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2008年01月31日

明日より「今が大事」という生き方

 明日から2月。

 春、目前である。

 春が来ればすぐに5月の連休で、そのあと梅雨入り。明ければ盛夏、お盆、秋と続いて、
「朝晩、寒くなりましたね」
 こうして、瞬(またた)く間に1年が過ぎていく。

「時が経つのが早いね」
 人に会えば、こんな挨拶が交わされる。
「まったくだね」
 と、私は頷きつつ、
(何だか、いつもこのセリフを口にしているなァ)
 と、妙な感慨を覚えるのである。

 時が経つたつのが早く感じるられるのは、年齢のせいだろう思っていたが、そうでもないようだ。

 道場生や、保護観察中の若者が私に「将来の不安」を口にすることがある。
「このまま漫然と人生が過ぎていっていのだろうか」
 という不安である。

 相手に応じて、私なりに話をするのだが、彼らに共通して感じることは、《人生》と呼ぶ〝何かが〟あるように錯覚していることだ。

「人生が不安なんです」
「なるほど。じゃ、キミの〝人生〟というやつを取り出して、俺に見せてくれんか」
「はッ?」

 たいていキョトンとする。

 当然だろう。

 人生に「実体」はないのだ。
「今日」という一日を積み重ねた結果を「人生」と呼ぶに過ぎない。

 すなわち、「今、この瞬間」が人生そのものということになる。
 そこに気づかないから、漠然と人生に不安を抱くのである。

「明日」より「今日」、「今日」より「今」という生き方を、かつては刹那主義と言って批判した。

 高度経済成長にむけて日本かひた走っていた時代だ。

「今」より「今日」、「今日」より「明日」――。
 私も走った。
 必死で走った。
 だが、その結果、どれだけの幸せを得たのだろうか。

「明日」より「今」が大事。
 私は実感をもって、そう思うのだ。

投稿者 mukaidani : 11:55

2008年01月29日

「悪名は無名に勝る」という生き方

 大阪府知事選挙は、周知のとおり、橋下徹氏が圧勝した。

 各メディアとも、勝因は「知名度」であるとする。

 橋下氏の知名度については、選挙期間中からさんざん言われてきたことで、下馬評も「圧倒的な知名度」をもって有利とした。

(そうだろうな)
 と、私も思っていたし、選挙結果についても順当だと思うが、ふと気になった。

(知名度があれば、なんで選挙に勝つんだ?)

 妙な話ではないか。
 今回の府知事選だけでなく、国政選挙もそうだ。

 で、あれこれ考えているうちに、唐突に「類似性の動機づけ」という言葉が頭をよぎった。

 誰も経験あることだと思うが、たとえば郷里や出身校が同じだというだけで、初対面の人と急に打ち解けたりすることがある。赤の他人の一人に過ぎないはずなのに、同郷や同窓という〝共通項〟によって何となく親近感を覚えるのだ。
 これが「類似性の動機づけ」だ。

 拙著『ホストの出世術』に書いたが、「類似性の動機づけ」はホストが得意とするテクニックで、客との共通項を探り、そこを攻めることで、客との親近感を強めるのだ。

「有名人」も同じだ。
「あっ、あの人、テレビで見て知ってるでぇ」
 この心理が、たぶん「類似性の動機づけ」ではないかと、私は考えたのである。

 で、さらに考えた。
 私たちもまた、
「あの人、知ってるでぇ」
 と思われれば、人生、有利に働くのではないか。

《悪名は無名に勝る》
 という言葉があるが、「善良な無名人」と「ワルの有名人」とでは、後者のほうが圧倒的に人生にプラスするのだ。

 たとえば、私の友人である影野臣直クンは、〝ボッタクリの元祖〟として知られる「有名人」だ。
《梅酒一杯15万円》事件で、4年間の獄中生活を経験しているが、出所後の活躍はめざましく、『歌舞伎町ネゴシエーター』『刑務所(ムショ)でなくヤツ、笑うヤツ』(いずれも河出書房新社)などの執筆の他、雑誌の連載から劇画、DVDまで八面六臂の活躍である。

 橋下新知事から影野クンまで、ことほどさように有名であることは「善」なのだ。

 ならば、世間体など気にしないで、ガンガンやって名前を売ればいい。
 スキルがなければ、良くも悪くも名を売りたまえ。
「ほう、あなたが○○さんですか」
 こう言われるようになったら、しめたもの。
 人生はさらに開けていくのだ。

