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2007年11月27日

「お経」と「吸気」と「小欲」と

 お経を称えていると、途中で息があがることがある。
 これではマズい。
 で、どうすれば瞬時に大量の空気を吸うことができるか試してみた結果、逆複式呼吸が一番適しているのではないか、という結論に達した。単に息を吸うだけなら複式呼吸がいいのだが、発声ということになれば逆複式のほうが具合がいいのだ。

 ところが、うまくいかないのである。
 大量に息を吸えるのだが、やっぱり息があがる。
 いや、逆複式呼吸にしたほうが、より早く息があがるのだ。

(吸い方が足りないのか?)
 そう思い、吸気音を鳴らし、大口を開けて大量に吸い込むのだが、ますます息苦しくなるのである。

 で、ハタと気がついた。
(吸い過ぎではないのか?)

 吸うことばかりに気を取られて、吐くことがおろそかになっているのだ。
 だから、苦しくなる。
 空手の演舞で、緊張すると息を吐くことを忘れ、結果、息があがる。それと同じではないか、と思ったのである。

 それで今度は、ほどほどに吸い、声を大にして称えると、実にスムーズにいくのである。
 つまり、「吸おう、吸おう」と〝欲〟をかくあまり、逆に苦しくなっていたという次第。

「人生も、それと同じだ」
 と書けば、クサイ話になってしまうが、でも本当だね。
 欲をかきすぎて苦しむ人間はいても、小欲であるために苦しむ人間はいないもの。

投稿者 mukaidani : 19:42

2007年11月25日

「こども教育委員会」に思う

 AC公共広告機構で、「こども教育委員会」なるキャンペーンが展開されている。

「うちのお母さんは
テレビとか見ているときに話しかけると、
なんか返事とかしなくて、もっとちゃんと聞いてほしい」

「パパがいつもお仕事に行っちゃって、
一緒にキャッチボールしようと思ってもできない」

「ちゃんとご飯作ってくれれば、
夜ご飯も楽しくなるのかなぁって思う」

「ウソついたら駄目だよとか言うくせしてさぁ、
自分たちが一番うウソいてる」

 子供が登場して、親を批判したり注文つけたりするCMのようなやつだ。

 私は最初、微笑ましく見ていた。
 耳も痛くて、
(そうだよな、大人って身勝手だよなァ)
 頭をかきたい気分だった。

 でも、最近は首を傾げるようになった。

 このキャンペーンの意図は、AC公共広告機構のホームページを見ると、
《今、子どもたちは親に対してどんな悩みを持っているだろうか。子どもたちのその「生の声」が聞けたら、きっと親子のコミュニケーションはうまくいくはず。そんな思いで企画された作品です》
 とある。

 意図はよくわかるし、それには大賛成だが、私がこのキャンペーンに、
(しかしァ)
 と首を傾げるのは、子供たちの発言が「こうして欲しい」という自分たちの欲求と、「親(大人)批判」の2つだけで構成されているからだ。

 私としては、親に対して「ありがとう」という感謝の言葉を入れたほうが効果的ではないのか、と思うのだ。

「でも、ボクはそんなお父さん(お母さん)が好きだ」という一語が、どこかにあれば、大人の気持ちはなごみ、そんな子供がいとおしくなり、子供の批判により耳を傾けるのではないか。

 いまの時代は、我が身を棚に上げて他人や世間の批判ばかりをする。そんな時代だからこそ、「感謝」や「思いやり」の言葉が視聴者の心に響くのではないと私は思うのである。

「お父さんて、身勝手だ」
 と批判されれば、
「なに言ってやがる!」
 と反論の気持ちが起こってくるが、
「お父さんて、身勝手だ。でも、ボクはお父さんが好きだ」
 と言われればどうだろう。

(そうかもな)
 と素直に我が身を振り返るのではないか。

 人間は結局、感情の生き物なのである。   

投稿者 mukaidani : 07:51

2007年11月21日

「自信」は持つもの、「結果」は出すもの

 このところ、私の空手道場に入門希望者が多い。

 ほとんどが小学生で、「しっかりした子に育てたい」と、親御さんは口をそろえる。

 武道は「子育て」にとても有用だと思う。
 その理由をひとことで言えば、武道は「格闘術」を「道」にまで昇華したものであるからだ。すなわち、武道の根底には死生観があり、そこから「生」を照射するところに素晴らしさがある。

