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2008年03月29日

不足をもって幸福に至る

 昨日、時代小説の原稿を編集者に渡して、ひと息。
 夜の稽古が終わって、スーパー銭湯へ。

 いつもはノートパソコン持参で、入浴の合間に原稿を書くのだが、今夜くらいは頭を空っぽにしようと思って手ぶらで行った。
 4月末〆切ですぐに「しつけ」について書き下ろさなければならないのだが、まっ、明日から、というわけである。

 で、ブログを書こうと思って、こうしてパソコンに向かったら、書くことがないのである。
 目前に〆切を抱えているときは、書きたいことが次から次へと出てくるのだが、〆切に余裕があってゆっくりブログが書けるとなると、書くことがなくなるというわけだ。

(頭を空っぽにしたせいか?)
 とも思ったが、そうではないようだ。

 たぶん、「ないものねだり」に共通する心理状態になるのではないか、と思う。

 忙しいときほど、束の間の遊びは楽しいものだ。

 忙しければ忙しいほど、
(ゆっくり温泉でもつかりたいなァ)
 と思う。
(あれもしたい、これもしたい)
 と思う。

 ところが、いざヒマになると、なんにもしないのである。

 ブログも同じで、いざ時間ができると、気合いが入らなくなるのだろう。

 先日、稽古で子供たちに、
「次回から試合の稽古を始めるから、昇級のための新しい型を教えるのは今日で終わり。そのつもりで」
 と告げると、目の色を変えて稽古していた。

 知人の植木屋が言っていたが、木は、切ってやると、「種の保存」という本能が働いて、大あわてで新芽を出すそうだ。だから枯れないように見極めながら大胆に刈り込んでやるのがコツだと教えてくれた。

 人間も同じで、何事も足りないくらいでちょうどいいのかもしれない。

「不足至幸」――不足をもって幸せに至る。
 いま思いついた私の造語である。

投稿者 mukaidani : 16:10

2008年03月25日

日本人は何を得て、何を失ったのか

 先日、畑にネギを植えた。

 植えるといっても、畝(うね)の真ん中を鍬(くわ)で掘り、土を壁にして立てかけるように置くだけだ。
 ネギはやがて地中に根を張り、自力で立ち上がっていくのである。

(子供と同じだ)
 と思った。

 うちの道場に来ている子供たちを見ていると、つくづくそう思う。
 運動神経が鈍く、ヘタクソでどうにもならない子が、ふと気がつくと、
(あれ? うまくなってやがる)
 いつのまにか、自力で立ち上がっているのだ。

 指導とは、技術を教えることよりもむしろ、子供が自力で立ち上がるまで辛抱強く待つことではないか、と自戒をこめて思うのである。

 いま、必要があって、拙著『いま修身を読む』の「まえがき」を読み返したところだ。
 長くなるが、再録したい。
 時代は移ろいつつも、この拙文に込めた心情が、6年を経ていささかも変わらないことに、私は驚く。

    * * * * * *

 かつて、
「洗濯機で里芋を洗え」
 と主張して、喝采を浴びた評論家がいた。
 あるいはジャガイモであったかも知れない。
 ずいぶん昔のことなので、記憶は曖昧になっているが、
(なるほど)
 と感心したことだけは覚えている。

 行儀作法や既成概念にとらわれず、便利なものは何にでも使え――この発想が若い私には〝眼からウロコ〟だったのである。

 だが、いまは違う。
 便利だからといって洗濯機で食材を洗うという発想は、それが近道だからといって父親の頭を跨いで通るのと同じではないか――そう考えるようになったのである。

「エッチして小遣いになるんだもん、いいじゃん」
 援助交際の女子高生が言えば、
「どこをどう走ろうと、オレたちの勝手じゃねえか」
 暴走族の頭(リーダー)が言う。

 先日は、電車内でよろけて足を踏んだ老婆に、茶髪の若者が怒鳴った。
「痛てぇじゃねえか! ババァが電車なんか乗ってんじゃねえよ」
 ガングロ、援助交際、イジメ、暴走族、学級崩壊……。戦後五十年、民主主義という名のもとに行われた「何でも自由」の教育結果が、これである。