 悪名でも結構。
 名を売った後で、軌道修正すればいいのだ。

 あざとい生き方ではあるが、これまもた人間関係における一面の真理なのである。
 大阪府知事選で、そんなことを考えた次第。


投稿者 mukaidani : 13:48

2008年01月27日

「蹉跌」と「敗者復活」

「戦う政治家として、再び全力を尽くす」
 安倍前首相が、地元選挙区の新春の集いで、そう挨拶したと今日のニュースが報じている。

(なるほどな)
 と、私は思った。

 安倍前首相のことで納得したのではない。
(やっぱり人生は〝敗者復活戦〟ありなんだな)
 と認識を新たにしたのてある。

 突然の辞任で世論に袋叩きにされたのは、わずか5カ月前なのだ。
 周知のように、
「無責任だ」
「政治生命は終わった」
 と非難の嵐にさらされ、
(あれじゃ、みっともなくて議員なんかやってらんないだろうな)
 と私も思ったものだ。

 まして、辞任して間もなしに、「再び全力をつくす」と発言しようものなら、世論から石を投げられていただろう。

 ところが、5カ月がたった今はどうだ。
 何となく釈然としない気持ちはあるし、それなりに批判はあるものの、
(へぇ、これからも頑張るんだ)
 と漠然と受け容れている。

 時の流れである。

 結局、良くも悪くも、時がたてば、見方も評価も価値観も変わっていくのだということを、今さらながら噛みしめた次第。

 となれば、二度、三度――いや、五度や六度の蹉跌(さてつ)で落ち込むことはないということになる。

「なんだ、あいつ」
 という非難も、数ヶ月もすれば風向きは変わってくるのだ。

 一国の政治を放っぽり出し、末代までの生き恥をさらした安倍前首相でさえ、〝敗者復活〟の弁が受け容れられるのだ。

 いわんや、我ら一市井人の恥や失敗など、本人が意識するほどには誰も覚えていないということなのである。

《人のウワサも75日》
 とは、まさに先人たちの〝経験則〟なのだろう。

 人生は何度でも「敗者復活戦」があるのだ。

投稿者 mukaidani : 23:24

2008年01月25日

KYが加速させる〝自己喪失〟

「それって、KYじゃん!」
 道場で、中学生たち数人が、何やらにぎやかに話をしている。

 で、私はあえて訊いてみた。
「KYって何だ?」
 中学生たちは、そんなことも知らないのか、という表情で顔を見合わせてから、
「空気が読めない、という意味ですが」
「空気って何だ?」
「そのう……、その場の状況みたいなことで……」
「空気なんか読めなくたっていいじゃないか」
「……」
 彼らは何と答えたものか、再び顔を見合わせていた。

 私はかねて、「人間関係が不器用だ」という悩みの一因は、KYという言葉に代表される価値観にあるのではないか、と思っている。

 十人十色の社会で〝場の空気〟を読むのだから、これは大変だし、場の空気を読んでそれに同調するには、《自分》を殺さなくてはならない。

 自分を殺し、〝場の空気〟を読むことに汲々とし、それに同調して生きていくうちに、自分の価値観や人生観というものが次第に見えなくなってしまう。

 すなわち「自己喪失」である。

 自分の価値観や人生観を持たない人間は、いわば〝物差し〟を持たないで人生を測ろうとしていると同じなのだ。
 悩むのは当然だろう。

「人間関係が不器用だ」という悩みの本質は、「自己喪失」ではないのか。
 他人との関わりで悩んでいるように見えて、実は自分との関わりを見失っていることに悩んでいるのではないか――。
 KYという言葉を聞くと、私はそんなことを考えるのである。

投稿者 mukaidani : 15:47

2008年01月24日

人生に遅れを取ったときの心構え

「自分は、そんなに悪い人間じゃない」
 誰もが思っている。
 盗人にも三分の理があるのだから、フツーの人がそう思うのは当然である。

 だが、世間というやつは、本人が思っている以上に、厳しい目で見ているものなのだ。

 我が身を振り返ってみればわかる。
 三人寄れば、必ず誰かの悪口ではないか。
 悪口が楽しいということもあるだろう。
 だが悪口の本質は、それを共有することによって仲間意識を再確認し、自分が悪口の対象になることを無意識に避けようとしているところにある。