 ひらたく言えば、殴ったり蹴ったりと、相手をやっつける稽古をする一方で、「人にやさしくあれ」と教えるわけである。矛盾に見えるが、「死」があるから「生」が理解できるのと同様だと思っていただければいいだろう。
 この矛盾の同時成立こそ、武道の真髄であり、素晴らしさなのである。

 理屈はともかく、子供を連れて見学に来る親御さんに、一つの共通項があることに気がついた。

「ウチの子、続くでしょうか」
 こんな質問が、必ずといっていいほど出てくる。

 辛辣な言い方をすれば、私は、ここに親の弱さを見る。
 すなわち、「続くか否か」という〝結果〟を先に考え、その〝結果〟から遡って、入門するかどうかを決めようとする。「当たるなら、宝クジを買う」という思考であることに、親御さんたちは気づいていない。

 仕事も、勉強も、いや人生そのものにおいて、〝結果〟など予測はできないだ。
「うまくいくだろうか」
 と、あたかも〝結果〟が勝手に出てくるように考えるのは、〝傍観者〟の発想なのである。

 結果は「出るもの」ではなく、自分で「出すもの」なのだ。

 したがって、道場に見学に来る親御さんは、「続くかどうか」を館長の私に問うのではなく、「続ける覚悟があるかどうか」を我が子に問うべきであり、こういう親の姿勢が、我が子を強く育てると私は思っている。

「自信」も同様だ。
 コトに臨んで、ムクムクと腹の底から自信がわき起こってくれば結構なことだが、現実はそうはならない。不安を抱く自分が情けなくなる。「自信はわいてくるもの」と間違った思い込みをしているから、いつまでも不安を引きずるのだ。

 自信はわき起こってくるのではなく、「持つもの」なのだ。
「よし、やるぞ!」
 強がりでもいいから、自分を奮い立たせてみるがいい。
 不安を引きずりつつも、奮い立った結果を「自信」と呼ぶのだ。

投稿者 mukaidani : 15:59

2007年11月19日

福田訪米と「主権なき日本」

 福田首相は、アメリカへ何しに行ったのだろうか。

 周知のように、拉致問題について、「制裁解除の中止」をブッシュ大統領に談判することなく帰ってきた。

 このことについて、メディアは失望と批判的な記事を掲載したが、私が理解できないでいるのは、
「なぜ福田首相は談判しなかったのか」
 ということである。
 メディアは「談判しなかったこと」を報じてはいても、「なぜ談判しなかったのか」という理由については触れていないのだ。

 福田政治の本質は、まさにこの一点にあると、私は考える。

 制裁解除中止に触れなかった理由は、以下の3つの仮定が考えられる。
 ①双方の事務レベルで、「談判」しないよう打ち合わせができていた。
 ②福田首相はブッシュ大統領に申し入れたが、それについては双方とも、公表を差し控えた。
 ③福田首相が、ブッシュに拒絶されるのを恐れて、曖昧な言い方しかしなかった。

 そのいずれであるのか、メディアは取材し、報道すべき義務があると思うが、どうだろう。

 拉致問題とは、「日本国民が、北朝鮮の工作員によって、日本国内から暴力で連れ去られた事件」なのだ。
「同朋を帰せ!」
 と談判し、謝罪させ、制裁を加えるのが当然ではないか。

 もし同様の事件がアメリカで起これば、ブッシュ大統領――いやアメリカ世論はどうだろうか。間違いなく戦争だ。イラク戦争を見ればわかるではないか。「民主主義を守る」という理由だけで、攻め込んだのだ。自国民が拉致されて黙っているわけがない。

 しかるに、なぜ日本政府は指をくわえて黙っているのか。

 こういう意見に対して、福田首相は、きっとこう言うだろう。
「政治はそう簡単じゃないんです。北朝鮮と戦争になったらどうするんですか。大変な犠牲者が出ますよ。それでもいいんですか」
 だから話し合いが大事だ、と。

