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2007年09月28日

時津風リンチ事件と理事長の責任

 時津風部屋の力士・斉藤俊君が亡くなった。
 
 時津風親方がビール瓶で額を殴る一方、兄弟子が暴行を加えたという。

  こんな大相撲のどこが「国技」だというのか。
 お父さんが流す無念の涙を見て、怒りが腹の底からこみ上げてきた。

 30年ほど前と古い話になるが、私が週刊ポストの記者をやっていた当時、「大相撲の八百長疑惑キャンペーン」の取材を担当したことがある。

 当時、理事長だった春日親方は、私に、
「おまえらしつこいが、相撲取りに女でも盗られたのか!」
 と、暴言を吐いたことがある。
 九州場所でのことだった。
 協会トップのこの稚拙な発言に、私は怒りを通り越してあきれたものだ。

 朝青龍の対応でもわかったように、相撲協会は所詮、そんな程度の知性なのである。

 相撲協会は、リンチが立件され逮捕に至れば、時津風親方を解雇すると言う。
 刑事被告人になるのだから当然だ。
 ならば北の湖理事長以下、協会幹部はどう責任を取るのか。
 将来ある若者を殺したのだ。
 協会トップの責任は万死に値しよう。

 協会だけではない。
 横綱審議会はどう対応するのか。相撲中継をするNHKはどう対応するのか、相撲協会を所管する文部科学省はどう対応するのか――。
 亡くなった斉藤君のためにも、しかと見届けたい。

投稿者 mukaidani : 13:05

2007年09月24日

畑と審査会と自民党四役

 昨日、畑に行った。
 今年は水菜、冬瓜(とうがん)、地這えキューリ、カボチャなどの出来がよかったが、トマト、ナス、ニンジンがよくなかった。

 不作の野菜に対しては、「来年はもう植えないから」と毒づき、豊作のそれに対しては「いいねぇ」と、ニコニコ笑顔。浅ましいのは私だけでなく、一緒に行ったオヤジもカミさんも同じであった。

 そして、自分が作った野菜が食卓に上がると、
「やっぱ、うまいねぇ」
 と、親バカならぬ「作りバカ」になってしまうのである。

 ところが、「やっぱ、うまいねぇ」も毎日になるとウンザリしてくる。
「また冬瓜かよ」
「しょうがないでしょ。まだまだ沢山あるんだから、しっかり食べてよ」
「オヤジに食わせろよ」
「お爺ちゃんだって残してるわよ」
 カミさんの不機嫌な声。冬瓜がキューリになったり、ナスになったりするだけで、同じ会話になる。
 我がことながら、人間、身勝手なものだ。

 本日は道場の秋期審査会だった。
 幼児・小学生70名ほどが受審したが、上手な子もいれば、思わず頭を抱えるような子もいる。
「うまくならねぇな」
 夜、自宅で私がこぼすと、
「誰が教えてるの」
 カミさんが鋭くツッコミを入れてくる。

 そう、指導者は私。
 子供たちが上達しないのは、彼らが悪いのではない。責任は私にあるのだ。

 今日、自民党三役が決まった。
 古賀氏を選対委員長にし、これから「党四役」と呼ぶそうだ。
「古い派閥体質にもどった」との批判があれば、「重厚な布陣」との評価もある。

 いずれにせよ、自民党は末期的症状を呈している。
 誰が悪いのでもない。
 責任は自民党自身にあるのだ。
 

投稿者 mukaidani : 22:40

2007年09月21日

「未成年の飲酒」がニュースになる愚かさ

 驚いた。
 悪い冗談だと思った。
『八千代高女子柔道部 顧問の教師を厳重注意』という記事である。

 去る7月、千葉県立八千代高・女子柔道部のインターハイ出場が決まり、激励会が船橋市内のホテルで開かれたときのこと。顧問(男性教諭)が会場で今年3月に卒業した元部員(未成年)にビールを飲ませ、けしからん――という内容だ。

 保護者が学校に指摘してわかったそうで、
「二度と同じことがないように指導していく」
 という校長のコメントが載っている。

 なるほど、未成年にビールを飲ませたのは――厳密に言えば――よくない。
 ならば、大学の新入生歓迎コンパはどうなる。
 日本全国、ン千、ン万のサークルで、未成年が賑やかに飲んでいるのだ。

