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2008年04月28日

 館山の健康ランド。
 露天風呂の温泉に浸かって手足を伸ばし、庭の木々を眺めると、モミジが真っ赤に紅葉していた。

(いいねぇ)

 私はモミジが大好きで、すっかりいい気分になったのだが、ふと、
(あれ? モミジの紅葉は秋じゃないのか?)

 気になり、露天風呂から出てプレートの説明文を読むと、このモミジはノムラモミジで、紅葉は春とあった。

 恥ずかしながら、モミジが春に紅葉することを、このとき初めて知ったのである。

 私は広島県呉市で生まれ育ち、モミジで知られる宮島(厳島)には、子供のころから遠足などでよく行った。

 秋はモミジの紅葉が美しく、「安芸(あき)の宮島」と大人たちが呼ぶのを聞いて、てっきり「秋の宮島」だと子供心に思ったものだった。

 その思い込みがいまだに尾を引いていて、「モミジは秋」と潜在意識に刷り込まれているのだろう。

 そう納得し、露天の湯船からノムラモミジの紅葉を堪能しつつ、

《裏を見せ、表を見せて、散るモミジ》

 という良寛の歌を思い浮かべた。

 この歌は、良寛がガンに冒され、永別の近いことを知った貞心尼が、
《いき死にの さかひはなれて すむ身にも さらぬわかれの あるぞかなしき》
 と詠んだ歌に応えたもので、
「そんなに悲しむことはない。生きている自分も、死ぬる自分も、同じ自分ではないか。それなのに、生を願って死を厭(いと)うのは、人間の驕りというものだ。もみじを見るがいい。表を美とせず、裏を醜(しゅう)とせず、そんなことにはいっさい頓着しないで、はらはらと散っていくではないか」
 そう諭すのである。

 余命いくばくもない良寛が、表裏の美醜を超えて静かに舞い落ちるモミジに、己(おのれ)の生死(しょうじ)重ね合わせたものだが、このことから転じて、
「背伸びすることなく、また卑下することなく、裏も表もさらけ出して恬淡と生きていけ」
 と私は読み解いていた。

 だが、
(良寛は、本当にそう諭しているのだろうか?)
 という思いが唐突にしてきたのである。

 人間には、拭いきれない煩悩がある。
 背伸びであり、卑下であり、見栄である。

「それでいいのだ」
 と良寛は言っているのではないのか?

 煩悩具足の凡夫たるを自覚し、救いがたい人間であることを肝に銘じ、すべてを承知してなお、はらはらと散っていけ――そう諭しているのではないと思ったのである。

 表裏(ひょうり)のない人間などいない。
 それは、決して醜いことでも恥ずべきことでもない。
 恥ずべきは、表裏があるにもかかわらず、それを頬っかむりして、
《裏を見せ、表を見せて、散るモミジ》
 と、したり顔で嘯(うそぶ)くことではないだろうか。

 そんな思いで色づいたモミジを眺めていると、モミジが笑顔で話しかけてくるような気がするのだった。

投稿者 mukaidani : 15:34

2008年04月26日

守破離をもって「我が知識」となす

《學文無主等痴人》――「文(ぶん)を学びて主(しゅ)無ければ痴人に等し」と読む。

『一声(いっせい)の仁』(西郷隆盛)にある一節だ。

 意味は、
「書物をどんなに学んでも、自己の考えを持たねば愚か者と変わりない」

 つまり、〝知識の受け売り〟を厳に戒めたものだが、世間には何と〝痴人〟の多いことか。

「だから、アメリカ経済学者のA教授によれば、サブプライム問題の本質というのは……」
 雑誌や書籍で読みかじった知識を振りまわして相手をやりこめようとする。

「キミはそうは言うが、本来、政治とは歴史的に考察して……」
 資料を引用してオーソライズする。

 こういう人たちは、西郷隆盛に言わせば、みんな〝痴人〟ということになる。

 かく言う私も、仏教について勉強しているが、結局、受け売りである。

「諸行無常、諸法無我。仏教の本質は……」
 と、エラそうなことを言っても、それは所詮、書物に書かれていることの口移しである。

 そう思うと、
(わしは〝痴人〟か)
 とガッカリで、勉強するのがイヤになったが、ふと「守・破・離」という言葉がよぎって、
(なるほど!)
 と合点がいった。

 つまり西郷隆盛は、
「《守》で終わってはだめだ」
 ということを諭しているのではないか。

 書物で知識を得(守)、その知識を経験と人生観で解体し(破)、再構築(離)をもって「我が知識」となる――そう言っているのだ。

(そうか。よし、頑張って勉強するぞ!)
 と奮起しつつ、
(しかし、仏法をマスターして再構築したなら、わしはお釈迦様と同レベルになるではないか?)

