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2008年02月27日

三浦逮捕で考える「人は得意分野で転ぶ」

 周知のとおり、〝疑惑の銃弾〟が賑やかである。

 知人の週刊誌記者は、
「27年という歳月に、アメリカ捜査陣の執念を見た」
 と興奮していたが、ヘソ曲がりの私は、
「人ひとりの殺人事件にそこまで執念を燃やすアメリカが、世界のあちこちで戦争して人を殺してるのはどういうわけだ」
 と皮肉を返した。

〝疑惑の銃弾〟で娘さんを殺されたお母さんの無念さは察して余りあるが、万引きで逮捕されるような人物がどうなろうと、私はさして興味がなく、三浦逮捕劇は、このブログではあえて触れないつもりでいた。

 ただ、私の目を引いたのは、三浦氏の次のコメントである。

「米国に旅行するのは心情的に避けていたが、サイパンは米本土と違うと思っていた」

 このコメントに接して、
(なるほどなァ)
 と納得をした。

 三浦和義氏と言えば、獄中において六法全書を熟読。東京拘置所からマスコミ相手に名誉毀損、プライバシー侵害訴訟を起こし、その件数は実に500件を超えると言われた。
 しかも、勝訴率が8割。
 示談を含めれば、まさに連戦連勝。当時、私は週刊誌にいたから知っているが、三浦氏の訴訟攻勢はマスコミ各社を戦々恐々とさせたものだった。

 その三浦氏が、サイパンは米国本土とは違うと「思っていた」と言うのだ。
「違う」
 と確信していたのではなく、
「思っていた」
 という〝主観〟が、まさに〝上手の手から水〟だったのだろうと、私は納得をしたのである。

「人間は、得意分野でつまずく」
 と、おっしゃっていたのは、気学天佑会の故平山喜堂会長だ。

 平山会長とはブラジルへご一緒するなど、親しくさせていただき、いろんな人生の教えを受けたが、そのなかの一つが、
「人間は、得意分野でつまずく」
 ということだった。

 不得手な分野は慎重に対処するが、得意分野はどうしても気がゆるみ、タカをくくり、その結果、足もとを掬われるとというわけである。

 ならば、私の得意分野は何か。
 私が人生でつまづくとしたら、それは何においてか。

 じっと考えた。

 無いのである。

 得意分野がないのである。

(と言うことは……)

 そう、私は得意分野がないがゆえに、人生でつまづくことがないということになるのだ!

 大発見をしたつもりで悦に入っていると、平山会長のカミナリが天から落ちてきた。

「バカ者! 得意分野がないということは、その場にじっとしていて動かないということ。つまづきもしないが、前へ進むことはないのだ」

 そして、
《つまづいたっていいじゃないか、にんげんだもの》
 どこかで見聞した文言が、ふいに脳裏に浮かんできた。

(そうだよなァ、じっとしてちゃいけないんだ。人間だもん、つまづいたっていいんだ)
 と納得しつつ、
(でもなァ)
 という思いもよぎる。
(この文言、三浦和義氏なら何と思うだろうな)

 三浦氏のコメントを再読しながら、昨夜はあれやこれやと考えされたのである。

投稿者 mukaidani : 11:14

2008年02月26日

大が小を呑み込むレトリック

 昨夜は、某出版社の編集者と飲み屋で、歴史小説の打ち合わせをした。

 これまで歴史モノに興味がなかったわけではないのだが、時代小説を書いたことがきっかけで、歴史の面白さを再発見。新たに文庫で書き下ろすことになった。
「〆切なし。存分に書いてください」
 という編集者の言葉が嬉しい打ち合わせであった。

 で、信長だの、秀吉だの、家康だの、何だかんだと壮大な歴史物語に花を咲かせた帰途、電車内の吊り広告に、〝ちょいワルオヤジ〟の雑誌広告が出でいた。

〝ちょいワルオヤジ〟の「靴がどうした、シャツがどうした」……なんて雑誌広告を眺めながら、
(なんだかなァ)
 という気分になった。

 もちろん〝ちょいワルオヤジ〟が悪いというわけではないし、雑誌にケチをつけるつもりもないのだが、歴史という壮大なテーマを語り合ったあとだけに、〝ちょいワルオヤジ〟のオシャレ術が何となくチマチマして見えたのである。