 だが、どう言い繕ってみても、これは「負け犬の論理」なのだ。

 こんな例を考えてみれば、わかる。
「いま会社の不正を追及して、会社そのものが潰れたらどうするんだ。事態の推移をよく見極めて対処する必要がある」
「相手が悪いのはわかっている。でも、それを批判して問題がこじれたらどうするんだ。ここは辛抱して、慎重に事を運ぶべきだ」

 要するに、もっともらしい理由をくっつけて、問題を先送りをしているだけなのである。

 北朝鮮と戦争をすべきだと言っているのではない。
 それだけの覚悟なくして、主権は守れないと言っているのだ。
 歴史を見るがいい。
 主権なき国家は、戦争以上の犠牲を強いられるのである。

 福田首相はなぜ、拉致解除中止の談判をしなかったのか。
 この一点に、福田政治の本質があるとするユエンである。

投稿者 mukaidani : 16:35

2007年11月17日

築地本願寺で帰敬式

 昨日、築地本願寺で、親父と女房が帰敬式(ききょうしき)を受けてきた。

 帰敬式とは、浄土真宗で行われるもので、仏弟子となるための儀式だ。得度(僧侶になる)とは違うが、法名(他宗派の戒名にあたる)が授与される。

 私も二人について築地本願寺に行った。
 帰敬式は本堂で厳かに始まったが、一般席に座っていた私は、あっちキョロキョロ、こっちキョロキョロ。僧侶たちの袈裟の着こなし、念珠の持ち方、合掌の仕方……等々、いい機会とばかり参考に見ていたからである。

 法話もしかり。
 話の内容より、講師の話し方――目線、声のトーン、身振り、間の取り方など、〝本題〟と関係のないことばかり考えていた。
(オレは〝駆け出し坊主〟なんだから、それもしょうがねぇよな)
 と苦笑したが、ふとこれと同様のことをしている自分に気がついた。

 書籍である。
 小説にしろハウツー本にしろ、読んでいると、内容を楽しむよりも「書き方」のほうが気になってくるのだ。

(ウーム、伏線の張り方が見事だ)
(このセリフ、うまい!)
(アホなこと書いとるな)

「書き方」について、感心したり貶(けな)したりで、ちっとも内容を味わうことができない。

 だから本を読むと疲れるので、資料本のほかは、まず読むことがない。

 だが、考えてみれば、築地本願寺でキョロキョロしていた自分と同じではないか?  つまり、物書きとして未熟だから、内容よりも「書き方」に関心が行くのではないか?

(そんなことじゃいかん!)
 と、自分を叱責しつつ、
(きっと親鸞聖人が、そのことを気づかせてくださり、もっといいものを書けと励ましてくださったに違いない)
 と、自分に都合よく解釈しながら、築地本願寺をあとにした次第。

 余談ながら、今朝、例によって親父と女房と私と三人で畑に行ったが、法名を授かったことで、親父も女房も表情が晴れ晴れとしている。死ねば法名(他宗派では戒名)がつくが、生前にその「ゴール」を見据えたせいだろう。
 帰敬式の功徳である。

 


 

投稿者 mukaidani : 20:15

2007年11月14日

敵は本能寺

 整体師に、月に2度ほど来てもらっている。

 女性だが、かつての空手仲間で、世話になって十余年になろうか。

 これだけ長く世話になっていると、私の身体に手を当てるだけで、
「〆切が続いてるの?」
 と、疲れ具合がすぐにわかる。
 治療と言うより、「転ばぬ先の杖」でお世話になっている。

 で、先日のこと。
 ヒジが痛くなったので、そのことを告げると、手首を引っ張って伸ばし始めた。
「痛いのはヒジだけど?」
 私が言うと、
「わかってるわよ。空手の突きをやってると、手首が詰まるからね。それがヒジにくるのよ」

 なるほど、と思った。
「敵は本能寺」――つまり本当の目的(元凶)は別のところにあるというわけで、身体の不具合も、私たちの社会生活も同じなんだと納得した。

「キミの将来を心配するから叱るんだ」
 なんて、部下を説教するときによく聞くセリフだが、「敵は本能寺」。心配しているのは「キミの将来」ではなく、「自分の管理能力に対する評価」なのである。