 言い換えれば、世間や同僚というやつは、いつ手のひらを返すかもしれないということなのである。

 ことに会社の同僚は、構造的に敵対関係にある。
 全員が「長」になれるわけではない以上、それを目指すには競争しなければならない。競争相手は「敵」なのである。

 だから同僚が好成績を上げれば、面白くない。
 ドジを踏めば、心は弾む。
 イヤなことだが、それが人間なのだ。

 そこで、敵意が存在する人間関係において、どういう心構えで生きていけばいいのか。

 お釈迦様は、
《敵意ある人々の中にあって、私は敵意を抱くことなく、幸せに生きていこう》
 と、さらりとおっしゃっているが、問題は、
「いかにすれば敵意を抱くことなく生きていけるのか」
 ということである。

 たとえば昇進で、同僚に先を越されたとしよう。
 おもしろくない。
 当然だろう。

 どうするか。
 ヤケ酒を呷ったのでは、ますます惨(みじ)めになる。
 さりとて、お釈迦様のように、動揺することなく、
(敵意を抱くことなく、幸せに生きていこう)
 と達観するのも、凡夫には無理だ。

 私なら、
(とりあえず先を越された)
 と自分に言い聞かせる。

 野球で言えば、1点先取されただけのことで、取られたら取り返せばいい。
 先取した人間が、そのまま勝者になるほど、人生は平穏ではないのだ。

 そう思えば――嫉妬がまったくなくなるとは言わないが――気持ちに余裕が出てくる。余裕を持って人生ゲームが続けられるなら、逆転の可能性は十分あるのだ。

投稿者 mukaidani : 01:41

2008年01月20日

現状打破は、視点の数に比例する

 道場内にある仕事部屋まで、自宅から5分である。

 たいてい歩いて行くが、荷物があるときはクルマで行く。

 で、最近、つらつら考えるに、歩いて行ったときのほうが、仕事の〝立ち上がり〟が早いことに気がついた。

 それはたぶん、歩いている最中、無意識に段取りを考えているせいではないだろうか。つまり頭が仕事モードになり、ウォーミングアップを始めているからだと思うのである。
 パソコンで言えば、歩いている最中が「脳の起動」というわけだ。

 ところがクルマで行くと、運転に気を取られて、段取りに意識がいかない。
 しかも数分で着くため、「脳の起動」が終わならい。
 だから仕事の立ち上がりが遅くなり、それが尾を引き、結局、1日の効率が悪くなるのではないか、と私は考えるわけである。

 そういうことから言えば、散歩が〝発想の転換〟に有効だとされるのは正しい。

 実際、ブラブラ歩いてる最中に、
(あっ、そうか!)
 とアイデアがひらめくことは、私もよく経験する。

 では、なぜ散歩すれば、〝発想〟に有用なのだろうか。

 それは「刺激」だと思う。
 見えるもの、聞こえるものから無意識に刺激を受け、脈絡なく連想が働き、それが思いもかけぬ「視点」につながり、
(そうか!)
 と、ひらめくという次第。

 アイデアや発想、あるいは悩みなど、ドツボにハマったときに散歩すると、もつれた糸をほどく新たな視点が見つかるのである。

 ただし、ブラブラ歩く、というところがポイント。
 ランニングでは、こうはいかない。
 100メートルを全力疾走しながら、発想の転換を図ることはできない。
 息を切らしてマラソンをしながらでは、新たな視点はひらめかない。
 走ることに意識集中しているため、外界から刺激を受けても、それが脈絡のない連想に発展していかないからである。

 で、私は考えた。

 アイデアマンとか、悩みの尾を引かない人と言うのは、発想を転換させる〝刺激のアンテナ〟をたくさん持っているのではないか。
 すなわち、散歩の効果と同じメカニズム――刺激⇒連想⇒新たな視点⇒解決――というもを脳のなかに持っているのだ。

 だから既成概念にとらわれず、ドツボにハマらず、連想に遊び、斬新な視点を見つけるのである。

 ならば、どうやって〝刺激のアンテナ〟を身につけるか。

 人に会うことである。

 ただし、
(こういう人に会いたい、ああいう人に会いたい)
 と求めて会うのはダメだ。
 なぜなら、「いまの自分の価値観」でそう思っているからだ。「いまの自分」の延長線上には「いまの自分」しかいないのだ。