 そんな思いがして、そのことを女房に告げると、
「あら、お釈迦様って、そんな程度だったの?」

 どこまでも、バチ当たりなことを言うのだ。

投稿者 mukaidani : 17:56

2008年04月23日

失敗は〝対比効果〟で切り抜けよ

 心理術に「対比効果」というのがある。
 悪条件を相手に吞ませるテクニックである。

 たとえば、
「こらッ! 命と腕とどっちや!」
 命を取られるのと、腕を落とすのとどっちがいいか――と迫られれば、誰しも「腕!」と答えるだろう。

 命を取られることにくらべれば、腕のほうがいいに決まっている。
(ああ、腕ですんでよかった)
 と安堵さえする。

 これが対比効果で、
「会社を辞めてもらうか、あるいは給料をカットするか」
 というのも同じで、私たちは対比効果を無意識に使っている。

 ただし対比効果は、使い方――つまり対比の順序を間違えると逆効果になるから要注意だ。

 たとえば、恐喝がわかりやすい。
「てめえ、ブッ殺すぞ! いやなら金を出せ!」
 と脅されれば、
(お金ですむなら……)
 と、積極的にお金を出そうとする。

《最悪》をバーンとカマされ、そのあと《やや最悪》を提示されるから、
(ラッキー!)
 と感じるのだ。

 ところが、
「てめえ、金を出せ! いやならブッ殺すぞ!」
 と逆をやったらどうか。

 金を出したくないところへもってきて、さらに「殺す」と精神的に追い打ちをかけられることになり、脅された相手は警察に駆け込むだろう。
《やや最悪》から《最悪》へ――。対比効果の逆作用である。

 同様に、人件費削減のため、
「会社を辞めてもらうか、あるいは給料をカットするか」
 と言うべきところを逆に、
「給料をカットするか、会社を辞めるか」
 と言ったのでは、《やや最悪》から《最悪》と精神的に追い打ちをかけることになり、社員はお先は真っ暗。
(このまま会社にいても……)
 人件費削減のつもりが、退職に追いやってしまうことになる。


 この手法を用いれば、たとえば仕事でミスしたことを上司に報告するときは、
「申しわけありません。とんでもない失敗をしてしまいました」
 深刻な顔で最初にカマせばよい。
 上司はその瞬間、〝最悪の事態〟が脳裡をかすめ、息を呑んで部下の報告を待つ。
 そこで、やおら部下は、
「今月の納品量を2割落とすと言われてしまいました。申しわけありません」
「なんだ、そんなことか。来月以降、巻き返せばいい」
 上司は安堵するという次第。

 とろが多くの人は、ミスを咎められたくないばっかりに、この逆をやってしまう。

「たいしたことじゃないんですが、今月の納品量を2割落とすと言われましたが、来月から巻き返しにかかりますから、年間の総量で見ればどってことないと思います」
「バカ者! 巻き返そうが巻き返すまいが、納品量が落ちたことは確実にマイナスじゃないか!」

