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2007年08月29日

もし、朝青龍が「日本人」であったなら

 朝青龍が、モンゴルに帰ったそうだ。

「やれやれ」
 と安堵の声が聞こえてきそうである。

 日本にいると、いつまでも問題がくすぶり続け、相撲協会も高砂親方も、そのうちには朝青龍を横綱に推挙した横綱審議委員も批判の矢面にさらされる。

 朝青龍が「治療」ということでモンゴルへ帰ってしまえば、海の向こうの外国ゆえ、騒動は次第に沈静していくということなのだろう。それでなくても、私たち日本人は移り気なのだ。

 ただ、もし朝青龍が日本人だったらどうか、という思いはある。

 ○○県○○市○○郡○○村の出身であれば、どうだったろう。ケガを理由に巡業を放り出し、ニコニコ笑顔で自治体主催のサッカーに興じていたとしたら、サッカーをさせた自治体は大バッシング。首長は〝切腹〟ものであろうし、当の力士も、親方も土下座である。

「世間に顔向けできない」――良くも悪くも、これが「恥を知る」という日本人のメンタリティーではないだろうか。

 世論の批判も、こんなものではすまなかったろう。
「解離性障害だァ? トボケたこと言ってんじゃねぇ!」
 一刀両断である。

 ところが朝青龍は、顔つきこそ日本人に似てるが、外国人である。
 マゲはつけてもドルゴルスレン・ダグワドルジなのだ。
 だから世論もメディアも、そして協会も親方も、
「外国人だから、しゃないかなァ」
 と、一歩距離を置いているように思える。

 ならば、「国技」とは何ぞや。横綱とは何ぞや――と、私は首を傾げるのである。

 角界を批判すればきりがないのだが、相撲協会が忘れてはいけないのは、フンドシにチョンマゲという異様な格好が違和感なく社会に受け入れられているのは、「国技」であるからだ。

 国技でなくなったら、肉塊にフンドシにチョンマゲなんて、悪い冗談だろう。あの格好では、格闘技として成立せず、〝お笑いショー〟である。そう言えば、地方巡業のショッキリは大ウケだった。

 と、まァ、そんなことを考えながら、「もし、朝青龍が日本人なら」という思いがよぎるのである。 


投稿者 mukaidani : 18:42

2007年08月26日

酒ハ人生ヲ懸ケテ呑ムベシ

 昨夕は、地元のお祭りで、子供たちによる空手の演舞を披露した。

 幼児、小学生の中から希望者40名ほどで、半分以上が白帯。披露というより、祭りを賑わす〝お囃子〟の1つといったところか。参加した子供の家族だけでも、親兄弟に、爺ちゃん婆ちゃん、親戚を加えれば、見物客はちょとした数になるというわけである。

 お祭りとあって、早い時間から一杯機嫌の人が目についた。

 酒はいいものだ。

 私は酒が大好きで、学生時代、アラブに留学したいと思ったが、回教の国は禁酒と知って、即座に断念したほどだ。

 週刊誌記者時代は、朝まで盛り場をハシゴしていた。ボトルの1本2本は平気で、取材のない日は昼間からビヤホールで飲んでいた。

 その酒を、いまは飲まなくなった。

 理由はない。

 訊かれれば、
「坊さんになったから」
 と答えてはいるが、坊さんだからといって酒をやめる必要はない。飲酒、肉食OKである。

 本音を言えば、
「酒は、もういいかな」
 そんな心境になったのだ。

 なぜそんな心境になったか、理由は自分でもよくわからないが、飲みたいだけ飲んで、遊びたいだけ遊んできて、この延長で人生を送るのかと思うと、何だかつまらなくなってきたのである。

 で、やめてみて、どうだったか。

 実に充実した日々である。

 つき合いで飲食店には行くが、酔わないのだから、神経が弛緩することがない。
「酒は、張り詰めた神経を休める」
 というのは、飲ベェの自己弁護であることがよくわかる。
 たかだか私たちの日常生活のレベルにおいて、神経はどんなに張り詰めたところで、切れることはないのである。