 流れにまかせ、チョイスせず、いろんな人間に会ってみることだ。
 会って、すべてを受け入れてみることだ。
 思いもかけない影響とは、思いもかけない人から得るのである。

 ところが、多くの人は、「人物評価」をしてしまう。
 それもネガティブなものが圧倒的に多い。

(イヤなやつ)
(あんな人間とはつき合いたくないな)
(調子いいよな)

 これでは、〝刺激のアンテナ〟は磨かれない。

 イヤな人間に会えば、反面教師になる。
 ありがたいことではないか。
 利己主義の人間に会えば、他山の石になるのだ。

 人に会うだけでなく、経験もしかり。

 成功も失敗も、いい人も、イヤなやつも、自分にとってムダなものは一つもないのだ。
 ムダとは、それを活かす力が自分にないことを言う。

 だから、世のなかにムダはないと、私は考える。

 どんなネガテイブなことでも、活かせば財産になる。
 反対に、いかな財産でも、それを活かす力がなければ無用の長物になる。
 猫を見よ。
〝小判〟の前でアクビをしているではないか。

投稿者 mukaidani : 12:17

2008年01月18日

花粉症で悟る「不幸の本質」

 原稿にあきてきたので、いまインターネットでニュースを読んでいると、今年の春は、花粉症の人にとってヤバイという記事が配信されていた。

 東京都によれば、スギ・ヒノキ花粉の量が去年の2倍から3倍近くになると言うのだ。

 ヤバイ。
 本当にヤバイ。
 花粉症の私は、毎年春になると憂鬱になるのだ。

 ところが、インターネットの記事は続けて、都民の3.5人に1人が花粉症であると書いてあるではないか。
(なんだ、花粉症ってポピュラーじゃん)
 にわかに気分が明るくなってきたのである。

 で、ハタと思った。

 これまで花粉症をつらいと感じたのは、
(なんでオレが――)
 という思いがあったからではないか。

 症状はもちろん苦しいのだが、それを増幅しているのが、
(なんでオレが――)
 という思いであることに気がついたのである。

 赤信号をみんなで渡れば怖くないのと同様、みんなが花粉症になってしまえば苦にはならない。少なくとも、いまよりは気分は楽なるはずである。

 そこで、さらに考えた。
 不幸は、不幸であることよもむしろ、
(なぜ自分だけが、こんな目にあわなければならないのか)
 という思いに〝不幸の本質〟があるのではないか。

(私だけが、私だけが、私だけが……)
 こうして人間はドツボに嵌っていくのだ。

 これを「私だけが病」と名づけよう。

 苦しく、絶望しそうになったら、それは不幸でも何でもなく、〝私だけが病〟に罹っているのだ。

 花粉症の記事で判然と悟った「不幸の本質」である。

    

投稿者 mukaidani : 03:44

2008年01月16日

主役をめざす人、脇役を喜ぶ人

 足の遅い人間がオリンピックの短距離ランナーを夢見るのは、不幸なことだ。

「夢を見る」のが不幸なのではない。

 夢を見た結果、自分の非才に落ち込むとしたら、
「それは不幸ではないのか」
 と、私は言うのだ。

 このことから、
「分不相応な願望は苦しみの元になる」
 と最近考えるようになった。
 大志を抱いて賞賛されるのは少年だけで、ある年齢に達したら、自分の器を知り、その器に応じた人生を歩むことが幸せだと思うだ。

 ところが、「自分の器」を知るのは難事だ。

 何が難しいのかと言えば、「自分の器の大きさ」を知ることではなく、
「それが自分の器なのだ」
 と納得することが、難しいのである。

 たとえば、同じ会社に勤めるなら、ヒラより社長になりたいのが人情だ。
 だが、誰もが社長になれるわけでもない。
「オレの器はヒラ社員だ」
 と自分に言い聞かせるには、抵抗と葛藤があるだろう。

 しかし、それが自分の器であると心から納得し、全力投球したなら、その人の人生は幸せに違いない。
 なぜなら〝羨(うらや)みの心〟に苦しめられないですむからだ。
 充実した日々とは、〝羨みの心〟と対極にあり、これが人生の幸せというものではないだろうか。

 役者は、誰もが主役になりたいと思う。
 だが、誰もが主役になれるわけではない。

 脇役として主役を羨むか、脇役に徹するか。
 ここで人生の充実度が違ってくる。
 名脇役と呼ばれる役者は、脇役という「自分の器」に徹することによって役者としての地歩を占め、ときに主役をも凌駕するのである。
 主役になることだけを夢見て鬱々たる日々を送る役者と、どっちが幸せだろうか。