 特大のカミナリが落ちることになる。
「たいしたことじゃないんですが」
 と枕に振り、ミスを過小に見せようとするのは〝逆対比効果〟になってしまうのである。

投稿者 mukaidani : 19:40

2008年04月21日

顧みて恥ずべきことなきや

 保護司を拝命して8年になる。

 少年から還暦を過ぎた大人まで、多くの対象者と接してきたし、いまも接している。仮出獄して来る者もいれば、矯正施設には収容されないまま保護観察処分になった者もいる。

 保護司は、そんな人たちに対して更生の一助を担うわけだが、
(果たして自分は、それにふさわしい人間なのだろうか?)
 という懐疑が、私は拭えないでいる。

 更生には《生きかえる》という意味もある。

 つまり「生き方」をテーマとして、保護観察対象者と相対するわけで、これは実にしんどい。

「生き方」を説くこと自体がしんどいのではなく、それを説くにふさわしくないであろう自分が、後ろめたく、しんどいのである。

 我が身を振り返れば、欲にとらわれ、易きに流れ、それでいて〝能書き〟だけは人の3倍も口にする。

(そんな自分が、対象者に「生き方」を説いていいのだろうか?)
 私が仏法を学び、僧籍を得る気になったのは、そんな気持ちが根底にある。

 酒をやめたのも同じだ。

 酒乱から罪を犯した青年受刑者に、刑務所で面会したときのこと。

「酒、やめちゃえよ」
「やめるのは簡単だ。飲まなきゃいいんだから」

 そんな話をした帰途。
(人に対しては〝酒をやめろ〟と簡単に言うが、おまえはできるのか?)
 ふと、そんな思いがこみ上げてきて、
(よし、酒をやめてみるか)
 と決心したのだった。

 いま教師受難の時代だと言われる。
 実際、教師は大変だろうと思う。

 だが、生徒の指導法に悩む教師は多いが、
(自分は教師としてふさわしい人間なのだろうか)
 と自問し、悩む教師がどれだけいるだろう。

 教師だけではない。
 親もしかり。
 子供のデキを嘆く親は多いが、
(自分は親たるにふさわしい人間なのだろうか)
 と自問する親がどれだけいるだろう。

《我を顧みて恥ずべきことなきや》

 自戒を込めて、自分に言い聞かせるのである。
 

投稿者 mukaidani : 18:37

2008年04月20日

今夜もブツブツ、嫌味と小言

 年を取ると、嫌味や小言が多くなるという。

 私も年を取ったせいか、つい嫌味が口をついて出る。

 地球温暖化を声高に叫ぶ欧米のエコ運動をテレビニュースで見れば、
(だったら、まず、おまえの国の軍隊をなくしたらどうだ)
 と、テレビ画面に嫌味を言う。

 実際、戦闘機やミサイル、艦船、戦車など、兵器が吐き出すCO2の量たるやハンパではあるまい。
「〝アイドリングSTOP〟よりも〝兵器をなくせ〟というのが本当のエコ運動じゃないのか。ブツブツ……」

 あるいは、今夜。
 道場から帰宅してテレビをつけると、先ごろオープンしたアウトレットが大人気で、駐車場に入るのに3時間待ちだとニュースが報じていた。
「ガソリンが高いとか安いとか言うわりには、けっこうムダをやってるじゃないか」
「後期高齢者医療制度で、日本の将来は真っ暗だと言ってるわりには、世間はノンキなもんじゃないか」
 ブツブツと、私は嫌味を言うのだ。

 女房は、
「うるさいわね」
 と、そばにいて文句を言うが、毎日のニュースを見ていると、正直、嫌味を言いたくもなってくる。

 円高になれば日本経済が大打撃を受けるとか、日銀総裁の椅子が空白になると日本の国際的信用は失墜するとか、サブプライム問題の余波で日本経済もヤバイとか、株価がどうだ、M&Aがどうだ、ヘッジファンドがどうだ……と、ニュースは連日、さまざまな危機を報じている。

 だが、これらの〝危機〟は、私たちにはどうすることもできないのだ。
「円高がヤバイ? よっしゃ、みんなで下げようやないか」
 とはいかないのだ。

「サブプライム? 困ったもんや。みんなで何とかしようやないか」
 とはいかないのだ。

 ハッキリ言って、私たちは「部外者」なのだ。

 となれば、ニュースの持つ意味とは、いったい何なんだろうか?

「知る権利」「民主主義の根幹」――と言うなら、情報社会の発達に比例して私たちは幸せになっていかなくてはならない。

 私たちは、より幸せになっているのか?