 発心――すなわち、何かを思い立って始めることも有意義だが、「何かをやめること」もまた、人生の刺激になることがわかった。

 福岡市で、市職員の飲酒運転事故が報じられていた。

 周知のように、同じ福岡市の職員が、飲酒運転で3児の命を奪うという痛ましい事件があって1年目のことである。

 福岡市は、今回事故を起こした職員を懲戒免職にする方針だと言う。

 酒を飲んで人生につまずくことはあっても、飲まないからといって、人生につまずくことはない。

 人生の友として、酒は実にいいものだが、いいがゆえに人生を棒に振ることもある。

 酒ハ人生ヲ懸ケテ飲ムベシ――。いま、そんな言葉が思い浮かんだ。

 みなさん、心されたし。


投稿者 mukaidani : 05:10

2007年08月22日

仏教の勉強会で、反省しきり

 浄土真宗の勉強会で京都に滞在している。

 講義を聴いていると、「なるほど」と膝を打つ。
 実によくわかるのであるが、ホテルの自室に帰って、復習しようとノートを開くと、何がナルホドだったのか、よくわからない。

 まして、
「じゃ、ひとつ、わしにも説明してくれんか」
 と言われようものなら、ただ静かに笑うのみとなるのである。

 私は空手や古武道の指導で、大人の会員には、
「わかることと、できることは違う」
 と口うるさく言う。

 大人は「頭」で技をとらえようとするので、
「なるほど」
 と膝を打ったところで、技を覚えたような錯覚に陥り、それ以上の精進を積まなくなる。

「それではだめだ」
 と私は戒めるわけだが、私もまた真宗の勉強会におて、大人会員と同様の錯覚に陥っていることに気がついた。
 教義という「技」は、頭で理解するのではなく、心でとらえるものであることを反省した次第。

 仏教について、表面的な能書きなら私にも言える。
 だが、私の話をきいて、真の意味で「なるほど」と腑に落ちる人が何人いるだろうか。
 
「それではだめなのだ」――と、いまホテルの一室で深く反省をしつつ、午前九時から始まる講義の準備をしているところである。
 

投稿者 mukaidani : 08:20

2007年08月17日

「白い恋人」事件と、一罰百戒の幻想

 チョコレート菓子『白い恋人』の賞味期限改ざんが発覚したとき、みなさんはどんな思いを抱いたろうか。

「またか」
 というより、
「不二家やミートホープなど、あれほど偽装事件が騒がれていながら、まだやっていたのか」
 という思いではなかったか。

「バカなやつだ」
 と、84歳になる私の父親も、したり顔で批判しているところを見れば、これが世間の共通した感想だろう。
 

 なるほど、石屋製菓の社長は、「バカなやつだ」と嘲笑されても仕方がない。
 10年も前から賞味期限を偽装していたということは、この間、山一証券の問題から雪印、不二家、ミートホープなど、相次いで偽装が発覚し、結果、会社がどういうことになったかわかっているのだから、
「バカな社長だ」
 と、私も思う。

 だが、ここで私たちが考えるべきは、
「偽装事件が、あれだけ社会問題になってなお、なぜ後を絶たないのか」
 ということではあるまいか。

「自分のところはバレないだろう」
 と、タカをくくっていたかもしれないし、悪いと知りながら、なんとなくズルズルということもあるだろう。

 だが私は、それは枝葉末節的なことであって、真の原因は、
「人間は結局、変わらない」
 ということにあると思うのだ。

 たとえば、学校教師による買春事件がそうではないか。電車内で痴漢した公務員がそうではないか。横領事件がそうではないか。
「くだらないことで一生を棒に振って、バカなやつだ」
 と嘲笑するが、一向に後を絶たない。
「そういうことをすればどうなるか」
 ということを知っていながら、人間は愚かな行為を繰り返すのである。

 戦争を持ち出すまでもなく、人間は「過ち」を繰り返す。
 性懲りもなく繰り返す。
「だからしょうがない」
 と、私は言うのではない。
「人間は愚かである」ということを、しっかりと認識し、「過ちは何度でも繰り返す」ということを、我が身にはっきりと言い聞かせるべきだ、と言っているのだ。
 なぜなら、自分の愚かさを認識することによって、それが抑止力になるからである。

 このことは、犯罪に限らず、私たちの日時用生活の処し方にも言える。
「誰もが我が身がいちばん可愛いのだ」
 ということを自分に言い聞かせ、
「人間は人をうらやみ、ねたみ、嫉妬するのだ」
 という〝醜悪な心〟を認めて初めて、自分を律することができると、私は考える。

 すなわち、煩悩(ぼんのう)という自己中心的な考えは、それを克服しようとするのではなく、
「人間はそうした生き物である」
 と認め、それを〝飼い慣らしていく〟ことによってのみ、幸せになれるのである。