 人間の器や能力は、人体の諸器官と同じだと、私は考える。
 手は手の、足は足の、爪は爪の、それぞれ果たすべき役割というものがある。
 それなのに、たとえば〝足の裏〟が、
「毎日、踏みつけられて嫌だ」
 と不満を口にするのは、愚の骨頂なのだ。
 なぜなら〝足の裏〟は、踏みつけられることによって存在価値があるからだ。
 人間もそれと同じで、それぞれ為(な)すべき本分(器/役割)を持って、この世に生まれてきている。
〝足の裏〟が〝頭〟になりたい羨むのは、実に愚かなことなのである。

投稿者 mukaidani : 20:39

2008年01月14日

人生が楽になる――私の新刊

 今夜――正確には昨夜だが、我が昇空館の役員新年会があった。

 新宿高層ビルの日本料理屋でやったのだが、紙製テーブルマットに墨痕で《喫茶去》とあった。

 これを見て、私は思わずニッコリ、である。

 なぜなら、来週21日発売の拙著『ヤクザの人生も変えた名僧の言葉』(河出書房新社)の中に《喫茶去》(きっさこ)という言葉が出てくるからだ。
 何となく、幸先がいいではないか。
 で、思わずニッコリ、という次第。

《喫茶去》は、唐代の禅僧・趙州の言葉だ。
 趙州は、誰に対しても、
「まあ、お茶をお飲みなさい」
 と、お茶をふるまうことで、
「分け隔てなく誰にでもお茶をふるまい、お茶を出された人は無心でそれをいただく」
 ということを教えた。

 要するに〝無心の日常〟というやつですな。

 それが具体的にはどういうことであるかは、拙著をお読みいただければ一読判然。
(そうか、人生って、そうなんだ!)
 僧籍を得た私が渾身の力で書いた「眼からウロコの人生読本」である。

 拙著のPRのようになったが、そうではない。
「読めば必ず、人生が楽になる」――そう信じるがゆえに、一人でも多くの人に読んでいただけたらと、あえて紹介した次第である。

投稿者 mukaidani : 01:34

2008年01月11日

〝稽古始め〟に気分も高揚

 今日から道場が始まった。

 空手を始めて40年近くになるが、いまだに〝稽古始め〟は気が引き締まる思いがする。

 これまで――もっと若い時分は、「新たな年」を迎えるというのは〝敗者復活戦〟に臨むような緊張感があった。

 思うにまかせなかった旧年をリセットして、
(よし、今年こそ!)
 という決意である。

 ところが何十年も、
(よし、今年こそ!)
 と〝敗者復活戦〟をやってくると、
(そうそう復活なんてしないもんだなァ)
 という現実を悟ってくる。

「今年こそ、明日こそと言いつつ、今日も暮れ――」
 という心境である。

 こういうのを、よく言えば「達観」、有り体に言えば「諦観」というのだろう。身体だけでなく、心も枯れてくるのだということが実感としてよくわかる。

 だが、それでも稽古始めは心地よい緊張感がある。

 帯を締めたときの感触は、
(さあ、今年も始まるぞ)
 という高揚した気分になる。

 空手を、古武道をやっていてよかったと、痛む肩関節に顔をしかめながらも、いまつくづく思うのである。
   

投稿者 mukaidani : 23:56

2008年01月10日

プロの力量は〝手際〟にあり

 昨日は、講談社「KING」誌の取材があった。

「お金」をテーマにした〝自己演出術〟だ。

 演出の要諦を一言でいえば、
「小金(こがね)はケチるな、大金(おおがね)はケチれ」
 ということになろうか。

 小金をケチって評価を下げないのは、誰もが「あの人はお金持ち」と認めている人間だけで、我ら〝非お金持ち〟が小金――たとえばお茶代をケチれば、〝非お金持ち〟であるがゆえに、
「しみったれ」
 と思われるのである。