(そりゃ、信長と〝ちょいワルオヤジ〟じゃ、勝負にゃなんねぇよな)
 と、腹のなかでブツブツ言いつつ、これはまさに《比較のレトリック》であることに気がついた。

「福田総理も頑張ってるんだろうけど、明治の元勲にくらべればゴミみたいなもんだ」
「倖田來未も人気だけど、マドンナにくらべればスケールが違うよ」

 でっかいモノを持ち出すことで矮小化させる――これが比較のレトリックで、実は、私がよく使う手なのである。

「バカ者、貴様にワシの真意がわかるか。貴様がワシに意見するのは、30センチの物差しで地球を測るようなものなのだ」

 こう言われて目を三角に吊り上げるのは女房くらいのもので、たいてい相手は一瞬、押し黙る。

 そして、このタイミングを逃さず、
「しかるに――」
 と話を継いで、〝我田引水〟に持ち込むのである。

 吊り広告の〝ちょいワルオヤジ〟の笑顔を眺めながら、そんなことを考えつつ、電車に揺られた次第。 


投稿者 mukaidani : 13:08

2008年02月23日

宮本武蔵に見る「目的は手段を正当化する」

 剣豪の人気ナンバー1と言えば、宮本武蔵だ。
 人気の理由はいろいろあるが、私が惹かれるのは、武蔵の剣を極めんとする「孤高の求道精神」である。
 空手を修行する一人として、武蔵はカッコいいのである。

 だが一方、意地悪く観点を変えると、
(でもなァ)
 という思いもないではない。

 たとえば、巌流島の決闘。
 約束の時間にわざと一刻(二時間)も遅れて、佐々木小次郎を焦(じ)らしている。
「へぇ、武蔵って頭いいじゃん」
 と、私も昔は感心したものだが、よくよく考えてみれば、正々堂々の態度とは言い難い。

 ありていに言えば、姑息である。
 姑息な手段は、日本人がもっとも嫌うタイプであるにもかかわらず、武蔵は英雄として絶大なる人気を博している。

 なぜか。

 小次郎に勝ったからだ。

 勝ったから、
(なるほど、武蔵はたいしたものだ)
 と、その戦略が賞賛されたのである。

 これがもし、小次郎に〝燕返し〟で斬り捨てられたとしたらどうだったろうか。
「正々堂々と戦えばいいものを、姑息なことをするから負けるんだ」
 嘲笑されたことだろう。

 歴史が勝者によってつくられるように、この世は常に「勝者が正義」なのである。

 武蔵fは剣の求道者という〝観念的なイメージ〟が強いが、実は徹底したリアリストで、かの『五輪書』に、武蔵はこう書いている。

《物毎(ものごと)の損得をわきまゆること》
《役に立たぬ事をせざる事》

 損得を考えて行動せよ、とは求道者らしからぬ言葉であるが、ここまで徹底しなければ勝負には勝てないということでもある。

 すなわち「目的は手段を正当化する」――これが宮本武蔵が説く勝負の極意と言えるだろう。

 イヤなことだが、これが現実である。
 この現実をまず、私たちは肝に銘じ、その上で、自分はどう身を処していくかを考える。
 これを「現実的人生観」と、私は呼ぶのである。

投稿者 mukaidani : 12:58

2008年02月19日

嫉妬と羨望と、東国原知事

 アブダビのオークションで、「1」の自動車ナンバープレートが15億円で落札された。
「一族の持つ資産に比較すれば大きな額ではない」
 と、落札したアラブ首長国連邦の実業家は涼しい顔だったとか。

 このニュースを見て、私はムカッ、ときた。
 ガソリン高騰で、世界中がヒーヒー言っているのに、アラブの野郎はナンバプレートに15億円!
「てめぇら、そのうち石油が枯渇して泣き面かくなよ」

 さんざん毒づいたあとで、
(ありゃ、わしも歳を拾うたわい)
 と愕然とした。

 私の〝ムカッ〟は、嫉妬である。
 嫉妬は精神的な「老い」である。
 私が青雲の志に燃えた若者であれば、このニュースを見て、
(わしも大富豪になりたい!)
 と羨望しただろう。