 おそらく多くの人が首を傾げるに違いあるまい。

(輝ける21世紀! と新世紀の到来を煽り、期待させたのは、どこのどいつだ)
 と嫌味なことを思っているうちに、ふと、
「《期待》は常に裏切られ、《悲観》は常に的中する」
 そんなフレーズを思いついた。

 ならば、《期待》もせず《悲観》しなければ人生は平穏という理屈になるが、それでは人生、味気ない。

(人間、あまのじゃくなものよのう)
 と 自分を棚に上げ、今夜もブツブツ、嫌味と小言が私の頭の中でキャッチボールを始めるのである。
   

投稿者 mukaidani : 00:07

2008年04月17日

ホンネと反対を演出せよ

 晴天の昨日、畑へ出かけた。

 ジャガイモの〝芽欠き〟をし、土を耕して茄子を植える準備をする。

 一昨日、知り合いの農家でタケノコやミツバ、ニラなどをもらっているので、収穫がなくても女房のご機嫌はうるわしく、鼻歌混じりでセッセと鍬を振るっている。
 趣味の花畑をつくっているのだ。

 収穫以外は「私の役目じゃない」と言って、耕すことも、草を取ることも拒否する女房が、自分の趣味のこととなると額に汗である。
 ゲンキンなものではないか。
 張り切りすぎて、
「めまいがする」
 と勝手なことを言っていた。

 2時間ほどして、
「さあて、そろそろ仕舞いにするか」
 親父の言葉で畑仕事は終わったのだが、実はこの〝終了コール〟を聞いて、
(ハハーン、畑の指南役として威張っていたいんだな)
 と、私は思った。

 週刊誌記者時代に何度も経験したことだが、ヤクザ親分や大御所芸能人、ワガママ文化人などの酒席は疲れる。
 彼らは、〝終了コール〟は自分の口で発するものだと思っているからだ。

「じゃ、そろそろ……」
 と、こちらから〝終了コール〟をしようものなら、
「なに言うてんネン。まだ2時やないか」
 引き留めて帰さない。

 ところが、同じ深夜の2時でも、帰りたいのを我慢して愛想よくつき合っていると、
「おっ、2時やな。そろそろお開きにしよか」
 と〝終了コール〟になる。

 駆け出しのころ、この心理がわからず、私のほうから〝終了コール〟をして、結果、朝までつき合わされたりしたものだった。

《武士は食わねど高楊枝》
 という諺があるが、まさに人間関係について至言である。

 早く帰りたいときは、ずっと居たいという素振りをする。
 金が欲しいときは、鷹揚に構えて見せる。
 つらいときはニッコリ笑顔を、そして嬉しいときは気難しい表情をする。
 ホンネと反対の自分を見せれば、事態はたいてい意のままに動くものだ。

 追えば逃げる、拒(こば)めば押しかけてくる――良くも悪くも、これが人生の実相なのである。

投稿者 mukaidani : 01:33

2008年04月14日

福田首相の〝泣き〟

「誰と話をすればいいんですか」
「かわいそうなくらい苦労しているんですから」

 周知のごとく、福田首相が小沢一郎にイチャモンをつけた。

 党首討論で、首相がこのテの発言をするのは異例だそうだ。
 しかも、煮え切らない福田首相の言(げん)となれば、相当頭に来てのことだろう。

 それはいい。

 だが「言い方」が悪かった。

 イチャモンは〝ケンカの口火〟なのだ。
 それなのに、
「かわいそうなくらい苦労しているんですから」
 なんて言い方をしたのでは、イチャモンにならない。
 これはイチャモンではなく「泣きが入った」と言うのだ。

 そして、宿敵に「泣き」を入れた時点で勝負あり。
 いや、泣きを入れたと見られた時点で、負けなのである。

 ここなんですな。

 ケンカは「どっちが正しいか」でやるものではない。

 強い方が勝つのだ。
 いや、強いと見られるほうが勝つのだ。
 石原慎太郎都知事を見ればわかるではないか。
 古くは、ハマコー氏を見ればわかるてはないか。

 ここを知らない福田首相は、
(やっぱりアマちゃんだなァ)
 と私は感じた次第。

 良くも悪くも、人間社会は「声の大きい人間」が勝つ。
 残念だが、これが現実なのである。
 その現実を踏まえて、どう世渡りをしていくのか。
 これを処世術と言うのだ。

投稿者 mukaidani : 18:46

2008年04月11日

「人生の収穫期」を心待ちにせよ

 昨夜のことだ。

「忙しくて仕事に追われる時期は、カネは儲からないんだ。覚えておけ」

 拓大の先輩が、イモ焼酎を水割りでやりながら私に言う。

「たとえば歌手を見ろ。人気が出てくれば、あっちこっちテレビに出まくって、寝る間もないくらい忙しくなるが、その割りに本人は儲からない。だけど、いったん人気歌手になればギャラが上がり、さらに仕事を選べるようになる。つまり仕事の量は減って、逆に稼ぎは多くなるというわけだ」