 それはさておき、昨日の取材者は女性編集者で、これがなかなか優秀な人だった。

 何が優秀かと言うと、インタビューを「一問一答」で進行しないことだ。

 私も取材記者の経験が長く、また現在は逆に取材を受けることが多くなったが、優秀な記者は「一問一答」をしない。

 会話――すなわちキャッチボールをするのだ。

 質問されて答えるのてはなく、会話のキャッチボールが結果として取材になっている。
 だから楽しく、いろんな話をすることになる次第。

 またカメラマンも優秀だった。

 写真は道場で撮ったが、インタビューの最中に照明などスタンバイを終え、構図も決めていて、ノートパソコンをモニターとして使い、実に手際がいいのである。

 この日のインタビュアーもそうだったが、プロのプロたるユエンは「手際のよさ」にある。
 板前さんの包丁捌きは、見ているだけで気持ちがいいが、それがどういう仕事であれ、プロとしての力量は「手際の巧拙」で決まるのだ。

「あの仕事、どうなっている?」
「終わっています」
 こうでなくてはならないのだ。

投稿者 mukaidani : 04:30

2008年01月09日

人生は、酔っぱらいの綱渡り

 本日、道場内にある仕事部屋の模様替えをした。

 ファックス、コピー、プリンターを1台の複合機に変え、ついでにノートパソコンに変え、それに合わせて机も変え、ついでに資料の整理をした。

 資料整理は〝断行〟である。
「ええい! 取っておいても不要じゃ!」
 片っ端からシュレッダーにかけた。
「ゴミ袋16個よ」
 手伝ってくれた女房が、うんざりした顔で言っていた。

 執筆が遅れてヤバイ状態なのに、
(なあに、環境が変われば一気に書くさ)
 と、嘯(うそぶ)きつつ、1日をつぶしてしまったのである。

 時々、無性に仕事部屋の模様替えをしたくなる。
 たぶん、環境を変えることで、精神的なリセットを無意識に求めているのだろう。

 人間は――現状に問題のある人は別として――基本的に「環境の変化」を好まない。
 馴れた街、馴れた仕事、馴れた人間関係、馴れた配偶者……はどうか知らないが、いずれにせよ、大きな変化は好まない。

 だが――いや、だからこそ「変化」を願望する。
「平々凡々の人生なんか、もうたくさんだ!」
 居酒屋で悪酔いするのは、実は「もうたくさんだ」の現状を変えたくないという「無意識の願望」に対する「無意識の願望」なのである。

 屁理屈みたいたけど、まっ、それが人間ですな。

 国家に統制されていた時代は自由を渇望し、いざ自由を手に入れると、
「人間は、ある程度、縛られているほうが幸せかもしれない」
 などと言い出す。

 独身時代は結婚にあこがれ、いざ結婚すると、
(独りのときはヨカッタナァ)

 かくのごとく、人間はブツブツブツブツ文句を言いながら、酔っぱらいの千鳥足の如く、右に左に蛇行しながら人生街道を歩いていくのだろう。

 問題は、真っ直ぐ〝家〟に帰り着くか、転ぶか、チンピラにブン殴られるか、寝過ごして終点まで行ってしまうか、途中で酔いつぶれるか……。

 ――人生は、酔っぱらいの綱渡り

 いま、ふと脳裏に浮かんだ言葉である。


投稿者 mukaidani : 00:55

2008年01月07日

省エネという〝エコ病〟

 昨夜、鴨川から自宅に帰ってきた。
 外灯を点けていない家が、チラホラ目につく。

 私は、それが気になるのだ。

 ずっと前からそうだ。

 外灯は点けるべきだと思っている。

 外灯を点けることで、町内の通りを明るくし、それが防犯につながると思うからだ。そう思うのは、たぶん、私が保護司であり、地域の住民会議に関係していることも影響しているのだろう。

 で、何年か前のこと。
 女房に、外灯を点けていない家を見て悪口を言うと、
「ご主人が帰ってきたから消したんじゃないの」
 気にとめる様子もない。

「バカ者! 外灯は亭主のためにあるのではない。町内のために点けておくものだ」
「そういう家庭は、電気代がもったいないと思ってるのよ」
「わずかの電気代をケチっておいて、住みよい街もないだろう!」