 羨望でなく、嫉妬したことに、私は愕然としたのである。

 こうしてみると、嫉妬は「あきらめ」の裏返しであることがわかる。
 だから毒づく。
(あの野郎、コケればいいのに)
 と失敗を願う。
 暗いですな。

 ところが羨望は、「夢」の裏返しである。
 だから賞賛する。
(オレも、ああなりてぇな)
 と励みにする。
 前向きで、嫉妬よりはるかに明るいですな。

 嫉妬も羨望も、煩悩ということで言えば〝目クソ、鼻クソ〟には違いないが、これを精神年齢のバロメーターとして見れば、天地の差があると、私は考えるのである。

 今日、スーパー銭湯に行くと、テレビに宮崎県の東国原知事が出ていた。
 話題は、彼が東京マラソンで走ったことである。

 東国原知事の〝ラッキョ顔〟を観ながら、私は、
「何だかんだ言いながら、結局、宮崎をダシにして、自分の名前を売っているだけじゃねぇか」
 と毒づいてすぐ、
(あっ、いけねぇ!)
 と反省。
「頭いいなァ。〝宮崎のために〟という錦の御旗を掲げれば何でもありなんだ」
 と賞賛し直した次第である。
   

投稿者 mukaidani : 02:42

2008年02月16日

人生街道、テクテクと物見遊山

 今朝、久しぶりに畑へ出かけた。
 例によって指南役の親父と、収穫担当の女房と、私の3人である。

 今日の目的は、そろそろジャガイモを植える時期なので、その準備だが、畑へ着いて、指南役がガッカリした声を出した。

「ああ、豆が全滅じゃあ」

 なるほど、豆が枯れかけている。

「霜がひどかったけんのう」
 と、指南役は残念がりつつも、
「しょうがないわい」
 と納得している。

 私も、
「おお、しょうがない、しょうがない」
 女房も、
「しょうがないわねェ」

 みんなで、サバサバと「しょうがない」を連発し、納得している。

 これが農家であったら、「おお、しょうがない」ではすまない。
 趣味の菜園だから、
「まっ、いいか」
 と、あきらめがつくのだ。

 で、ふと思った。
(仕事が趣味だったらどうか?)

「キミとは今後、取引はしない」
 得意先に断られても、
「しょうがないのう」
「おお、しょうがない、しょうがない」
 お気楽なものだろう。

 ならば「人生」もしかり。

 どんな不幸な目にあっても、
「ああ、全滅じゃ」
「おお、しょうがない、しょうがない」
 気楽なものである。

 と言うことは、仕事も人生も「趣味」にしてしまえばいいのだ。

 もちろん、現実にはそうはいかない。
 ノンキに「しょうがないのう」ではすむまい。
 それは、承知している。
 だが、人生を「趣味」に見立てようと〝努力〟することはできるのだ。

 江戸人の生き方は「人生、物見遊山」というものだった。
 人生を楽しもうとする生き方だ。
 日々が楽しいのではなく、楽しもうとする、その生き方が、「人生、物見遊山」なのである。

 山あり谷あり、苦あり楽ありの我らが「人生街道」を、ノンキに物見遊山しながらテクテクと歩いていけるか。
 いや、物見遊山しようと努力できるかどうか。
 ここに人生を楽しく生きる要諦があるよに、私は畑で思ったのである。

投稿者 mukaidani : 18:50

2008年02月14日

「市川監督逝去」と「絶句」

 テレビで、高齢者のひとり暮らしを放送していた。

 今日、木曜日は道場の稽古がなく、自宅二階の自室で原稿を書いていて、ひと息入れに居間に降りたときのことである。

 年金暮らしの厳しさがテーマだったので、
「長生きも考えものだな」
 と、テレビを見ていた女房に私は言った。

「人間は誰でも死ぬ。70歳が80歳まで生きたからいって、どれほどの意味があろうか」
「じゃ、あなただけ、さっさと死んでくださいな」

 バチ当たりが、ちっともわかっていないのである。

 気を悪くした私は自室にもどり、執筆前にインターネットでニュースをチェックすると、市川崑監督の訃報が載っていた。92歳。老いてなお創作意欲を失わなかったと報じていた。