 なぜ、先輩がそんなことを私に話して聞かせたのか、わからない。
 たぶん、
(こいつ、忙しく本を書いている割りには儲かってなそさうだな)
 と見抜いたせいかもしれない。

「貧乏ヒマなし」
 と言うが、私の場合は、
「多忙カネなし」
 というわけである。

 だが、先輩の言うことは当たっている。
 歌手はともかく、畑をやっていて、つくづくそう思うのだ。

 畑を耕し、種を蒔き、肥料をやり、草を取る。
 一所懸命、農作業に精を出すのだが、この間は収穫ゼロなのだ。
「忙しいけど、儲からない」
 という時期である。

 そして何ヶ月も汗を流し、「やれやれ」と、ひと息ついたころ、収穫期がやってくるというわけだ。

 ところが、悲しいかな、私たち凡夫はそれが待ちきれない。
(こんなに頑張ってるのに、ちっとも成果があらわれないじゃないか)
 不満タラタラである。

 じっと耐えて、待つこと。
 いや「人生の収穫期」を心待ちにしながら、ニコニコ笑顔で努力すること――これが人生の要諦のような気がするのである。

 道場で、若者たちに筋トレをやらせると、
「ウッ」
とか
「ヒィッー」
とかうめき声を発しつつ、顔をしかめてやっている。

 そのとき私は、彼らに言うのだ。
「筋力が強くなるんだから、こんな嬉しいことはないじゃないか。笑え! 嬉しそうな顔をしてやれ!」

 いまの苦しみが、いずれ収穫をもたらす「畑の耕し」だと思えば、まさに、こんな嬉しい苦しみはないのだ。

投稿者 mukaidani : 16:28

2008年04月09日

詩を吟じて、人生を知る

 月に一、二度のペースで、詩吟サークルに通っている。

 ちっとも上達しないが、詩に魅せられている。

 たとえば、

《風は過ぐるも、浮雲(ふうん)一片(いっぺん)の跡(あと)あり》

 これは一休宗純の『客中(きゃくちゅう)』という詩の一節で、意味は、

「空を吹く風すらも、吹いたあとには、ひとひらの浮き雲を残してその足跡とする。しかし、一所不在をこととして定所のない私には、足跡さえ残らない」

 宗純は〝トンチの一休さん〟として知られるが、権威を否定し、悟りさえも否定して、壮絶に庶民の中で生き抜いた禅僧らしい詩で、私のお気に入りの一つである。

 その一方――。
 すでに故人になられたが、ある人が、
「生きることに意味はない。名は残る」
 と、私におっしゃったことがある。

 一休宗純の対極とも言うべき壮絶な人生観で、それだけに自己を厳しく律し、男らしく、メンツというものを大切にされた。

 一休と、その方と、どっちの人生が素晴らしいか、私にはわからない。

 いや、どっちの人生を選び取るかが、すなわち「人生観」なのだろう。

 私とは言えば、時に、
「風は過ぐるも、浮雲一片の跡あり」
 と嘯(うそぶ)いたかと思うと一転、
「生きることに意味はない。名は残る」
 と、大まじめで言ってみたり。
 節操のないこと、おびただしいのである。

 だが、君子は豹変するがごとく、「節操のなさ」もまた「節操」なのだ。

 いみじくも良寛が人生五十年を振り返り、『半夜(はんや)』という詩の中で、こう喝破している。

《人間(じんかん)の是非は、一夢(いちむ)の中(うち)》

 意味は、
「人間社会のことは、是も非も、すべて夢のなかのことのように思われる」

 詩吟の素晴らしさは、こうした詩を腹の底から吟じ、人生を感ずるところにあるのだ。

 詩吟をお勧めする所以(ゆえん)である。 

投稿者 mukaidani : 16:22

2008年04月07日

リーダーシップとは「背中」を見せること

 福田首相の人気が下落の一途だ。
 有能だし、悪い人には見えないのだが、いかんせん一国の首相としてリーダーシップがないのである。

 では、リーダーシップとは何か。
 現実に即せば、その解釈たるや、そう簡単ではないのだ。

 周知のように本来の意味は、集団をまとめ、引っ張っていく能力のことだ。
 学生時代は、部活のキャプテンや生徒会、自治会の長などがこの能力を発揮し、文字どおり先頭に立ってみんなを引っ張っていく。