「勉強しなさい!」
 なんてセリフも同じで、人生、すべからく「敵は本能寺」という次第。
「本能寺を攻めよ!」
 と言われたら、
(ちょっと待てよ)
 と考えること。
 これを「本質を見抜く」というのだ。

 で、昨日。
 カミさんが、道場の物置を片づけていて、
「あッ!」
 と叫んだ。
「どうした?」
「片方のピアスを飛ばしちゃったのよ」
 ダイヤのピアスだとかで、物置にしゃがみこんで熱心に探しているが見つからない。
「そんなところにはない」
 私が、おごそかに告げる。
「えッ?」
「敵は本能寺――」
「……?」
「世の中すべて〝本能寺〟。つまり、ピアス意外なところに飛んでいるということだな」
「どこにあるの?」
「それはわからんが、〝敵は本能寺〟……」
「いい加減にしてよ!」

「敵は本能寺」と言うは易く、本質を見抜くのは、実に難事なのである。

投稿者 mukaidani : 16:28

2007年11月11日

「光陰矢の如し」の感慨

 今日は午後1時から、世界空手道連盟「士道館」・添野義二館長の還暦祝いが、有明ワシントンホテルであった。
 添野館長の人徳で、各界から多数の人がお祝いに駆けつけ、大盛況であった。

 記憶をたどると、私が添野館長と知り合ったのは1981年だから、26年のお付き合いになる。当時、添野館長は34歳で、私は31歳。若かった。以来、いろんな思い出があるが、添野館長と握手しながら、つくづく光陰は矢の如しであるという感慨を抱いた。

 最近、月日が経つのが早く感じられる。
 そのせいか、人生の〝表舞台〟から身を引く年齢をいくつにするか、このところ考えている。60歳なら、あと2年。65歳なら7年。欲をかいて70歳としても、あと12年である。

 だが添野館長と知り合って26年があっという間に過ぎたことを思えば、7年、10年など、まさに「矢の如く」過ぎ去るだろう。

「山あり、谷あり、トンネルあり」とは、添野館長が半生を振り返った謝辞の中の言葉だが、私の半生にも、山もあれば谷もトンネルもある。

 だが、人生を引き算で考える年齢になると、山や谷に一喜一憂することの無意味さをつくづく感じる。

 まさに「光陰矢の如し」――今日、還暦祝いの帰りのクルマのなかで、この言葉の持つ意味を噛みしめた次第。

 

投稿者 mukaidani : 17:01

2007年11月08日

小沢一郎の豹変は「君子」か「ヤクザ」か

「君子は豹変す」――よく知られた諺だ。
 意味は、 君子(立派な人)は、過ちを犯してもすぐに改めることから転じて、「人が性行や態度などをガラリと変えること」を言う。

 ちなみに「豹変」は、豹の柄をもじったもので、豹の黄と黒の斑紋がハッキリと浮かび上がっているようにガラリと一変することをたとえたものだ。

 そこで、民主党の小沢一郎代表である。
「唐突な辞任会見」と「一夜で撤回」は、果たして「君子の豹変」か否か。

 と言うのも、豹変は「君子」だけでなく「ヤクザ」もするからである。

 こんな例がある。
 商店主のAさんが地元のヤクザ兄ィと親しくなり、一緒に飲む仲になった。
 で、いつものように、お互い軽口を叩きながら飲んでいたところが、
「何だと! もういっぺん言ってみろ!」
 兄ィがいきなり〝豹変〟した。
「な、何か気にさわるようなことを言ったのなら……」
「バッキャロー! 何かじゃねぇだろ! この野郎! ナメた口ききゃがって頭くるぜ! テメエ、わかってんのか!」
 怒声を浴びせ、Aさんは事情がわからず、ただオロオロしてあやまり続けたのである。

 ヤクザが〝豹変〟する一例だが、彼らが豹変する原因の多くは、「ナメられた」と感じたときだ。

 Aさんのケースで言えば、「へぇ、そうなんだ」「結構やるじゃん」「よく言うよ」――親しみを込めた相槌であっても、カタギの〝タメ口〟は、ヤクザにしてみればナメられていることになる。
 相手の狎(な)れを放っておくと、本当にナメてかかるようになる。ヤクザがナメられたら渡世は張れない。