 高校教諭という立場上、ビールをついだのがマズイというなら、大学の新歓コンパはどうだ。顧問はたいてい教授、助教授クラスで、彼らが未成年に酌をしているのである。

 私は、高校を卒業した「未成年」にビールをついだことはよくないとしても、それがわざわざニュースとして報じられること自体を憂う。

 教育現場を見るがいい。

 かわいそうに、神戸の私立高校で、いじめを苦に校舎から飛び降りて自殺しているではないか。
 いじめによる自殺があとをたたないではないか。

 この現実を、私たちはどう受け止めるのか。
 学校は、教師は、保護者はいったいに何をしているのか。
 メディアは何をしているのか。

 高校を卒業した「大人」にビールをついだことをあげつらい、校長、教諭に謝らせることよりも、メディアはもっとほかにやるべき急務があるのではないか。

 そして、親だ。 
 教師に「教育」を求める一方で、体罰がいけない、差別がいけない――と、親は権利を主張し、メディアもそれを後押しする。教師の手足をがんじがらめに縛っておいて、「さあ、走れ」とケツを叩き、走らないと言って非難するのである。

 それでいいのだろうか。
 
 教育の荒廃は、親にあると私は思う。
 社会にあると思う。
 新歓コンパの一方で、卒業生にビールをついだ教師がニュースとなり、非難される社会が、果たして健全と言えるのだろうか。
 私は首を傾げるばかりである。

投稿者 mukaidani : 05:58

2007年09月19日

「政治家の演説」と「自己責任」

 自民党総裁選は、デキの悪い茶番劇である。

「拉致問題は、私の手で解決したい」――福田候補のこの発言を聞いて、そう思った。

「したい」と願望を言っているだけであって、「する」とは言わないのだ。

 なるほど諸般の事情で、それが実現できない場合もあるだろう。だから「する」とは言い切れないかもしれない。

 だが、「できなかった場合、私は責任を取ります」ということなら明言できる。自分のことだから、「腹を切ります」と言い切れる。「土下座して国民のみなさまにお詫びします」と言い切れるのだ。

 ところが福田候補は「したい」と言うだけで、自己責任については一切の公言をしない。だから茶番であり、卑怯であると、私は思うのだ。

 似た言葉に「全力を尽くす」というのがある。

「できるか?」
「全力を尽くします」
「よし、頼んだぞ」

 こんな具合だ。

 だが、「全力を尽くす」は、答えになっていないのだ。
「できるか?」
 と問うているのだから、返事は「できる」「できない」でなれけばならないのだが、それをシカトして、「全力をつくします」という言葉でごまかしているのだ。
「全力をつくす」と言えば聞こえがいいが、要するに「結果については関知せず」ということなのである。

 これまで国政選挙のたびに、候補者たちは「国民の幸せ」を公約する。ならば、私たちはとっくに幸せになっていなければならないに、現実はどうだろうか。

 政治家が悪いのではない。
 選ぶ私たちに責任があるのだ。
 

投稿者 mukaidani : 12:36

2007年09月15日

「麻生発言」で考える「言葉と感情」

 昨夜、空手の稽古が終わってから、近所の健康ランドへ行った。

 たいていノートパソコンを持参し、ひと風呂浴びてから、休憩室で仕事をするのだ。

 湯船に手足を長々と伸ばすと、気分もゆったりで、
(さあ、やるぞ)
 と気力が充実してくるのがわかる。

 サウナ室で汗をしたたらせていると、汗と一緒にアイデアが出てくる。〝湯水のごとく〟ではなく、〝汗のごとく〟湧いてくるのだ。私にとって温泉や健康ランドは、仕事に欠かせぬ良きパートナーなのである。

 で、昨夜の健康ランド。
 いつものように湯船に手足を長々と伸ばし、気力を充実させてから、サウナ室に入った。
 一昨日、河出書房新社の原稿を脱稿したので、11月20日〆切になっている時代小説のストーリーを練るつもりだった。

 ところが、サウナ室に入ると、テレビは自民党総裁選の番組をやっていて、客のみんなが熱心に見入っている。
 私もテレビに引き込まれてしまう。
 他人のケンカと同じで、政争は見ていて面白いのだ。