 故人をよく知る人として、ベルリン映画祭に出席していた吉永小百合さんと山田洋次監督のコメントが載っていた。

吉永小百合さんは絶句。
 コメントを求める取材陣に対し、関係者を通じて、
「すぐにお答えすることができそうにもありません」
 と伝えたという。

 山田監督も同様に、
「とても大きなショックです」
 とうつむいて沈黙。
 数秒間を置いてから、
「今、それについて考え方をまとめて言うことはできません」
 と話すのがやっとだった報じられていた。

 ショックの程がうかがえ、心情察して余りあるが、二人の様子を読みつつ、私はふと考えさせられた。

 私の父親は、市川監督より若いが、それでも84歳。
 持病もあり、遠からず逝くだろう。
 仏法を説くまでもなく、これが生きとし生ける物の必然である。

 厳しい現実だが――私と後か先かは別として――いずれ逝く。
 だが、この理(ことわり)をしっかりと踏まえることによって、相手に対する尊敬や感謝、慈悲の念が生まれるものと、私は思う。

 だから、年齢から考え、父親が先に逝ったとしても「突然のショック」に私は沈黙することはないだろう。

 いや、父親の死を「突然のショック」と受け止めるような〝親子関係〟でありたくはない――と、吉永、山田両氏のコメントを読み返しながら、ふとそんなことを思った次第。

 もちろんお二人とも「公人」である。
 公人としてのコメントを発せられたのだろうと思う。

 それはそれでよとしながら、「死」が人間にとって最大のテーマであることを、恥ずかしながら、いま再認識しているところである。

投稿者 mukaidani : 14:33

2008年02月12日

正論で説得する「正論バカ」

 正論とは、「正しい」という意味である。

 ならば、「正論」をもってすれば人を説得できるか。

 答えはノーだ。

 相手が「正論」を受け入れるということは、自分の間違いを認めることになるからだ。
「そうか、わかった。わしが間違うとった」
 と、潔(いさぎよ)い人間は意外に少なく、「それが正論であるがゆえに相手は突っ張る」という皮肉なことになってしまうのである。

 だから、正論をもって人を説得するときは、
「いかに正論と思わせないようにするか」
 というレトリックがポイントになる。

 たとえば、こんな例はどうか。

 某和菓子屋さんで、若手のA君がインターネットを使ったPR展開を提言した。
「社長、いまどきホームページを持たないなんて、時代遅れです」

 A君が「正論」。
 だが、年老いた社長は、超ガンコ者。
「老舗は、老舗らしゅうやっとらええんや」
 と、聞く耳を持たない。
 なぜなら、
「せやな」
 とA君の主張を認めてしまえば、自分が時代遅れであると認めることになってしまうからだ。

 その心理を知らず、正論で攻めるのは腕力勝負。
〝北風〟でマントを脱がせようとするようなもので、攻めれば攻めるほど、
「そんなもん、銭ばっかりかかってからに、アカン!」
 逆効果になってしまうのである。

 A君は、こう提案すべきなのだ。
「菓子業界もインターネットの時代なんですかねぇ。老舗のQ本舗も、新興のZ商店も、つぶれかけたY菓子も、み~なホームページ。紙媒体のウチは少数派になってきましたが、逆を言えば希少価値ですね。こりゃ、目立つかもしれませんよ」

「正論」を振りかざさずして、正論を主張する。
 すると、ガンコ社長も、
(ウーム……。ウチだけ取り残されたらどないしょ)
 と軌道修正をし始める。
 これが人間心理なのである。

 社員の「正論」で上司が我が非を認めるのではなく、上司が自ら間違いに気づいて軌道修正する――こういう形に持っていくのが、「正論」を用いた正しい攻略法なのである。

 間違いに気づいてなお、
「地球は四角だ」
 と言い張る上司に、
「なに言うてまんねん。地球が丸いことくらいガキでも知ってまんがな」
 と正論で応じてはダメなのだ。

「じゃ、おまえ、証明してみろ」
「そんなムチャな。地球儀を見たらわかるやないですか」
「なぜ地球儀が正しいとわかる。証明してみろ」
 正論で押され、劣勢になれば、上司は泥仕合にもっていく。

 部下は、上司にこう問いかけるのだ。
「地球って、ホンマに四角なんやろか?」

 すると上司は、渡りに船で、軌道修正を始める。
「四角だとオレは聞いているが、確認したほうがいいな。ひょっとして、丸いということも考えられる」

 こうして上司を手のひらでころがすのだ。
 いや上司に限らず、亭主しかり、女房しかり、我が子しかり――。正論とハサミは使いようで〝切れ味〟が決まるのだ。

投稿者 mukaidani : 02:17

2008年02月09日

倖田來未バッシングって何だ?

