同様、
(妙想なんて期待してねぇよ)
 と、そっぽを向いていればいいということになる。
 知らん顔して待っていれば、蜜に吸い寄せられるように妙想のほうからヒラヒラと飛んでくるのだ。そこをすかさず、捕まえればいいのである。

 果報も妙想も〝寝たふり〟をして待てということか。

 寝てはだめで、〝寝たふり〟が要諦なのである。

投稿者 mukaidani : 22:29