「洗濯機で里芋を洗ってどこが悪い」
 と言われれば、そのとおりだろう。
「教師も労働者だ」
 と言われれば、お説ごもっともである。

 だが「理屈」が、本質において必ずしも正しいとは限らないことを、私たちは知っている。

「教師も労働者だ」と赤い旗を振って、教師は自ら「聖職」を放棄した。「一介の労働者」が人の道を説いたところで、耳を貸す生徒がいるはずもない。尊敬という絆(きずな)が切れれば、学校が荒廃するのは当たり前なのである。

 一方、親たちは、
「友達家族」
 を標榜して、その権威を自ら失墜させた。
 権威がなくて、どうして躾(しつけ)ができるだろう。
 心を鬼にし、ときに鉄拳を使って「人の道」を教え、我が子を社会に送りだすのが親の愛情であり義務ではなかったか。

「うるせー、ババァ!」
「うざったいんだよ、オヤジ!」
 友達家族なら、子供に毒づかれて当然だろう。

 ――このままでいいのか?
 戦後五十年を経て、私たちは、これまで是とされてきた「子育て法」に疑問の眼を向け始めた。学校教育に、家庭の躾に、危機感を募らせ始めたのである。

「なぜ人を殺してはいけないのか」
 と子供が問いかけ、それに対する答えをめぐって大マジメに論議される社会が、健全であるはずがない。

 だが私たちは、「何かが間違っていること」に気づきながら、何をどうしていいのか、子育ての指針を見つけられないでいる。

 そこで、「修身」である。
「修身」は、日本の将来を担う有為な子供を育てるため、明治政府が国を挙げてつくった道徳であり〝子育て法〟である。

「修身ハ教育ニ関スル勅語ノ趣旨ニ基キ、児童ノ良心ヲ啓培シテ、其徳性ヲ涵養シ、人道実践ノ方法ヲ授クルヲ以テ本旨トス」(明治二十四年文部省公布、小学校教則大綱第二条)
 良心、徳性、礼儀、勤労、孝行、勇気、誠実……等々、学年に応じて、人間としてあるべき姿を平易な例え話で説いている。

「修身」は思想教育であるとして、敗戦によって廃止された。
 だが、民主主義を標榜する戦後教育の結果が、いまのこの教育の荒廃であるとするなら、いま一度、原点に還るべきではないだろうか。

 原点とは、明治時代という、まさに近代日本の黎明期につくられた「修身」に他ならない。
 本書を一読していただければ、かつて日本は、「修身」という世界に誇れる躾法を持っていたことに、きっと驚かれるに違いない。

       * * * * * *

 私たち日本人は何を得て、何を失ったのか。
 殺伐とした世相を見るにつけ、私は考えさせられるのである。

投稿者 mukaidani : 22:28

2008年03月22日

痴漢対策に「男性専用車両」とは何だ?

 一昨日から激しいクシャミ。
 今年は花粉症が出ないと威張っていたら、このザマだ。
 花粉症の時期もそろそろ終わりだというのに何たること――と愕然としていたら、昨日から頭がガンガン痛み始め、どうやら風邪を引いたようである。

 痛む頭を抱えながら、
(花粉症でなくてよかった)
 と妙な安心をした次第。

 ただ、5月刊行の時代小説(KKベスト時代文庫)が〆切直前。
 担当編集者に風邪を引いたと連絡をしたいのだが、
(〆切間際に風邪、だなんて、言い訳と思われるのではないか?)
 ミエっ張りの私は、そういことがとても気になるのである。

 で、執筆の〝助走〟のつもりで、痛む頭でヨロヨロとブログの更新を始めた次第。

 高校センバツも始まったし、日銀総裁や道路特定財源など、いろんな話題があるが、体調が悪いと、
(だからどうした)
 と、厭世的な気分になる。

 衣食足りて知るのが礼節なら、健康足りて関心を持つのが「社会」ということか。

 そんな中で、思わず目を引いた記事が、「男性専用車両の要望」というやつだ。

大阪市営地下鉄で、男性会社員が痴漢にでっち上げられた例の事件が引き金とかで、鉄道各社も「導入を検討したい」としているという。

 妙な時代になったものだ。

 痴漢されたくないから「女性専用車両」、痴漢に間違われたくないから「男性専用車両」。
《男女7歳にして席を同じゅうせず》
 とは戦前教育だが、
《男女青年になって車両を同じゅうせず》
 ということか。

 だが、「女性専用車両」に乗らない女性、「男性専用車両」に乗らない男性は、どういう位置づけになるのだろうか?