「話はわかった。で、狙いは?」

 これで、たいてい物事の本質がわかる。

「こうすれば売上は倍増すると思うんだ。全社一丸となって頑張ろう!」
「なるほど。話はわかった。で、狙いは?」

 すなわち、「売上倍増を力説する狙いは何か」ということなのである。
 もっと言えば、
「売上が倍増したら、何がどうなるのか」
 ということである。

 意外にも、このことがすっぽりと抜け落ちてしまい、
「よし、わかった」
「なるほど」
 と、その気にさせられ、本質を見落としてしまうのである。

 たとえば、野田聖子議員と、佐藤ゆかり議員の〝手打ち〟。
 二人はそろって記者会見に臨み、

 佐藤ゆかり「このたびは党本部などに大変なご調整をいただきました。この2年半、政治家として政治のイロハを岐阜の皆さまに教えていただいた。生涯の大切な資産、育ての親として大切にして参りたい」

野田聖子「佐藤ゆかり議員が大変な決断をしてくれたことを重く受け止め、さまざまな思いを抱えながら決断していただいたその心に報いるよう、岐阜において政治活動を続けさせていただきます」

 なるほど、二人の「話」はわかった。
 で、狙いは?

 わざわざ記者会を開き、「笑顔と握手のツーショットを披露した狙いは何なのか」ということである。

 狙いは言うまでもなく、次の総選挙に向けてのアピールである。

 だが、その「狙い」については言及せずに頬っかむり。

 いやらしいのである。

 だが、彼女たちのニュースを見聞する我々も、
「なるほどねぇ。佐藤ゆかりも笑っちゃいるけど、さぞやくやしいだろうな」
「女の嫉妬はすげぇからな」
 下世話な興味に目を奪われ、結果、本質を見落とすのである。

 倖田來未の「35歳を回ると羊水が腐る」という失言に対するバッシングもしかり。

「あんな発言、許せねぇ! そうだろ、みんな!」
「そうだ、そうだ!」

 なるほど、倖田來未に非がある。
 不用意な発言である。
「許せない」という〝話〟はよくわかる。

 ならば、非難の「狙い」はいったい何なのか。

 泣かせたいのか、土下座させたいのか、嫉妬の溜飲を下げたいのか……。

 狙いを問わずして、倖田バッシングの本質は見えてこないのである。

 だから、
「話はわかった。で、狙いは?」
 という問いによって、物事の本質は見えてくるのだ。

投稿者 mukaidani : 19:29

2008年02月07日

橋下知事に学ぶ詭弁のテクニック

 橋下徹・大阪府知事が、「出産・子育て支援事業」の凍結を表明したそうだ。

 橋下知事は私にとって何の関係もなく、また私は大阪府民でもないので、公約違反だと目くじらを立てるつもりはないし、大阪府民にしても、圧倒的支持で府政の舵取りをまかせたのだから、公約違反だと怒ることもないだろう。

 そういう意味で、橋下知事については興味はないのだが、処世術ということから観れば、これが大変参考になるのだ。

 周知のように、橋下知事は「子供の笑顔」をキャッチフレーズに選挙を戦った。校庭の芝生化、保育施設の整備など、出産子育て支援を中心とした17の重点事業を掲げて当選した。

 ところが、いざ予算の段階になると、
「財政再建が第一。大阪府が転覆してしまっては元も子もない」
 と語り、2月議会で審議する新年度当初予算案には盛り込まない考えを表明したのである。

 この論理ですね。

 この論理を応用すれば、自分の言(げん)を頬っかむりして、相手を言いくるめることができるのだ。

「確かに私は、あのときそう言った。それは否定しないし、いまもそう思っている。だが、いまは会社の非常時なのだ。辛抱してくれ」

「そりゃ、オレだって家庭サービスをしたいさ。でも、安定した収入があっての家庭じゃないか。だから辛抱してくれ。会社、クビになってもいいのか?」

 これらを踏まえて、
「財政再建が第一。大阪府が転覆してしまっては元も子もない」
「府民に迷惑をかけると思うが、府政の大改革に必要なプロセスとして理解と協力をしてほしい」
 という橋下知事の言葉を読み返して、みなさんはとう思われるだろうか?

