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2007年06月30日

顔と同様、会話にも「化粧」をすべし

 女性が、顔に化粧するのは当たり前である。
 スッピンで人前に出るほうが非常識とされる。

 男だって、身だしなみは大切とされる。
 しかるべき席に出るときに服装を整えるのは、社会的コンセンサスである。

 つまり、外見を装うのは「ごまかし」ではなく、「常識」ということなのだ。

 しかるに、「話術」はどうか。
 社会生活を送る上において、服装以上に大事なものであるはずなのに、「話術の化粧」については、あまりに無関心ではないだろうか。

 無関心どろか、「巧言令色鮮し仁」とか、「巧言は徳を乱る」など、言葉巧みで調子がよいことを非難する。

 なるほど、調子のいい人間は、信用がおけない。
 しかし、だからとって、話術に「化粧」は不要なのだろうか?

 私は、そうは思わない。人間が社会的動物である以上――調子がいいか悪いかは別として――コミュニケーションの手段たる「話術(会話)」には、顔の化粧や身だしなみと同じように、「化粧」をすべきだと思う。

 ご記憶にあると思うが、〝コムスン事件〟が発覚した当時、折口雅博会長は謝罪し、深々と頭を下げたあとで、
「私にチャンスをください」
と訴えた。

 このとき私は、バカなことを言う、と思った。
 折口会長としては「世間の情」に訴えたつもりだろうが、これは逆効果。
(なんで、おまえにチャンスを与えなきゃならないんだ)
 と、世間の神経を逆撫でしてしまった。
葬儀に顔グロで参列したようなもので、彼は「話術の化粧」を間違えたのである。

 ここは、ひたすら頭を下げ、
「責任者として、いかような社会的制裁も甘んじて受けます」
という〝化粧〟をすべきだったのだ。

 世間を欺け、と言っているのではない。
 これが、よくも悪くも「世間の実相」であると、私は言っているのだ。

 で、「話術に化粧」の具体論だ。

 こんな例はどうか。

「オレはお前が好きだけど、バカだ」
「お前はバカだけど、オレは好きだ」

 どちらも「おまえはバカだ」ということを言っているのだが、「バカ」と「好き」の位置関係を入れ替えるだけで、相手が受ける印象は天地の差がある。

 あるいは、
「この間抜け!」
 頭ごなしに怒鳴りつければ、相手は反発するが、
「間抜けと言われても仕方ないだろう」
 と諭(さと)すように言えば、相手は神妙に聞く。
 どちらも「おまえは間抜けだ」と言っているにもかかわらず、相手の受け取り方はことほど左様に違ってくるのである。

 これが「言葉の化粧」だ。

 さらに、こんな例はどうか。
「いやな役目だが、これは避けて通れないことなんだ。ならば逃げないで、堂々と立ち向かって行くべきだと思うが、どうだろう」
 上司が部下に、こう告げる。

 いやな役目を、なぜこの部下がやらなければならないのか――という肝心なことには触れないでおいて、
「ならば逃げないで」
「堂々と立ち向かえ」
 と、奮(ふる)い立つような言葉をまぶしてケツを叩く。

 ケツを叩かれるほうも、何となく自分がその役目を背負(しょう)うべきだという気になってくる。
 まさに「言葉の化粧」の効用なのである。

「ウソをつけ」
 と言うのではない。
「相手を騙せ」
 と言っているのでもない。
「化粧をすべし」
 と言っているのだ。

 社会的生き物の我々は、人前に出るときは顔だけでなく、話術にも化粧をし、「会話美男」「会話美人」になるよう努力すべきなのである。

 

投稿者 mukaidani : 08:47

2007年06月27日

交渉の極意は「二歩前進、一歩後退」

 押して押して、スーッと退(ひ)く――。
 これが交渉の極意である。

 一歩押して、一歩退けば「元の位置」。
 ならば二歩押して、一歩退けば「一歩の得」となる。

 周知のとおり、北朝鮮は、ゴネてゴネて、バンコ・デルタ銀行に預けてあった2500万ドルをせしめた。

 悲しいな、この世のなかは、ゴネたほうが得なのだ。
 私はゴネることに賛成はしないし、勧めもしないが、どうやれば得をするか、「ゴネる方法」は知っておくべきだろろう。

 たとえば、チンピラ。
 押し込む理由は、相手に非があれば最高だが、なければ何でもよい。善良なる市民に噛みつくときは、インネン、いちゃもん、何でもありだ。

「なんだ、その眼つきは! オレをバカにしてんのか!」
「バカになんかしてませんよ」
「なんだ、その言い方は! てめえ、ケンカ売るのか! よし、このケンカ、買ってやろうじゃねえか!」
 いつのまにか〝売られたケンカ〟にすり替え、ガンガン押していく。

 で、ガンガン押して、どれだけのシノギ(儲け)になるか。

「二歩前進、一歩後退」の理屈でいけば、押せば押すほどシノギは大きくなる。

「すみませんでした」
 善良なる市民が、このままではヤバイとばかり、謝る。
「よし、勘弁してやる。そのかわり腕一本、置いていけ」
「ええッ!」
「と、言いてえところだが、小指でいいぜ」
「こ、小指!」
「と、言いてえところだが、カタギが相手だ。誠意を見せてくれれば、今日のところ勘弁してやるよ」
 押して押して退くのである。