 だが会社に入ると、リーダーシップの意味はちょっと変わってくる。

部下(集団)を統率するというのは同じだが、学生時代と違って、自ら先頭に立って引っ張っていくというよりも、
「いかに部下を働かせるか」
 というニュアンスが強くなってくる。

 自分は後方に待機していて、部下のケツを叩いてもいい。
 責任というプレッシャーをかけても構わない。
 出世というエサをちらつかせようが、報奨金で釣ろうが、情で縛ろうが、酒で丸め込もうが、
「成績さえ上げれば、何でもあり」
 というのが会社人間のリーダーシップなのである。

 だから、書店の棚に並ぶリーダーシップ論の多くは、
「人の動かし方」
 であり、
「部下をいかに操るか」
 という〝策略〟の指南書となっている。
 力強さや責任感という、本来のイメージからはほど遠いところで、リーダーシップという言葉が使われているのが、実社会なのである。

 だが、ここで留意すべきは、子は親の背を見て育つと言うがごとく、部下は上司の背中を見て信頼し、尊敬するのだ。

 腹でも胸でもなく、見せるのは「背中」。
 つまり、先頭に立てということなのだ。

「諸君、今度のプロジェクトは必ず成功させるぞ。頑張ってくれたまえ」
「はい!」
「じゃ、あとは頼んだぞ」
 檄を飛ばすだけ飛ばしておいて、上司がネオン街に「お先に失礼」では、
「やってらんねえよ」
 ということになる。

 このあたりの機微は、ヤクザの親分にはかなわない。
「殺(い)てもうたらんかい!」
 と檄を飛ばすのは二流の親分。
 子分を走らせておいて、自分はクラブでホステスの肩を抱いているような親分は三流で、若い衆のあいだで、
(なんでワイが貧乏クジ引かなあかんのんじゃ)
 と不満がくすぶる。

 一流の親分は違う。
 大組織になれば別だが、会社と同じで、中小組織は親分や社長の〝姿勢〟が、そのまま組員や従業員に影響する。
「よっしゃ、わしが、この手で殺(と)っちゃる」
 親分みずから率先だ。

「オヤジ、それだけはやめてつかあさい。わしら若いもんが笑われますけん」
「バータレ! 子分(こども)を懲役にやる親分(おや)が、どこにおるんなら!」
「親分、お願いします! わしにまかせてつかあさい!」
 こんな具合だ。

 会社においても同様で、
「みんな今夜は会社に泊まり込みで企画書を仕上げてくれ。じゃ、僕はちょっと用があるから失礼する」

 これじゃ、部下は不満タラタラ。
 リーダーたる上司は信頼を失い、以後、このチームはろくな仕事をしくなるだろう。

 ところが、
「よし、この企画書は、僕が泊まり込みで仕上げようじゃないか。諸君たちは疲れてるだろう。みんな帰ってくれ」
 捨て身で、バーンと「背中」――すなわち先頭に立つ。
 矢面に立つ。
 部下に背中を見せるのだ。

「何をおっしゃいます。課長こそお帰りください。あとは我々がやっておきますから」
 部下にこう言わせられたら、〝リーダー〟の勝ちなのである。

 さて、福田首相はどうか。

「まっ、よく話し合ってね、どうするか、慎重に考えて、まっ、決断しなくちゃ、ならないんじゃないですかね」
 これじゃ、やっぱりリーダーとは呼べないだろう。
 一国民として残念ではあるが。

投稿者 mukaidani : 19:53

2008年04月04日

「励まし」は必ずしも善ならず

 ウツ病の人に《励まし》は厳禁である。

「頑張ってください」
「早く元気になってください」

 こんな正論で励まされると、ますます落ち込んでしまう。
 なぜなら、他人に励まされるまでもなく、自分が自分に対して「頑張れ!」と叱咤激励し、「早く元気になりたい」と念じているからだ。

