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2007年05月31日

藤原紀香さんの挙式雑感

 藤原紀香さんが挙式したというニュースが、朝から繰り返しテレビのワイドショーで流れている。

 昨日までは、松岡元農水大臣の自殺が繰り返し報道されていた。
 進展しない北朝鮮拉致事件もある。
 年金問題もある。
 参院選も控えている。
 格差社会、ニート、介護、高齢社会……。問題山積する一方で、紀香さんの5億円挙式に出て大ハシャギする芸能人たちがいる。披露宴の中継番組の視聴率は関西地区で40%に達したともいう。

 それが悪いと言っているのではない。
 人生の門出だ。
 みんなで祝福してあげるのはいいことだと思う。悲惨な事件が続発するなかで、明るいニュースであることも確かだ。

 ただ、ふと思うのは、人間の心の不可解さだ。
 悲惨な事件に涙した翌日には、ケロリとして別のニュースに高笑いする。汚職に怒ったかと思えば、チャンネルを変えてクイズ番組に興じ、メモ帳片手に通販番組だ。

 繰り返すが、それが悪いというのではない。
 それが人間の本質であるとするなら、自分が困ったときに、世間は決して助けてはくれないだろうと思うのだ。同情してくれた直後に、お笑い番組を見て笑いころげることだろう。

「弱肉強食」という言葉が頭をよぎる。
 そうあってはならないと憤りながらも、強者が弱者を食らう現実にどう向き合っていけばいいのか。

 藤原紀香さん挙式のニュースを見ながら、そんな思いがよぎった。

投稿者 mukaidani : 12:17

2007年05月18日

警察官の殉職に想う

 SAT隊員が殉職した。

 物静かで落ち着いた青年。警察学校は首席で卒業――。殉職した愛知県警機動隊の林一歩巡査部長は、そんな警察官だったという。警察官採用後に柔道を始め、3年間で3段を取得。努力家であったとも報じられている。

 23歳の若さだった。
 妻と、生まれたばかりの長女がいる。
 言葉もない。

 過労死や建築作業など、仕事で命を落とす人は少なくない。
 気の毒だと思うが、それは「自分の職」に殉じたのである。だが警察官や消防士などの死は、「国民」に殉じるのである。ここに私は、崇高な志を思う。

 一方で、ニートやフリーターがいる。
 私は保護司をしているので、そうした青年と接する機会は多い。彼らの生き方が悪いとは思わないし、自分の人生だ。好きに生きるべきだと思うが、ならば「格差社会」を口にしてはなるまい。

 ところが、現実はどうだろうか。
 周知のように「若者の格差」がクローズアップされるようになってきた。「インターネットカフェ難民」がメディアで取り上げられるのは、そうした社会風潮を如実に物語っている。

 だが、まさにその一方で、林巡査のように職務に殉じる若者もいるのだ。格差社会の論議の一方で、その事実を、私たちは忘れてはならない。

 人間は等しく平等であるという。
 僧籍を持つ者として、それはわかる。わかるが、未熟ゆえ「本当にそうだうか」という思いが捨てきれないこともまた、事実である。

 物書きとして、僧籍にある者として、かねて「殉職」が頭から離れないでいる。人間が職務に殉じるとはどういうことなのか――。職責を媒介して、生きること、死ぬことというテーマを模索し続けているが、このことを理解してくれる編集者は少ない。

 IT長者の若者、ニート、フリーター、そして林一歩巡査部長の殉職。
 生き方に是非はないと承知しつつ、林巡査の殉職と、残された家族のことを想わないわけにはいかない。

 

投稿者 mukaidani : 13:45

2007年05月04日

横山ノックさんの死に思う

 横山ノックさんが亡くなり、昨日、今日と、各局ともニュースやワイドショーで氏の半生を放送していた。

 周知のように、お笑いタレントから参議院議員、大阪府知事、そして2000年8月、女子大生に対する強制わいせつ罪により懲役1年6カ月(執行猶予3年)の判決を受けた。

 絶頂から奈落へ――。
「エロダコ」と呼ばれ、関係者はソッポを向き、メディアの大バッシングに芸能活動復帰はままならず、失意のうちに亡くなった。

 そのメディアが、こぞってノックさんの死を報じた。
 好意的だったと思う。
 
 ならば、あの大バッシングはいったい何だったのだろうか。
「死者をムチ打たず」というのはよくわかる。
 だが、それでも私は、何となく割り切れなさが残るのである。

 かつて、劇画作家の故梶原一騎先生が、暴力事件でメディアから大バッシングされたとき、私にこうおっしゃった。
「向谷君、世間は残酷なもんだぞ」
 世間の圧倒的支持で劇画作家の第一人者になり、一転、世間のバッシングでその座から引きずり下ろされたことを、残酷という言葉で梶原先生はおっしゃったのだ。

 世間とはいったい何だろうか。
「他人」は私にとって「世間」であり、「私」は他人にとって「世間」である。
 人生の厄介さは、そこにあるのではないだろうか。
 ノックさんの死を報じるテレビ番組を見ながら、ふとそんなことを思った。

投稿者 mukaidani : 19:25

2007年05月03日

「同期」は結束し、そして裏切る

 1カ月ぶりのブログである。

 ここしばらく徹夜続きである。

 ハウツーもの、時代小説、生き方論、仏教入門と、ジャンルの異なるテーマを同時進行で書いている。

 書いていて面白いのは時代小説だ。登場人物を創造し、一つの世界を構築する楽しさがある。

 ハウツーものは、読者に対して方法論の提示であり、メッセージなので、別の意味で真剣勝負だ。

 生き方論は、自分を語ることであり、「自分の人生を肯定する」という前提に立つものだから、気恥ずかしさとの戦いでもある。

 まっ、そんなこんなの日々を過ごしているうちに、ブログが1カ月ぶりになってしまったという次第。

 さて、5月――。
 学校に会社にと、新人諸氏はようやく馴れてきたことだろう。

 で、「同期」について考えた。
 同期は、なぜ結束するのか、ということである。同期はライバルであり、蹴落とすのが当たり前なのに、なぜスクラムを組むのか――。

 結論から言えば、敵の敵は「味方」であるからだ。
 同期の出世競争はとりあえず後回しにして、「先輩VS同期」の構図の中で、手を取り合うのが得策だからだ。同期が一群をなしてマラソンを走る――そんなイメージを描けばいいだろう。

 だが、出世レースで金メダルを目指すなら、どこかでスパートし、一群から抜け出さなければならない。このことはランナーの誰もがわかっている。
 わかっているから、同期は助け合いながらも、抜け駆けを警戒する。

 自分の前は絶対に走らせない。
 笑顔の下で、いつスパートすべきか、冷静な計算を働かせている。

 いつ同期を裏切るか――これが出世レースの本質あり、金メダルが一つしかない以上、この裏切りはサラリーマンとして正しい生き方なのである。

 言い換えれば、裏切れない人間は、金メダルは取れないと言うことだ。いや、メダルどころか、置いてきぼりをくって、リストラという名のリタイアである。

 ♪ 貴様と俺とォは~、同期の桜ァ~

 ノンキに歌っている場合ではないのだ。


投稿者 mukaidani : 04:19