 だから兄ィは、
「何だと! もういっぺん言ってみろ!」
 わざと〝豹変〟して見せ、
(忘れんなよ、オレはヤクザだぜ。怖いんだぜ)
 ということをAさんに再認識させたという次第。

 Aさんは、豹変した兄ィの態度にコトの重大さを悟り、
(この人と口きくときは気をつけなくては大変なことになる)
 と、超えてはならない一線を改めて思い知らされることになったのだ。

 小沢一郎はどうか。
「バカ野郎! てめぇら、オレの言うことが聞けねぇなら、代表なんか辞めてやる!」
「エエエ――ッ! お願いです、辞めないでください! これ、このとおり土下座でも何でもしますから、辞めないでください!」
 ナメんなよ――と豹変して不意をつくから、民主党執行部は浮き足立ち、何だかよくわからないまま、「やめないでコール」になってしまうのである。

 小沢一郎のこの豹変は「君子」か「ヤクザの恫喝」か。
 
 諸賢はどう思われるだろうか。

投稿者 mukaidani : 23:33

2007年11月06日

〝壊し屋〟は結局、壊すのだ(続)

小沢一郎についてブログを書き終え、道場から帰宅してテレビをつけると、〝小沢辞意撤回〟のニュースである。
 で、先ほどHPにアップした「〝壊し屋〟は結局、壊すのだ」というブログの続編を、急きょ書く(前ブログ
を参照されたし)。

 辞意撤回について、小沢代表は、 
「本当に恥をさらすようだが、みなさんの意向を受けてぜひ、もう一度がんばりたい」
 と言っているとの報道だ。

 だが、どう言いつくろってみたところで、茶番であることに変わりはない。
「小沢がいったん口にしたことだ。撤回などするわけがない」
 これが小沢評ではなかったか。

 小沢代表は辞任すべきだった。
 辞任を貫いてこそ「剛腕」であり、剛腕であり続ける限り、浮かぶ瀬もある。
 前言撤回することを「変節」と言い、変節して晩節をまっとうした男はいないのだ。

 繰り返す。
 タカはハトの真似をしても、結局、タカに変わりがないのだ。

 だから、遠からず小沢は民主党を壊す。
 いや、今回の一件で、民主党はすでに壊れつつあるのだ。
 小沢に、もはや求心力はない。
 民主党に、参院選前のような国民の信頼はない。

 小沢一郎にも、青い顔して慰留した民主党執行部にもガッカリである。

投稿者 mukaidani : 23:26

〝壊し屋〟は結局、壊すのである

 民主党・小沢一郎代表の辞任記者会見を、諏訪温泉で見た。

(結局、その人間の本質は一生、変わらないのだ)
 と湯船に浸かりながら思った。

〝壊し屋〟は結局、〝壊し屋〟なのだ。
 タカは、ハトのふりはできてもハトにはなれないし、ハトもまた、タカにはなれないのだ。

 是非ではない。
 タカはタカとしての人生を歩めばいいし、ハトはハトとしての人生を歩めばいいのだ。それが〝天地の理〟に叶なったことであるにもかかわらず、状況に応じてハトのふりをしたり、タカのふりをしたりする。
 だから最後の最後になって、辻つまが合わなくなるのである。

〝合わぬ辻つま〟を合わせようとすれば、そこに無理が生じるのは自明である。それを民主党の面々が知らなかったとしたらマヌケであり、知っていて小沢を代表に担いだのだとしたら、天にツバしたことになる。

 湯船に浸かりながらそんなことを思っていると、眼下に広がる諏訪湖の彼方に夕陽が沈んでいく。曇っていて太陽は見えないが、雲の合間から差す弱光でそうとわかる。

 私は沈む夕陽が好きだ。

 正月に初日の出を見るのをやめて十数年になるだろうか。

 ある年の暮、ふと思ったのだ。
(みんな新年の初日の出を拝むけど、大晦日の沈む夕陽にこそ、一年の感謝をすべきではないか?)