「触られてかまへん女」
「痴漢に間違われてもええがな男」

 そう思われる時代がやってくるのだろうか。

 痴漢に限らず、「悪」をシステムによって解決しようとすれば、新たに別の歪(ひず)みを生む。

 理想論であると承知しながら、諸悪の根源は「心」の問題としてとらえ、解決していく努力が大切なのではないだろうか。
 たとえそれが不毛であろうとも、種を蒔きつづるという姿勢こそ大事なのだと、風邪で痛む頭を抱えながら、私は思うのである。

 

投稿者 mukaidani : 15:13

2008年03月19日

「今の人生でよし」という生き方

 昨日から顎の右側が痛い。

 理由はわからない。

「おい」
 と、女房に症状を訴えた。
「つらい浮き世に、歯を食いしばって生きていたら顎が痛くなった」
「バカなこと言ってないで、〆切があるんじゃないの」

 自分の意志で結婚したのは確かだが、30余年という歳月は、女房の体型だけでなく、心をも変えていくんですな。
 諸行無常――「この世のあらゆるものは、すべて移ろい行く」というお釈迦さんの教えが、実感を伴って胸にズシンと響くのである。

 人生を長く生きていると、「諸行無常」ということが、まさに実感として理解できてくる。
 いろんな人と出会い、別れ、首尾よくいけば有頂天になり、ドジを踏めば落ち込む。
 そんな半生を振り返れば、一喜一憂した自分が可笑しくもあり、恥ずかしくもあり、
「たかが人生、いかほどのことがあろう」
 という心境になるのだ。

 そんな私だから、若い子から人生相談されると、うまい回答にならない。

「今のままじゃ、いけないと思うんですが、何をやっていいかわからないんです」

 こんな相談が多いのだが、私の回答は、
「今ののままでいいじゃないの。どこが悪いのよ」
 たいてい若い子は落胆する。

 だが、私は本気で「今のままでいい」と思っている。

 それが幸福な境遇であれ、不幸であれ、人生が「無常」である以上、常に「今のまま」でいいのだ。

「今のまま」という不連続の「今」が人生であり、水が低きに流れていくように、自分の意志とかかわりなく、人生は定まるところに定まるのである。

 私のこのホームページの「道は目前にあり」というタイトルは、
「だた、目前の道をひたすら歩き続けよ」
 という意味だが、「目前」という言葉には「今のままでいい」という意味もを込めているのだ。

「今」という現状をすべて肯定的にとらえること。
 人生の要諦のように、私は思うのである。

 

投稿者 mukaidani : 15:22

2008年03月16日

畑を耕しながら考えた「弱肉強食」

 今朝、例によって、指南役の親父と女房と三人で畑へ行った。

 原稿が忙しくもあり、昨夜、咳が止まらないと言って親父がボヤいていたので、これ幸いと、
「そりゃ、大変だ。畑は今度にしよう」
 と言ったら、
「なあに、畑に行くのは大丈夫じゃ」
 このときは咳をしないで、キッパリと言い切った。
 現金なものではないか。

 久しぶりの畑なので見てまわると、枯れかけていた豆が何とか育っている。
 スクスク育つ野菜は見ていてワクワクするが、枯れるだろうとあきらめていた野菜が生き返ると、健気(けなげ)で、いとおしくなってくる。

 畑は百坪ほど借りているのだが、その隅っこに水菜がひと株、育っていた。
 植えた場所から離れ、とんでもない場所である。
(勝手なヤツだ)
 と思いながらも、何だかイタズラ小僧を見るような愉快な気分になってきて、収穫するにはしのびなく、そのままにしておいた。

 畑を耕していると、土も、野菜も、草も、すべてが生きているのだということが、少しずつ実感としてわかってくるようになった。

 得度習礼で本願寺西山別院にあがった2年前、境内の草取りをしながら、
「草も生きてるんですよね」
 ポツリと言った年配の同期生の言葉が、いまだに頭の片隅に残っていて、畑の草を引くたびに思い出す。

 命は、命を奪うことでしか成立しない。
 これが是非を超えた真理である以上、植物も、動物も、人間も、弱肉強食でしか生きられないということになる。

 この現実を踏まえて、自分はどう身を処するのか。

 畑を耕しながら、考えさせられることは多いのだ。

 