(うまいこと言って)
 と、私は思うのである。

「将来のためじゃないか。いまは辛抱だよ」
 誰もが否定できないテーマをブチ上げて〝我田引水〟をはかる。自己正当化など、たやすいことであることを、橋下知事は教えてくれるのである。

投稿者 mukaidani : 15:55

2008年02月06日

「人間関係」は「食べ物」と同義語である

 空手道場をやっていて、何がガッカリするかというと、弟子が辞めることである。

 特に、目をかけ、手塩にかけた(つもり)の少年少女に辞められるのは、複雑な心境である。

 正直、裏切られたような気分になったりもする。

 だが最近は、平気になった。

 いや、逆に「頑張れよ」と心で拍手して送り出すようになった。

 人間は年齢に関係なく、人それぞれに事情もあれば、人生観も違う。
 夢もあれば、希望もある。
 私が一所懸命に教えることと、相手の人生はイクオールでもなければ、正比例するのでもない。

 むしろ、人生のある時期、その子のために、その人のために一所懸命教えたという、そのことが、私にとって財産なのだと思うようになったのである。

 で、先日のこと。
 知人が、
「面倒を見た人間から裏切られた」
 と歯ぎしりしていた。

 私は「怒るのは間違いだ」と言って、知人に次のような話をした。

 人間関係というのは、いわば〝食べ物〟である。
 人と知り合い、面倒を見て、あるいは面倒を見られ、やがて別れる。

「面倒見たのに」
 と怒ることもあれば、
「後足で砂をかけていった」
 と、罵(ののし)られることもあるだろう。

 だが、繰り返すように「人間関係」は〝食べ物〟なのだ。
 面倒を見るのも、見られるのも、あるいは対等につき合うのも、すべて経験であり、自己を向上させる栄養分(食べ物)なのだ。

 そして栄養分は、摂取したら排泄されていく。
 どんなおいしい料理も、いつまでも胃袋にとどめておくことができないのと同様、人間関係も排泄されていくのである。

 出会って、そして別れていくのが人生なのだ。

 大事なことは人間関係から何を学ぶか。
 この一点なのである。
 

投稿者 mukaidani : 20:54

2008年02月04日

橋下徹氏に見る「ハリネズミの自己演出術」

大阪府知事・橋下徹氏の言動を見ていて、唐突に「ハリネズミ」をイメージした。

 ハリネズミは、攻めてくる相手に対しては猛然と針を逆立てて抵抗するが、そうでない相手に対しては――交尾するときのように――針を収めて寄り添う。

 たとえば、3日に告示された山口県岩国市の市長選。

「憲法を勉強して」
 と、橋下氏は、前市長で候補者の井原氏を批判。
 これに対して、井原氏や学者から、
「橋下さんこそ不勉強」
 と指摘されるや、福岡で行われたフォーラムで、
「机の上の憲法論しか知らない憲法学者に、とやかく言われたくない」
 と猛反発した。

 岩国市長選は米空母艦載機移転が争点になっているが、本論と関係ないから割愛(みなさんでニュースをチェックしてください)。
 私の興味を引いたのは、記事の次の下り。

《(橋下氏は)このフォーラムの開会前、主催者で全国知事会長の麻生渡・福岡県知事と初対面。先輩格の麻生氏に対し「先を行かれる福岡県の子育て支援施策を勉強したい」「企業誘致のポイントは?」と述べるなど、謙虚な姿勢を見せていた。》

 あるいは1月末の記事。

《大阪府知事選で初当選した橋下徹氏が31日、府庁の知事室を訪れ、初めて太田房江知事にあいさつした。太田氏が「これから一府民として橋下府政を応援していく」とエールをおくると、橋下氏も「家が近くなので、悩んだときはすぐにうかがってもいいですか」とこたえた。》