 北朝鮮を引き合いに出すまでもなく、国際政治もまたチンピラと同じ駆け引きが行われているのだ。恫喝し、イチャモンをつけ、押して押して押しまくり、タイミングを見てスッと退く。
 これを〝落としどころ〟と言うのだ。

「部長! どうしてこの領収書は落ちないんですか!」
「三万円以上の接待は、事前に稟議書が必要だ。知ってるだろ」
「緊急だったんです。稟議書を上げてたら間に合いません」
「規則は規則だ」
「じゃ、この商談、壊しますよ」
「おいおい、バカなこと言うんじゃない」
「だって、この接待が認められないというなら、商談自体がなかったことになるじゃないですか」
「そりゃ、理屈ではそうだが……」
「理屈だから、私はお願いしているんです」

 こうやってガンガン押して、
「今回だけ」
 という条件を出して一歩退き、ここを〝落としどころ〟にすれば、この領収書は特例ということで通るはずである。

 押して押して、スーッと退(ひ)く。
 二歩押して、一歩退き、「一歩」を得るのが交渉の極意である。

 交渉ベタは、一歩押して、一歩退き、得るものはゼロ。
 欲かきは、押して押して押しすぎて、相手を怒らせ、交渉決裂。得るものはゼロどころか、関係を悪化させたぶんだけマイナスになるというわけである。

投稿者 mukaidani : 16:32

2007年06月25日

「ウソも方便」は、どこまで許されるか

「隠し事をする人を卑しい人と知れ」
 これは、お釈迦様の教えだ。
 
 ところが一方で、「ウソも方便」という言葉もある。

「キミは、僕が嫌いかね」
 上司に訊かれて、
「はい」
 と、正直に答えたのでは、お釈迦様には誉められるかもしれないが、上司の心は傷つき、答えた部下の会社人生は、これで終わる。

「いえ、尊敬しています」
 と、ウソをつけば、お釈迦様の教えには反するが、上司は喜び、答えた部下も前途に光明で、誰も傷つかない。

 ウソは悪いことではあるが、人間社会にとって〝必要悪〟でもあることもまた事実なのだ。

 隠し事も同じなのだ。
 たとえば契約を取るため、上司が嫌っている人間の世話になったとする。そのことを明かせば、上司は不愉快になるだろうし、せっかくの手柄もフイになる。
 黙っていればバレる心配はない。
(だったら、黙ってよ)
 ということになる。

 隠し事とは、消極的なウソのことであり、こうしてみると、ウソや隠し事のすべてが悪いというわけではなさそうだが、それでは、なぜお釈迦様は、
「隠し事をする人を卑しい人と知れ」
 と言うのだろうか。

 それは、たぶん、
「ウソをついたり、隠し事をしたりしなければ、壊れてしまう人間関係や、状況に身をおいてはならない」
 ということではないだろうか。

 白を「白」、黒を「黒」と答えて、なんのわだかまりもない人間関係を築く――これが理想であり、その理想を前提にするから、
「隠し事をする人を卑しい人と知れ」
 ということになるのだと私は考える。

 だが現実には、ウソも確かに方便である。
 図らずもつくウソもあるだろう。

 だが、そのウソが許されるのは、「自分のためにつくウソ」ではなく、「相手のためにつくウソ」でなくてはならない。自分のためにつくウソは「騙し」であり、相手のためにつくウソは「思いやり」なのである。

 不二家から社会保険庁、ミートホープ社……etc。彼らのウソは「騙し」であったがゆえに卑しく、社会から糾弾されるのである。

 

投稿者 mukaidani : 21:07

2007年06月23日

チラシを配って思う「会釈する社会」

 昨夕、保護司活動の一環として、成田駅前で、薬物乱用防止キャンペーンのチラシ+ティッシュを配った。

 気持ちよく受け取ってくれる人、ブスっとする人、無視する人と、態度はいろいろだが、不機嫌な顔で無視されるのは、やっぱり嬉しくはない。

 むろん、私たちが勝手に配っているのだから、どんな態度を取ろうと相手の自由。ブスっとされようが、無視されようが、私が文句を言う筋合いではない。

 それはわかっている。

 わかっていて、やっぱり気分はよろしくない。
(何もそこまで、つっけんどんな態度を取らなくてもいいじゃないか)
 と、身勝手を承知で、うらめしく思ってしまうのである。

 しかし、受け取らない人のなかにも、ニッコリ笑って「ごめんなさい」といった雰囲気で会釈していく人がいる。

 これは気持ちがいい。
 
 勝手に配っておいて、ニッコリ笑顔で「ごめんなさい」風をやられると、恐縮してしまう。
(この人は、きっとみんなから好かれているんだろうな)
 と思う。
 こういう人と知り合えたらいいな、と思う。

 ひるがって、自分はどうだろうか、と考えた。

 街角でビラやティッシュを配っている人に対して、どんな態度で接しているだろうか、と反省した。

「勝手に配っておいて、邪魔だ」
 という言い分は確かに正しい。

 だが、人間は、それでいいのだろうか。
「理屈として正しいこと」が、「人間として正しいこと」なのだろうか。
 違うのではないか、と思った。

 私たちが誇った日本の美風の一つに「会釈」がある。

 正しいか、正しくないか、といった理屈を越えて、お互いが尊重し合い、その現れが会釈ではなかったろうか。

 そのことを、私も含め、忘れかけているような気がする。

 権利ばかりを主張する殺伐とした世のなかとは、会釈のない社会ではあるまいか。

 チラシを配りながら、そんなことを思った次第。


投稿者 mukaidani : 19:43