 なぜなら煩悩は、すべての人間に備わり、死ぬまで決して削ぎ落とすことができない業(ごう)であるからだ。克服できないものを克服しようとすれば、結局、残るのは自己嫌悪である。

 だから、菓子『白い恋人』の不祥事を嘲笑するのは、実は、自分を含めた人間の存在そのものを嘲笑することでもあるだ。

 一罰百戒という言葉がある。
 一人(あるいは一つ)を罰することによって、広く戒(いましめ)にするという意味だ。

 だが、『白い恋人』たちの一件を見ればわかるように、一連の企業犯罪とその罰が教訓になっていないことが、よくわかるだろう。

 すなわち、人間に煩悩がある以上、「一罰」は決して「百戒」にはならないということなのだ。むしろ私は、「一罰」が「百戒」になると考えるところに、人間の愚かさがあると思うのである。

投稿者 mukaidani : 15:37

2007年08月15日

朝青龍と亀田ファミリーは、どこが違う?

 今日の午後、〝グレーゾーン〟でビジネスをするA氏から電話がきた。

「ある案件でヤクザとモメてたんですが、向谷さんの本を読んで応対したら、うまくいきました」
 そう言ってカラカラと笑った。

 拙著で似たようなシチュエーションの箇所を拾い読みし、その〝交渉術〟を実行したのだと言うわけだ。

 ウソのような、ホントの話である。

 だが実を言うと、A氏が用いた〝交渉術〟は、A氏を例にとり、私がハウツーとしてまとめたものだった。

 つまりA氏は、自分で壁にボールを投げたことを忘れ、跳ね返ってきたそれをキャッチして、
「おっ、ボールを得した!」
 と喜んでいるわけである。

 ことほど左様に、人間は「自分の能力」に気がつかないものだ。

 いかに才能があろうとも、
「キミには、これほど素晴らしい才能があるんだよ」
 と教え、引き出してくれる人と環境がなければ、それは宝の持ち腐れであり、才能がないのと同じことになるのだ。

 ところが、そのことがわからず、「自分の才能」で今日の栄誉をつかんだと錯覚する人の、なんと多いことか。

〝朝青龍事件〟の真相は知らない。

 だが朝青龍は、「相撲と、相撲ファン」があったればこそ、今日の富と栄誉を得た。朝青龍という〝タネ〟は、相撲と相撲ファン――すなわち〝水〟と〝日光〟によって発芽したことは、紛れもない事実なのである。
 そこに、朝青龍が思い至るかどうか。

 一方、相撲協会は、朝青龍という優秀な〝タネ〟があったからこそ、相撲人気という果実をつけたのだ。そして何より、相撲ファンという〝養分〟によって花を咲かせているのだ。
 そこに、協会が思い至るかどうか……。

 いや、人ごとではない。
 私だって、周囲の人々に支えられて生きているにもかかわらず、ややもすれば感謝の気持ちを忘れてしまう。

 それを思えば、若い朝青龍にそれを求めるのは無理なことなのかもしれない。

 いや、考えてみれば、そもそも「横綱の品格」とはいったい何なんだろう。
 亀田ファミリーと朝青龍は、私には同じように見えるのである。

 グレーゾーンのA氏から電話をもらって、朝青龍のことを、ふと思った次第。 

投稿者 mukaidani : 16:14

2007年08月13日

「ヤクザの刺青」と「東條英機の勲章」

 この猛暑のなか、近所に住む3歳の孫をつれて、プールへ行ってきた。

 いつものことだが、孫と約束をしてから後悔する。
 仕事が詰まってくるからだ。

(なにか、うまい理由でキャンセルできないかな)
 と、そんな思いがよぎるが、私の娘だけに、さすがにそこは見抜いていて、今回も約束の日が近づいてくると、私に電話を掛けてきて、孫と代わり、
「プール、プール……」
 と、孫に連呼させるのである。

 そこまで言われれば、私も退けない。
「うん。行こうね」
 と、やさしく返事して、今日のプールになった次第。

 お盆とは言え、レジャーランドのようなプールは混んでいて、テントを張ったり、パラソルを立てたり、子連れ、若者グループなど、賑やかなものだった。

 そんな中に、両肩に刺青(イレズミ)をした若いヤクザがいた。
 水着で、上半身は裸。
 刺青を誇示しているように見えて、私はちょっと鼻白んだ。

「刺青はね、人さまに見せびらかすもんじゃねぇ。一生をヤクザで生きる証(あかし)として、心に彫るもんだ」
 と、長老から聞いていたからだ。

 実際、こんなことがあった。

 ずいぶん昔、私が週刊誌記者時代のことだ。
 夏場、九州から旧知のヤクザが上京してきた。
 着替のシャツは東京で買うつもりで持ってこなかったと言うので、私が気をきかせてプレゼントしたところ、
「白は透けるとですよ……」
 やんわりと断られた。