 この態度の使い分けが、ハリネズミを連想させ、これを私は「ハリネズミの自己演出術」と呼ぶ。

 東京都知事の石原慎太郎氏、あるいは現役時代のハマコー氏が先輩格になるか。

 周知のように、批判に対しては徹底して針を逆立てて突進していくが、交尾相手となれば一転する。

 よく言えば、
「味方にすれば心強いが、敵に回すと厄介だ」
 という自己演出術。

 悪く言えば、ヤクザ式。
「ワシからは仕掛けへん。せやけど、米びつに手ぇ突っ込まれたら、黙ってへんで」

 八方丸く治めようと腐心するのではなく、「敵」か「味方」を峻別し、味方を増やしつつ、敵に対しては徹底的に追い込んでいく。

 すると、どうなるか。

「あいつにケチつけると、あとが面倒や」
 ということになり、これが力となっていくのである。

 ハリネズミを批判しているのではない。
 演出術の一つとして、「この方法もある」と言っているのだ。

 ただし、ハリネズミより一枚上手なのがキツネ。

 キツネがハリネズミを補食するときは、ハリネズミを水溜まりに落とし、泳ごうとして身体を伸ばしたところを、ガブリ。やわらかい腹部に咬みつくそうだ。

「ハリネズミの自己演出」をやるなら、ここに気をつけること。

 ついでながら、政界はキツネとタヌキの生息地。
 水溜まりに落とされぬよう、橋下氏はくれぐれもご注意を。

 

投稿者 mukaidani : 01:53

2008年02月02日

貧乏神は、いくら笑顔を見せても〝貧乏神〟

 私は、いろんな人から、いろんな相談を持ちかけられる。

「◯◯しようと思ってるんだけど、うまくいくだろうか?」
「◯◯氏とトラブってるんだけど、会って話し合ったほうがいいだろうか?」
「△△をしたいんだけど、何かいい方法はないだろうか?」

 成否の見通しから方法論まで、いろんな相談をされる。

 私に知恵があるからではない。

 無責任だからだ。
 いや、無責任な立場に立つことができるからだ。
「無責任=ニュートラル」であり、だから相談事が客観的に判断できる。

「ある資産家が、金主になるから店をやってみないかって言うんですが、どう思います?」
 先日、水商売で働くZ君からこんな相談をされた。
「何でキミなんだ?」
「ボクのことを見込んでくれているんです」
「資金、くれるってかい?」
「いえ、月々の儲けから払えばいいって」
「やめとけば」

 私は即座に反対した。
 Z君は「見込んだ」という一語で、舞い上がっているに過ぎないのだ。
 その資産家とやらが、「この男」と本気で見込んでいるなら、「月々の返済」なんてケチなこと言わないで、「出世払い」にするだろう。

 Z君は利用されているのだが、当事者はそこに気がつかず、私のように「無責任=ニュートラル」な人間だからこそ、実相がよく見えるのである。

 私が週刊誌記者時代、ある名編集長が私にこんなことを言った。
「編集長の仕事ってのはね、いかに一読者になれるかってことなんだ。プロでありながら、いかにシロウトになれるか。勝負はここで決まるんだね」
 編集者はどうしても「編集者の目線」で記事をつくってしまう。
「それでは売れない」
 と、この名編集長は言ったのである。

 ところが、私もそうだが、何事も当事者になると、「希望的観測」が判断を狂わせる。

 竹馬に乗って坂道を走って下れば、転ぶに決まっているにもかかわらず、当事者は、
「でも、窪地を避ければ大丈夫じゃない?」
 希望的観測にすがる。
 転ぶのは〝必然〟なのである。

 このことから、私はいつも言うのだ。
「貧乏神は、いくらニコニコ笑っていても貧乏神なんだよ」

 しかるに世の多くの人は、貧乏神という実体を見ないで、ニコニコ笑顔に目を奪われる。
「貧乏神って言うけど、けっこう明るい顔してんじゃん」

 かくして、貧乏神と手をつなぐのである。

投稿者 mukaidani : 16:25