投稿者 mukaidani : 22:56

2008年03月13日

「後悔」の本質は「決断」にあり

 人生は、後悔の連続である。

 なぜなら「人生の回答」は、必ずあとになって知るものだからだ。

 馬券を買ってハズレれば、
(買わなきゃよかった)
 と後悔し、的中すればしたで、
(もっと買っとけばよかった)
 と後悔する。

 就職しかり、転職しかり、結婚しかり、投資しかり、仕事しかり……。
 人生を選択と決断の日々とするなら、結果がどっちに転ぼうと〝後悔の連続〟ということになる。

 だから、決断に際して迷う。
 先行き不透明な世情であるだけに、人生をどう選択していいか、正解は容易には見つからない。
 欲もからむ。
 悩みが高じて精神に変調をきたす――これが現代社会だろう。

 だが、後悔についてよくよく考えてみると、面白いことに気づく。

 結果に対して後悔しているように見えて、実はそうではない。

「結果」ではなく、「決断したこと」に対して後悔しているのだ。

 馬券が「ハズレたこと」に後悔しているのではなく、その馬券を「選択したこと」に後悔しているのだ。

 さらに言えば、選択(決断)の段階で迷いが生じており、迷った末の決断であるから、
(だからヤバイと思ったんだよな)
 やめときゃよかった――と後悔するのである。

 すなわち、決断において迷いがなければ、後悔もないということになるが、これを逆説的に言えば、
「後悔しなければ、迷いもない」
 ということなのだ。

 屁理屈ではない。

 たとえば、生死の狭間に身をおいた武芸者たちは、後悔しないよう自分を厳しく律した。
(この勝負、命を落としても後悔せず)
 と、ハラをくくることによって、勝負に臨む心の迷いを封じたのである。

 人生は、割り切れない。
 割り切れないものであることを承知のうえで、強引に割り切る。
 その方法論の一つが、決断に際して「後悔しない」と胆をくくることなのである。

 昔の武芸者は、命を懸けてなお、敢然と決断した。
 それを思えば、我ら凡人の決断など、たとえ失敗しても後悔するほどのこともないではないか。
《人生、塞翁が馬》
 決断に正解も不正解もなく、あるのはただ、刹那における後悔の念だけなのである。

投稿者 mukaidani : 10:56

2008年03月10日

ドジを踏んだら、石原都知事を見習え

「うまくいったら自分の手柄。失敗したら人のせい」
 良くも悪くも、これが現実である。

 だが、うまくいったときは、
「オレ、オレ!」
 と、指で我が鼻をさしていればいいが、問題はドジったときだ。

 身を縮め、じっと隠れていただけではダメ。
「あいつが悪い!」
 と、火の粉を頭からかぶって火ダルマである。

 だから、ドジったときは、
「悪いのはあいつだ!」
 と、いち早く他人に火の粉を振りかけることで責任を回避する。

 その典型が、例の新東京銀行だ。
 石原慎太郎都知事が、この新銀行を立ち上げたときは「石原銀行」と呼ばれ、石原都知事もニンマだった。

 新銀行が成功していれば、
「オレ、オレ」
 と自分の鼻を指さし、「石原銀行」と、ずっと呼ばせただろう。
 うまくいったら自分の手柄――である。

 ところが、大失敗。
 パンク寸前である。
 で、石原都知事は、いち早く火の粉を避け、
「悪いのはあいつだ!」
 と叫び、新・旧経営陣を指さした。

「心外だ」
「慚愧に堪えない」
「私は何も知らなかった」
 火の粉を、新・旧経営陣にバンバンかけまくっている。
 失敗したら人のせい――である。

 これがもし、他府県で創設された銀行だったら、石原都知事は何とコメントするだろう。

「知らなかった? バカ言っちゃいかんよ。知らなかったということ自体、トップの怠慢じゃないか!」

 吐き捨てるように、こう言ったろう。

 さて、実は、この「あいつが悪い」には応用がある。
 たとえば、防衛省がわかりやすい。
 イージス艦「あたご」の衝突事故の流れを見ていると、衝突原因の究明と平行して、
「大臣への報告が遅すぎる」
 と危機管理の問題がやり玉にあげられ、隠蔽体質に世間の非難が集中している。

 衝突事故の本質の第一義は、「衝突の原因を探り、再発防止」にあるにもかかわらず、「隠蔽体質」に問題がすりかえられ、政争の具にされている。
 政争の具にしているのは野党のみならず、防衛省や政府内の権力闘争が見え隠れするが、要するに手法は「悪いのはあいつ!」の応用なのである。