(ウーム……)
 と腕を組んで見入っていると、頭は〝時代小説モード〟とはほど遠く、出るのは汗ばかりで、アイデアはまったく出てこなかったが、評論家の指摘に、
(ナルホド)
 と感じ入ったことがあった。

 それは、麻生さん有利の局面が一転、雪崩を打つように福田さんでまとまった背景として、麻生さんの発言――すなわち「小泉さんが自民党をぶっ壊したんだから、我々はそれを修復しなければならない」――という一言にあり、これに小泉さんがカチンときて積極的に福田支援にまわった、というわけである。

 なぜ、この指摘に私が「ナルホド」と思ったかと言えば、
「当たり前のことであっても、それを口にすると、人間関係においてトラブルになる」
 ということを再認識したからである。

 周知のように、麻生さんは「反小泉」のシンボルだった平沼氏を復党させ、小泉改革路線からの転換を鮮明にしようとした。
 その麻生さんが「小泉さんに壊された自民党を修復させる」と発言するのは、当たり前のことなのだ。

 当たり前にもかかわらず、これに小泉さんが怒った――とされる。

 ここが人間心理の面白さだと、私は思ったのである。

 たとえば、客観的に見てブ男に、
「おい、ブ男!」
 と言うと、怒る。

「なんで怒るんだ、ホントのことじゃないか」
 と言えば、もっと怒る。

 つまりホントであっても、本音であっても、そうであると相手が承知していても、いざ言葉として発せられればトラブルになる、と言うわけである。

 ことほどさように、「言葉」とは重いものだ。

 人間が「言葉の生き物」と言われるのは、「言語でコミュニケーションを図る」という機能的な意味よりもむしろ、「言葉をどう発するかによって、良好な関係になったり、険悪な関係になったりする」と、私は解釈するのである。

「おまえ、いいヤツだけど、バカだな」
 と言われるのと、
「おまえ、バカだけど、いいヤツだな」
 と言われるのとでは、受け取り方はまるっきり変わってくる。
 これが言葉の面白さであり、怖さだと、サウナ室で総裁選のテレビを見ながら思った次第。

 そんなわけで、番組がなかなか終わらず、汗はいつも以上に出たが、ストーリーのアイデアはまったく出てこないまま、ノートパソコンを起動することなく帰宅したというわである。

投稿者 mukaidani : 20:39

2007年09月14日

嫌な世の中になってきた

 私は、安倍首相が嫌いではない。

 なるほど、所信表明だけしておいて政権を放り出したのだから、これは無責任と言われても仕方がない。

 だが、それでも私は彼が憎めない。

 安倍首相は善人なのだ。
 善人ゆえ、寄ってたかって荷物を全部背負わされ、その重みに耐えかねて、ヘタリ込んだのである。

 それを無責任と言うなら、その通りだろう。
 だが、善人に首相が務まらない国が果たして健全なのだろうか。
 青臭いことであると承知しながらも、私はそのことを憂うのである。

 自民党の総裁選がスタートした。
 候補者たちも、長老も、小泉チルドレンも、そして自民党を批判する小沢一郎ら民主党の面々も、みんな〝我田引水〟。勝手なことを言っている。

 そんな彼らに、日本の将来をまかせておいていいのだろうか。
 嫌な世のなかになってきたと、つくづく思う。

 木の葉が沈んで、石が浮く――そんな思いを抱くのだ。

投稿者 mukaidani : 04:51

2007年09月10日

世俗にあってこその「晴耕雨読」

 3日に1回のペースでブログを更新するつもりでいるのだが、先週は我が昇空館の合宿が河口湖であるなど、瞬く間に1週間が過ぎた。

 多忙を理由として、流され行く日々に反省しきりである。

 おかげで原稿も押せ押せで、いま2時間ほど仮眠を取ろうとしたが、気が急いて眠ってもいられず、30分で飛び起きた次第。ハウツーから仏教、歴史、時代小説と、節操なく何冊も引き受け、尻に火がついて熱ッチッチ状態になっている。