 上着を脱げば、刺青がシャツから透けて見える、と言うわけである。いま思えば、まさに「刺青は人さまに見せるものではない」という昔気質のヤクザだった。

 刺青を誇示したい気持ちはわかる。
 人が避けて通ることに、快感もあるだろう。
 だが、ヤクザの矜持とは、その〝快感〟を我慢するストイックさにあるのではないか。そんなことをプールで思った次第である。

 で、今夜。

 午後10時から『NHKスペシャル』を見た。A級戦犯のドキュメンタリーだ。テレビはニュース以外、ほとんど観ないが、この番組に、拓殖大学の先輩で、俳優の外山高士氏が東條英機の役で出演されていることを、ご本人からお聞きしていたからだ。

 さすが第一級の演技は素晴らしく、A級戦犯について考えさせられたが、それはさておき、番組の中で、東條英機が軍服の胸前一面に勲章をつけ、演説する実写フィルムを観たときだ。ふと昼間プールで見た刺青の若いヤクザを思い出したのである。

(刺青を誇示する若いヤクザと、東條英機の勲章は、精神性において同じではないか)

 そんな思いがよぎったのである。

 刺青が「心に彫るもの」であるなら、勲章もまた、武勲として自分の心に着けるものではないのか。

 いや、それは建て前で、人間というのは、それが刺青であれ、勲章であれ、出身校であれ、勤務する会社であれ、収入の多寡であれ、「誇示」あるいは「自慢」することによって、存在意義を無意識に確認しているのではないか。

 いろいろ考えているうちに、ふとマラソンランナーの有森祐子さんの言葉を思い出した。「自分を誉めてやりたい」――バルセロナ五輪で、銀メダルを輝いたときの言葉である。
 他人に対して、誇示も自慢もせず、「自分が自分を誉めてやる」ということの意味が、いまようやくわかったような気がしたのだ。

 数年前、私が連載していた週刊誌の人物イタンビューで、有森裕子さんを取材したことがある。そのときは「自分を誉めてやりたい」という彼女の言葉を〝流行語〟のレベルでしか考えていなかった。人間を見る目の、なんと浅薄なことであったか。

 いま思えば、深い意味を持つ言葉であったことを、不明を恥じつつ、再認識している次第である。


投稿者 mukaidani : 23:51

2007年08月10日

全閣僚が靖国参拝を見送った〝変節〟

 毎月10日は母親の月命日で、今朝も9時にお坊さんが月参りにみえた。

 得度して以後というもの、この月参りと言い、葬儀と言い、私はお坊さんの所作が気になって、故人を偲ぶどころではなく、まったく不謹慎なことである。

 そんなことを思いながら、パソコンでニュースをチェックして驚いた。
 全閣僚16人が15日の靖国参拝を見送るとのことで、これは1950年代半ば以降、初めてとのことだと報じている。

 理由は「中国・韓国との関係改善が進んでいることへの配慮」が背景として指摘されている。

 要するに、解散総選挙が叫ばれるなか、
「与党逆風のなか、靖国に参拝して中韓から非難されると、選挙のイメージダウンになる」
 ということなのだろう。

 これまで中韓の非難にもかかわらず、靖国参拝をしておいて、与党のこの〝変節〟は、いったい何なのか。

 靖国参拝の是非を超えて、私はこの〝変節〟が許せない。
 思想信条、人生観、生き方はどうあれ、利害得失で変節する人間は、もっとも卑しむべきものと私は考えるからだ。

 だが、この与党逆風のなか、もし安倍総理が信念をもって15日に靖国に参拝したらどうなるだろうか。

 中韓がヒステリックに非難し、メディアから袋叩きに合うだろう。自民党内は〝安倍非難〟で大混乱に陥る。

 だが一方で、国民は安倍総理を非難しつつも、
「お坊ちゃんだと思っていたが、あれでなかなか信念があるじゃないか」
 と、別の感慨を抱く。「非難」は、それを承知で強行すれば、「みどころ」に転じる。これが人間心理なのである。