 これを私たちに則して言えば、

「キミの失敗を責めてるんじゃない。その態度を私は怒っているんだ!」
「あなたの浮気を責めてるんじゃないわ。騙し続けたことを怒ってるのよ!」

 防衛省の問題と同質であり、「本質」はうやむやになるのだ。

 とすると、ドジを踏んだときに、逆手を取ってこう言ったらどうか。

「浮気したボクが悪い。でも、もっと悪いのは、そのことをキミに隠し続けてきたことだ。ゴメン」

 問題の本質を「浮気」から「隠していたこと」にすり替えれば、傷を最小限に抑えることができるのだ。

 先程、ニュースで石原都知事のコメントを聞きながら、ふとそんなことを思った次第。

投稿者 mukaidani : 23:41

2008年03月08日

ホンネを引き出す「魔法の言葉」

「キミィ、あれ、どうなってるかね?」
 上司に訊かれて、
「なんのことスか?」
 こう問い直す〝正直者〟は大マヌケ。

「A社の企画書ですね」
「バカ者!」
 的外れの返答は小マヌケ。

 はしっこい部下なら、
「進行中ですが、何か?」
 やんわりと探りを入れる。
「B社が催促してきてるんだ」
 これでB社に提出する企画書だとわかり、
「それについては――」
 キビキビと返答すれば、
(こいつ、デキる)
 と評価される。

 逆を言えば、相手を翻弄するには、固有名詞ではなく、
「あれ」
 という〝あいまい語〟を用いればいい。

「あれ、まだかい?」
「エッ? あれって……」
「おいおい、なに言ってんだよ」
「い、いや、そのう……」
 これで立場はグーンと有利になるのだ。

 久しぶりに会った人間には、
「その後、どうなりました?」
 この一語でいい。

「どうもしばらく。その後、どうなりました?」
「なんの話?」
 とは相手は言わないもの。

 質問に質問で返すのは、交渉のプロかノーテンキで、フツーの人間は、問われれば答えようと無意識に頭をめぐらせる。

 答えさせる――ということで主導権を握ることになるが、同時に相手が何に関心を寄せているかもわかる。
 なぜなら、答えの多くは「その後、どうなったか」という問いに見合うもになるため、目下、自分にとって最大の関心事になるからだ。
「それが専務派が巻き返しをはかりましてね」
「やっぱり」
「そうなんです。と言うのも……」
 したり顔であおれば、貴重な情報も手に入るのだ。

 以上、おわかりのように、「あれ」「その後」「例の件」という〝あいまい語〟は、会話や交渉の主導権を握り、相手のホンネを引き出す魔法の言葉なのである。

投稿者 mukaidani : 03:39

2008年03月05日

変身願望と「ハツカネズミの努力」

 通年のアレルギー性鼻炎のため、秋口から薬を服用しているせいか、今年は花粉症が出ない。

「あのクスリ、よく効きますね。このぶんだと、花粉症も治るんじゃないスか」

 ヨイショのつもりで、耳鼻科の先生に言うと、
「花粉はこれからです」
 ニコリともしないで言った。

(患者との機微に欠ける奴じゃわい)
 とブツブツ文句を言っていたら、数日前から目がムズムズし始め、ついにハクションが飛び出した。

 医者を〝逆恨み〟した罰だろうと、スーパー銭湯のサウナ室で反省していたら、テレビニュースでアメリカ大統領の民主党予備選挙をやっていた。

 周知のようにオバマ氏が破竹の勢いで、ニュースを見ながら茶髪の太ったアンちゃんが、
「オバマ、やるじゃん!」
 と感嘆していたが、考えてみれば、オバマもヒラリーも「変革」を売り物にして人気をあおっている。

 フランスのサルコジも、そして日本では小泉も安倍も、みんな「変革」を旗印に圧勝してきた。
 ついでに言えば、福田首相の不人気は〝変えようコール〟が小さいためだろうと私は思っている、