 こういうときに限って、父親が「畑はいつ行くんだ」と催促してくる。
 台風の前に行ったきりなので、畑の状態が気になるのだと言う。なにせ畑までクルマで30分ほどかかるので、私が連れて行くしかないのである。
 手帳で予定を睨みつつ、水曜日の早朝、様子を見に出かけることにした。

 かくのごとく、晴耕雨読の人生を送るべく始めた畑に、最近は振りまわされつつある。欲から離れようとして、それが負担になるのだから、人生とは、ナルホドうまくいかないものである。

 そこで気づいた。
 晴耕雨読は世俗と離れた生活にあるのではなく、世俗の中にあって、その心境に達することではないか――。すなわち、世俗と離れた晴耕雨読は「逃避」ではないか、と思ったのである。

 と、まァ、そんなこんなと、いろいろ理由をひねり出し、我を励ましつつ、これからひと踏ん張りという次第。

 明日は、某少年院で保護司の研修会がある。移動はバスということなので、道中、居眠りできればいいな、と思っているのだが。

投稿者 mukaidani : 21:43

2007年09月04日

煩悩が引き起こす「不徳吸引作用」

先日、都内某私鉄駅のホームで、電車を待っているときのことだ。
「××ちゃん、危ないわよ。端っこに行くと、おっこちて電車に引かれちゃうから」
 若い母親が、ベンチに座って煙草を吹かしながら、ホームをヨチヨチと歩きまわる幼児を叱っていた。

(横着しないで、手を取ればいいものを)
 と思いながら眺めているうち、アナウンスに続いて電車が前方からホームに入ってきた、そのときである。

「××ちゃん! 退がりなさい!」

 母親が怒鳴って、跳び上がった。
 幼児が見入られたかのように、進入してくる電車に向かってヨロけて行ったのである。

 母親の悲鳴より早く、私が幼児を背後から抱きかかえ、ことなきを得たが、
「端っこへ行くと、危ないって言ったでしょ!」
 私に礼を言うのも忘れて、母親は幼児を叱りつけていた。

 が、しかし、この幼児に罪はないのだ。
 なぜなら人間には《視覚吸引作用》というものがあるからだ。
 これは心理学用語で、恐いもの、恐怖を感じるものを見ると、そこへ吸い込まれるように進んでしまう現象のことで、この幼児はおそらく〝危ない〟という恐怖心が、逆にホームの端へと進ませたのだと、私は見ていて思った。

 この話をしたのはほかでもない。
《視覚吸引作用》と同じように、人間の心には《不徳吸引作用》があるものと私は考えているからだ。嫉妬、不平、不満、愚痴、悪口……etc。言ってはけないこと、やってはいけないことと承知していながら、その不徳の世界に吸い込まれてしまうのである。

 善悪の区別は誰でもつく。しかし、区別がついていてなお、《悪徳》に手を染めてしまう。これが《不徳吸引作用》であり、その根源にあるのが、仏道で言う「煩悩(ぼんのう)」なのである。

 人の悪口を言いたくなったら、不満が生じたら、人がねたましくなったら、どうぞ《不徳吸引作用》という言葉を思い出していただきたい。

 気持ちがスーッと楽になるはずである。

 

投稿者 mukaidani : 17:59

2007年09月01日

自分の運気を知りたければ、友を見よ

「類は友を呼ぶ」
 という諺がある。

 ポジティブな意味には使われず、
「やっぱりな。ワルにはワルが寄っていくもんだ」
 というように、箴言(しんげん)で使われることが多い。

 だが、見方を変えるなら、「類は友を呼ぶ」という現象は、人生において大きなプラスになるのだ。

 たとえば、ワルが近寄ってくれば、
(ハハーン、いまのオレは、あいつと同類になっているんだな)
 と反省すればいい。

 素晴らしい友が寄ってくれば、自分もまた――その時点では――素晴らしい人間であると自負していい。

 運気も同様で、ツイてる人間が近寄ってくるときは、自分の運気も上昇しているので、人生の勝負に出てもよい。
 反対に、貧乏神のような人間が近寄ってくるときは、自分の運気も下降しているので、万事、自重しておけば、人生を過つことはないというわけである。

「人の振り見て、わが振り直せ」
 という言葉の真意は、実はここにあるのではないかと――自戒しつつ――考える次第である。
 

投稿者 mukaidani : 12:00