 友人や家族はヘソ曲がりと言うけれど、以来、私は沈む夕陽のファンになったという次第。

 そのデンでいけば、私は民主党のファンにならなくてはいけない――と言ったのでは、イヤみになるか。
  風呂に入っていると、いろんな思いがめぐるのである。
 

投稿者 mukaidani : 21:02

2007年11月03日

温泉と紅葉と、人生の休息

 日曜日から2泊3日で長野県の諏訪温泉へ行く。

 温泉と紅葉見物である。

 なぜ諏訪なのかと言えば、理由はない。

 気まぐれである。

 私が仕事部屋を借りている房総半島の鴨川は、背後に養老渓谷を控え、ここの紅葉は見事で、多くの観光客でにぎわう。昨年の私は、養老温泉の旅館に〝日帰り入浴〟し、湯船から紅葉を楽しんだ。

 ならば、今年も仕事場に行ったついでに、近場の養老渓谷へ行けば、お金もかからず、温泉も紅葉も堪能できるのだが、それがわかっていながら諏訪へ行く。

 気まぐれな人生は、お金がかかるのだ。

 と、ここまで書いて、「お金」から「ケチ」ということを連想した。温泉と紅葉について書くつもりだったが、気が変わった。
 ブログも人生同様、気まぐれなのだ。

 で、ケチについて――。

「ケチ」とは、どういう意味か。
 いざ問われると、意外に説明できないものである。
 辞書を引いてみると、
《しみったれ。必要以上に物を惜しがること。そのような人》
 とある。

 要するに、「出すべきお金さえも、惜しむ人間」ということになろうか。

 仲間と飲みに行って、
「細かいのないから、今度でいい?」
 と言って割り勘をパスする〝ちゃっかり屋〟。

 毎度、奢ってもらっていながら、
「いくら? いいの? いつも悪いな」
 と言いながら、ケロリとしている口先男。

 先輩後輩、上司部下の関係ならともかく、仲間内でケチをすると、人格まで疑われることになる。

 一方、同類の言葉に「節約」がある。
 これの意味は、
《ムダを省いて切り詰めること》
 と辞書にある。

 ケチとは違って、ムダを省くことに主眼があり、美徳と言っていいだろう。 こういう人間は信用を得る。
「ケチ」と「節約」は、ともに財布のヒモは固いが、その精神たるや、似て非なるもで、ケチは財布のヒモを閉めることによって、「信用」という〝人生の財産〟まで閉め出していることに気がつかないのである。

 で、私はどうか。
 ケチではないと思っている。
 だが、節約も苦手である。

 つまり、ただの浪費家。

 お金は命の次に大事なものだけに、そのつかい方には全人格が現れるとされる。

(自分はお金だけでなく、人生も浪費しているのではないか?)

 ふと、そんなことを思った。

 温泉に浸かって紅葉を愛でることは、「人生の休息」なのか、あるいは「お金と時間の浪費」なのか。

 仕事で多忙な人は「休息」、ヒマ人は「浪費」とするなら、物書きという商売がら、「年中無休」にして「年中営業中」の私はどうなるのか。

 素直に楽しんでくればいいとわかっていなから、ヘソ曲がりの私は、単純なことを、あえて難しく考えるのである。

投稿者 mukaidani : 23:31

2007年11月01日

お経と、声のかすれ

 一夜明けたら、声がかすれていた。
 ノドが痛い。
 ガラガラ声である。
 声を出そうとしても、声帯が震えないのだ。

(お経の練習をやり過ぎたせいだな)

 私はうれしくなった。

 達成感である。
 よくぞそこまで努力したものだ、という満足感である。

 いま一度、ガラガラ声で、お経をうなってみる。
 声が出ない。
 いいねぇ。

 ところが、しばらくして鼻水がスーッと垂れてきた。
 続いて大きなクシャミ。
 頭も痛くなってきた。

 なんのことはない、風邪を引いたのである。

 お経の練習とは関係なし。

 ガックリきて、ブログを書く気力も失せてしまった。

 いま午前九時。
 昼間で寝て、午後から健康ランドへ行くか。
 いつもの逆療法である。
 今日は少し遠く――自宅からクルマで40分ほどの施設しよう。
 湯船から眺める景色がいいのだ。

     

投稿者 mukaidani : 09:08