 だが、どうして私たちは「変革」という言葉に惹かれるのだろうか。

「ニッポンを変えなきゃダメだ!」
「そうだ、そうだ!」
 Aという首相が誕生。

「このままではニッポンがダメにる。ニッポンを変えなきゃダメだ!」
「そうだ、そうだ!」
 Bという首相が誕生。

「このままでは……」
 そしてC首相が誕生する。

 つまり〝変ようコール〟は、ラッキョの〝皮むき〟のようなものなのである。

 だが、考えてみれば、〝変えようコール〟は政治家だけでなく、私たちも同じはないか。

(こんな人生でいいのだろうか?)
(こんな無為な日々を過ごしていていいのだろうか)

 常に〝変身願望〟に身を焦がしている。

 だが〝変身願望〟も〝変えようコール〟も、その根底にあるのは「ないものねだり」なのだ。

 駅の階段を上がるのがしんどいといってエレベーターの設置を望み、いざエレベーターが設置されると、
「健康のために、駅の階段くらいは歩かなくちゃ」

 かつては泥がついた野菜を売ろうものなら、
「なによ、これ!」
 眉をしかめたはずの主婦は、
「やっぱり、野菜は泥つきの新鮮なものじゃないとねぇ」

 終身雇用制は日本企業の悪しき体質と批判され、成果主義が歓迎されたが、いまはどうか。
「やっぱ、日本にゃ、終身雇用制が合ってるんだ」

 そう言えば、高校生のあいだで、詰め襟の学ランがブームになっているとニュースで報じていた。
「制服反対!」
 と叫んだ〝学園民主化の時代〟は、あれはいったい何だったのだろうか。

 人間は、常にないものねだりをする。
 かつて自分が掌中にし、捨て去ったはずのものであっても、時が経てばまた欲しくなってくる。

 私は、ゲージの中で〝水車〟を廻すハツカネズミを思い浮かべる。
 走って、走って、走って、結局、元の位置から一歩も動いてはいない。
 
 変身願望も〝変えようコール〟も、ハツカネズミなのだ。
 だから努力が無駄だ、と言うのではない。
 ハツカネズミで終わらないためにはどうすればいいか。
 そこを考えて努力すべきだろうと、私は考えるのである。
 

投稿者 mukaidani : 12:50

2008年03月01日

石破大臣の答弁に見る「謝り方」

 石破防衛大臣が、いよいよ辞任の瀬戸際に立たされた。

 イージス艦「あたご」の衝突事故の一報を受け、登庁がその1時間半後。
「事故の第一報が遅い!」
 と怒った、その張本人がこれでは、申し開きはできまい。

 尊い親子の命が奪われたのだ。
 最高指揮官として辞任は当然だろう。

 だが事故当初、私は石破大臣には好感を持っていた。

 懇切丁寧な説明に《誠意》を感じたからである。

 ところが、防衛省の〝隠蔽工作〟と体質が露呈するに及んで、この「懇切丁寧な説明」が逆効果になってきた。

「結果論となるが、海保の了解を得ず乗組員の聴取を行っていたことは、内部的な調査であったとしても、必ずしも適切ではなかった」

「組織の中で起こったことはトップが責任を取るのが原則だ。それをどう両立させるかということは、落ち着いて考えてみないといけない」

 だから、何がどうしたってんだ――とイラついてくる。

 ここにアヤがある。

 つまり、フォローの風が吹いているときは「懇切丁寧な説明」が第三者には《誠意》と写り、アゲインストのときは《逃げ》に見えるということなのである。

 だから石破大臣は、防衛省と自身にアゲイントスの風が吹き始めたと察知したなら、言葉は短く、率直に、そして毅然と言い切るべきだった。

「間違っていました」
 これでいいにもかかわらず、
「必ずしも適切ではなかった」
 などと回りくどい言い方をするから〝逃げ〟と見られるのである。

 我々だって同じで、ドジを踏んだときは、
「私のミスです」
 スパッと謝ることだ。

 謝れば、今度は「謝られた側」が意思表示をしなければならない。
 責任を取らせるのか、厳重注意にするのか、不問にするのか――。
 謝るという行為は、相手にボールを投げ返すことなのだ。

 ところが、なかなかボールを放したがらない。
「必ずしも私が職責をまっとうしたとは言い難い面もなきにしもあらずであろうという非難は、私もじゅうぶん承知しているところでございます」
 こんな言い方をすれば、〝火に油〟になってしまうのである。

 人生に失敗はつきものだ。
 だから誰もが失敗する。
 大事なのは、失敗したことにどう対処するか――人生の明暗はここで分かれるのだ。

投稿者 mukaidani : 19:12