 つまり全力疾走しているにもかかわらず、
「さっ、もっともっとスピードを出して!」
 とケツを叩かれているようなもので、
(これ以上、スピードが出ないから苦しんでいるんじゃないか!)
 心のうちで悲痛な叫び声をあげつつ、ますます落ち込んでいくというわけである。

 ウツ病の人に対しては、
「ゆっくり休養をとればいいよ」
 という理解の言葉が有用なのである。

 だが、これはウツ病に限らないのだ。
 かつて、こんな経験がある。
 30代なかばのA君が、勤め先のことで私にこぼしたときのことだ。
 A君が、酎ハイに目を落として訴える。
「仕事もつまらないし、人間関係も煩わしいし、会社を辞めようかと思うんですが、それを上司に切り出せなくて……」

 それに対して、私は、
「何をごちゃごちゃ言っとるんだ。そんなもん、バーンと切り出せばいいんだ。辞めます――これでいい」
 A君の肩を叩いてハッパをかけた。

 するとA君がうつむいて、ポツリともらした。
「それができないから悩んでいるんです」

 私に言われるまでもなく、A君自身が「バーンと切り出せばいい」ということは百も承知なのだ。

 すなわち私のハッパは、全力疾走しているA君に「もっとスピードをあげろ」と言っているのと同じだったのである。

 ここは、ウツ病の人を理解するのと同様、
「たいへんだね」
 という理解の言葉でとどめておけばよかったのだ。
 励ましでなく、理解されたということによってA君は安堵し、その安堵感がバネとなって、みずから解決に立ち向かっていったろう。

《励まし》は、励ます人には気分がいいものだが、相手にとっては必ずしも善ならず。逆効果になるというこもあるのだ。
 安易な《励まし》は厳に慎むべし――自戒をこめて思うのである。

投稿者 mukaidani : 14:29

2008年04月01日

草津温泉で雪にたたられる

 1泊というあわただしさで、昨朝、女房と草津温泉へ出かけた。

 習慣とは恐ろしいもので、数時間後には温泉に浸かるというのに、朝起きると、すぐ女房が、
「風呂、沸いてるわよ」
「ウム」
 ザブン、と湯船に浸かってから、
(ありゃ、このあと温泉じゃないか)
 げに習慣とは恐ろしいものである。

 草津温泉でのんびりし、翌朝――つまり今朝、起きてビックリ。
 雪が積もっているではないか。
「おい、ヤバイ!」
 女房を起こすと、
「大丈夫よ。チェーン持ってきてるから」

 大丈夫ではないのだ。
 私はチェーンをつけた経験が一度もない。
 つけた経験どころか、このチェーンは気まぐれで買っただけで、収納ケースを開けたことすらないのだ。

(ヤバイなァ)
 と思いつつフロントで聞けば、有料でチェーンを装着してくれる会社があるとか。
 すぐさま電話して来てもらい、無事、装着。
「エー、お客さま、チェーンの外し方はですね……」
 親切なサービスマンの兄ちゃんが説明するのを遮って、
「ガソリンスタンドで外してくれないの?」
「有料でしたらやってくれますが、このチェーンは簡単に外せますから、ご自分で……」
「いや、いいって、やってもらうから」

 こうして帰途についたのだが、運転しつつ、私は反省した。
(何事も〝人だのみ〟にしてはいけないのではないか?)
 それが自分の悪いところだ、としっかり反省し、
(よし、自分でできることは自分でやろう)
 そう決心し、チェーンは自分で外すことにしたのである。

 で、山を下り、空き地でチェーンを外そうとしたところが、
(ヤバ!)
 うまくいかないのである。

「もう、ホントにダメなんだから! ちょっと、どいて」
 女房と代わり、
「ちょっと、クルマ、少し前に動かして!」
 そんなこんなで無事、チェーンを外すことができたのである。
「ナルホド、やってみれば案外、簡単なんだな」
「その簡単なことが、どうしてあなたにはできないのよ」

 女房の冷ややかな視線を浴びつつ、私は考える。
 自給自足に自主防衛……。
 論議はにぎやかだが、
(いざ、自前でやるとなると大変なんだろうな)
 チェーンに端を発し、思いは天下国家へ飛翔していくのである。

投稿者 mukaidani : 16:26