 ところが、昨夜は違った。
「外灯も点けないでなんだ」
 私がクルマで走りながら非難すると、女房はこう言った。
「省エネでしょ」

 これには、私は二の句が継げなかった。

 省エネ――いま風に言えば「エコ」である。

 そして、エコは〝錦の御旗〟である。
 アイドリングストップからエアコン温度、クールビズまで、すべては「エコ」。

 むろん地球環境問題は人類の緊急課題だ。
 それはわかっている。
 わかっていて、
(でもなァ)
 という危惧がある。

 それは〝魔女狩り〟――「エコ・ファッショ」である。

「向谷の家は外灯を点けているぞ!」
「国賊!」

 石を投げられる時代が遠からず来るかも知れない。

 実際、この私自身が、戦車のようなバカでかいクルマが睥睨(へいげい)するように走っているのを見ると、
(ガソリンを大食いして、そんなことでいいのか!)
 すでに〝エコ病〟に冒されているのだ。

〝エコ病〟が〝エコ・ファッショ〟になっていくのではないか、と危惧するユエンである。

 で、世間はどのくらい〝エコ病〟に冒されているか、私は試しに女房にこう宣言してみた。

「これから我が家は環境第一。エコでいくぞ」
「じゃ、あなたのオナラをやめてちょうだい」
「それはエコ・ファッショだ!」
「何をワケのわかんないこと言ってんのよ」
 ジョークでなく、真顔で言えるところが女の強さか。

 地球環境がどうなろうと、女は――少なくも私の女房は――たくましく生きていくに違いない。

  

投稿者 mukaidani : 04:06

2008年01月06日

朝型+夜型=終日タイプ

 いま、鴨川の仕事部屋。

 年末年始と原稿を書き続けているので、腰も首も肩も悲鳴をあげている。

 机に座ると腰が痛く、コタツに正座して書くと足が痛くなって30分ともたない。うつぶして書くと首が痛くなる。

 要するに、どうにもならないのである。

 20年来、お世話になっている整体治療師さんは売れっ子で、我が家に来てくれるのは1月末。

(こりゃ、もたねぇ)

 てなわけで今朝、徹夜で1本書き上げたところで館山の健康ランドへ。1時間のマッサージを受けて、なんとか人心地ついた次第。

 私は、もともと夜型の人間である。
 週刊誌記者をやっていたせいではないかと思っている。ネタ拾いと称して、盛り場に朝まで浸かっていたし、〆切ギリギリまで取材するため、編集部にあがって原稿を書くのは深夜になる。

 だから夜には強く、週刊誌記者の足を洗っても執筆は夜中だった。

 だが2年くらい前から、これは不健康なことだと思うようになった。
 身体の健康ではない。
 人間の〝在(あ)り様〟として、である。
 日の出とともに活動を始め、日没とともに仕事を終えるのが人間の自然な姿ではないか――そう思ったのである。

 ま、こんな心境の延長に、得度とか畑があるのかもしれないが、そんなわけで2年ほど前から朝型に切り替えた。

 5時起き、6寺起き、7時起きと、いろいろ試行錯誤を繰り返した結果、道場の稽古もあるし健康ランド、スーパー銭湯にも行くので、12時就寝7時起きがベストということで、それを実践している。

 ところが、困ったことが起こるのだ。

 依然として、夜にも強いため、忙しくなると深夜まで仕事する。
 これは、ちっとも苦にならない。
 で、明け方、ベッドに潜り込む。
 ところが、7時には目が覚めてしまうのである。

 脳は、朝型。
 もう眠れない。

 すなわち「朝型+夜型=終日タイプ」――保険プランみたいですが――そんな人間になってしまったのである。

 ならば、もっともっと人生は有意義になっていいはずなのに、凡庸な日々である。
 手話もちっとも上達しないし、空手や古武道の研究も遅々として進まないし、本は〝積ん読〟状態だし、お経の練習も、原稿も捗(はかど)らないでいる。

 そこで悟った。

 時間は「量」ではなく「質」です。
 密度です。
 そして密度は、量を圧縮することで高くなる。
 これを集中力と言うのでしょう。

 と、ここまで書いて、「集中力」については、私が道場で子供たちにいつも注意していることに気がついた。

 いかに自分のことを棚に上げて日々、能書きを言っていることであろうか。

 反省、反省。

 辛抱する木に花が咲くなら、反省する木に何が咲くだろう。

 くだらないことを考えつつ、いま深夜2時である。

  

投稿者 mukaidani : 02:12

2008年01月04日

〝大食い番組〟に、我が煩悩を観る

 正月を迎えて体重が3キロほど増えた。

 元旦夜、スーパー銭湯へ行ってわかった。

 年末、原稿を書いていて腰に負担を感じていたので、そうじゃないかとは思っていたが、現実をつきつけられてガッカリである。

 ガッカリしたのは、〝美的〟な意味や〝健康〟のことを気にしてではない。
 僧籍を得てからというもの、太っているのは何となく食い意地が張っているようで、偏見と知りつつ、みっともないような気がするのだ。