 野垂れ死にするなら、乾坤一擲の勝負に出る――。
 安倍総理の今回の一件に限らず、すべからく男は、この勝負ができるかどうかで器量が決まるのだ。

投稿者 mukaidani : 18:57

2007年08月09日

今年も1泊2日の子供合宿

 8月8日、9日と1泊2日で、今年も本部道場の小学生を対象に、「佐倉草ぶえの丘」で空手の合宿を行った。

「草ぶえの丘」は佐倉市の公共施設で、農業体験、動物とのふれあい、アスレチック、蝶の観察、陶芸体験教室、キャンプ場、体育館、宿泊施設などが緑豊かな自然の中に設えてある。

 費用の面でも安全面でも、子供たちの合宿には最適とあって、例年、ここで行っているのだが、小学生50余名の合宿は、正直言って疲れるのである。

 指導員や保護者、高校生、中学生が手伝いに来てくれるので、それは大助かりなのだが、団体生活の何たるかを教えるのは、やはり館長たる私の責任と思い、あれこれ口やかましく言うのだが、
「ハイ」
 と殊勝に反省して見せるのは、その場だけ。合宿ということで気分は舞い上がり、すぐに団体生活を乱す。要するに〝イタチごっこ〟にくたびれるのである。

 しかし、子供たちに教えられることは多かった。

 叱り過ぎれば萎縮し、誉めすぎれば天狗になる。子供心に損得感情はあるにしても、大人のように「利害」では動かない。天真爛漫な可愛さがあるかと思えば、大人顔負けのズルさもある。
 まさに子供と子供社会は、大人と大人社会の〝写し鏡〟であることが、実感として理解できるのである。

 そいう意味で、道場で子供たちに接し、合宿で寝食を共にして得たことは、私の貴重な財産だと思っている。

 先延ばしにしてきた〝しつけ本〟の執筆に、ようやく取りかかった。これから時代小説の書き下ろしなど4冊同時執筆になるが、〝しつけ〟については、どうしても書きたいテーマの1つだった。保護司として、僧侶として、空手家として、向谷流の〝しつけ本〟をめざしているが、さて、どんな本になるか。
 いささかの自負を込めて、乞うご期待である。

   

投稿者 mukaidani : 18:46

2007年08月02日

安部総理を見て思う「好機は一瞬」

 安倍総理退陣の声が、自民党内で日増しに高くなっている。

 参院選大敗の直後、安部総理は「続投」を明言し、自民党内も「総理が決断された以上、支えて行くのが我々の使命だ」と続投支持の意思表明をしていた。自民党の危機にあって、「一致団結が急務」と浮き足だっていたからである。

 安部総理は、このタイミングで内閣改造に着手すべきだったのだ。そうすれば、人事の思惑もあって、党内は〝安倍新内閣〟に向けて一気に加速したろう。メディアの関心も、参院選大敗の責任論から、安倍新内閣の今後に移っていたはずだ。

 それをなぜ、手をこまねいているのか。
 大敗ショックから数日が経って、党内の気持ちが落ち着いてくると、
「安倍の野郎、大敗しておいて続投とは何事だ」
 という不満がフツフツと湧き起こってくるのは当然なのである。

 なぜ、そこが見抜けないのか。

 おそらく安部総理は、閣僚の失言など人事で火だるまになったことから、新たな閣僚の人選にはじっくり時間をかけたかったのだろう。

 ここが甘いのだ。
 じっくりと人選しているうちに、退陣に追い込まれたとなれば、これ以上のピエロはあるまい。

 すべからく、好機は一瞬なのだ。
 この一瞬を逃せば、好機は二度と訪れることはない。
 チャンスは常に「千載一遇」なのである。

 このことを剣道の古歌は、
《今と言う時、今はなし。「ま」の字来たれば「い」の字過ぎゆく》
 と戒める。

「いま」の「ま」を聞いて行動に移したときは、「い」という言葉はすでに過去のものになっていると言っているのだ。「い」――すなわち一瞬の好機をとらえて打ち込め、と説くのである。

 安部総理は、参院選大敗直後の続投宣言によって、党内が一瞬まとまったときが「い」だったのである。
 ここで打ち込まずして、「ま」の字を聞いて行動に移すようでは、所詮、勝負にはならないというわけである。

 安部総理にかかわらず、我々も同じだ。

 好機は一瞬。

 これをつかまえられるかどうかで、人生勝負は決まるのだ。

 

投稿者 mukaidani : 10:37