 それで体重を落とした。
 半年かけて70キロを65キロにし、以後1年間というもの、65キロをキープしてきたのである。

 ところが年末、道場が休みになってから、身体を動かすことがなくなった上に、過食をしてしまった。
 仕事が忙しくなると、現状逃避のスイッチが無意識にオンになり、ストレスから過食するようになる。
 わかっていて、過食するのだから、煩悩とは恐ろしいものではないか。

 で、元旦夜のスーパー銭湯。
 体重を少しでも落とすべく、サウナ室に飛び込むと、備えつけのテレビが〝大食い番組〟をやっていた。

 ステーキの大食いバトルである。

 なんとなく嫌な気分になった。

 私の体重が増えたからではない。
 世界の5億5千万人が〝飢え〟に苦しんでいるからではない。
 貧困で、満足に食事を取れない家庭があるからでもない。

 格差社会や、原油の高騰による生活苦を連日報道するテレビ局が、一方で〝飽食〟を笑いのネタにして正月番組をつくる――その節操のなさが、嫌になったのである。

「愛は地球を救う」という言葉は、まさに偽善の極(きわ)みではないか――と、久々に正義漢ぶって腹立たしくなったという次第。

 だが、考えてみれば、このブログでご紹介したように、私は痛風になったのだ。

 世間に言う「贅沢病」である。

 粗食の日々というのは私の都合のいい思い込みで、手帳を見れば、打ち合わせと称する外食がけっこうな数なのである。

 要するに美食。
 それで体重が増えなかったのは、腹一杯食べなかったからだろう。
 飽食――文字どおり、食べるのに飽(あ)きていたのである。

 (〝大食い番組〟を見て嫌な気分になったのは、テレビ局の偽善にではなく、自分の偽善に対する嫌悪だったのではないか)
 昨日、某ホテルで〝豪華なバイキング〟を頬張りながら、ふとそんなことを考えた。
 まさに「言行不一致、我がことを棚に上げ」――。煩悩とは、なるほど厄介なものなのである。

 
 

投稿者 mukaidani : 10:52

2008年01月02日

「しょこたん ぶろぐ」で考えた

 正月2日。
 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いします。

 書きかけの原稿があり、続きを書こうと、今まさにパソコンの前に座ったところ、唐突に「中川翔子」という名前が浮かんできた。

「ブログの女王」と呼ばれていることはもちろん知っていたが、これまで彼女のブログを読んだことがなく、前々からアクセスしてみようと思いつつ、それっきりになっていたのである。

 ブログ人気の秘密はいったい何か。
(参考になるところがあればマネしよう)
 なんてスケベ心でアクセスして、ひっくり返りそうになった。

 身辺雑記の短文に (゜∀゜)(゜∀゜)(゜∀゜)(゜ω゜)トゥットゥルー――こんな文字とフレーズが躍っているではないか。

 しばし、腕を組んで考えた。

 楽しいブログだ。

 楽しいブログではあるが、
(わしには、とてもついて行けん)
 それが腕を組んで考えた結論であった。

 参考になるどころか、「ブログの女王」のブログを前に、私は時代に取り残されていくような寂寞たる気分に襲われたのである。

 だが、立ち直りも早い。
(ついて行けんものは、ついて行かんでもええんじゃ!)
 わしには、わしの書き方があるけん――と、〝あんたが大将〟の悪いクセが顔を出す。
 立ち直りではなく、居直りである。

 すでに1年以上も前から、友人で、武道家でもある沖縄在住の書家・玉城芳岳先生と、私のこのHPでコラボレーションをやる計画がある。
 玉城先生が「書(文字)」を書き、それに私が独断と偏見で詩的な一文を記すという趣向だ。「夢」とか「道」とか、重厚で素敵な文字をすでに頂戴しているが、私が怠けて文章をつけないでいる。

 これをそろそろ本気でやってみようかと思う。
 単文といっても、これは結構、腕力がいるだろうが、もしスタートに漕ぎつけたとしたら、それはひとえに「ブログの女王」のブログを読み、ついていけないと悟ったことによるのだ。

投稿者 mukaidani : 19:32