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2007年03月26日

一刀流の極意に学ぶ「人生の直感」

このブログは、更新の間が空き過ぎると、知人から小言をいただいた。

 HPのアクセス件数は、ブログ更新の頻度による、と知人は言うわけだ。

 もちろん、こうしてHPを開設してブログを書いている以上、アクセスして欲しいのは当然だが、アクセスしてもらうためにブログ更新の頻度を多くするというのは、本末転倒ではないか。

 そう言うと、
「横着な人間ほど、口は達者なものさ」
 と、知人は鼻で笑った。

 ごもっとも。

 〆切のない原稿は、なかなか書けないものなのである。

「漫画ゴラク」の巻末に活字ページがあり、私はここに「男の兵法」と題したエッセーを連載してまもなく1年になるが、毎週水曜日渡しの原稿は1度たりとも遅れたことはない。

 週刊誌記者が長かったせいか、どうやら〆切には強迫観念がありるようで、どんな原稿も遅れることはないと自負しているが、このブログだけは〆切がないため、一気にゆるんでしまうというわけである。

 〆切と言えば、私は夕刊のスポーツ新聞社に勤めた経験がある。
 廃刊になって久しいが、ナイガイスポーツというタブロイド判の夕刊スポーツ紙で、私は競馬記者をやっていた。

 勤めたといっても、大学卒業を前にした1月から、ダービーが終わる5月までの4ヶ月足らず。競馬記者とは名ばかりで、
「馬が歩き出すとき、どの足から動かすか知っているか?」
 とデスクから訊かれて、
「そのときの気分じゃないですか」
 と答えて、怒られたことをいまも忘れないでいる。

 競馬をやる人なら誰でも経験があると思うが、「直感」と「検討」では、直感のほうが正しい場合が少なくない。

(2―6)
 馬券を検討していて直感が閃くが、いざ馬券を買うときになると、
(いや、ちょっと待て)
 理性がブレーキをかける。
 直感を理性が吟味するのだ。

(ウーン、どう考えても2―6はあり得ない。外そう)
 直感を否定して、理性に従って馬券を買う。

 結果は2―6の万馬券。
「チキショー! そうじゃないかと思ったんだ。ほら、見てくれよ、買おうかと思って、ちゃんと印(しるし)をつけてんだろ」
 よくある話だ。

 あるいは、ビジネス。
 自動車デーラーの営業マンが、商談の匂いを嗅ぎ取った。根拠はない。運送会社の社長と話していて、そう直感したのだ。温泉にでも招待して、ひと押しすれば大量注文が取れるかもしれない。上司に相談する。
「直感? バカ言ってるんじゃない。あの会社は、昨年、新車に入れ替えたばかりじゃないか」
 一蹴され、それもそうだと納得する。
 二ヶ月後、ライバル会社が軽のワゴン車を二十台納品した。運送会社は、小口配達に力を入れ始めるところだったのである。

 あなたは、自分の直感をどこまで信じるだろうか?

 伊東一刀斎と言えば、現代の剣道にまで連綿と続く一刀流兵法の創始者として知られるが、直感という〝無意識〟をもって剣の極意とした。

 こんなエピソードがある。
 一刀斎が兵法上達を祈願し、鎌倉八幡宮に参籠したときのことだ。満願の夜を迎えてなお神意を得ること叶わず、一刀斎がやむなく引き上げようとした、そのときである。背後にくせ者の殺気を感じるやいなや、一刀斎は無言のまま抜き打ちざまに斬り殺してしまったのである。

 後年、一刀斎は門人に、こう語ったという。
《「われ往年、八幡宮参籠の節、誤りて人を殺害せしことあり。つらつらそのことを考えるに、これすなわち無想剣なるべし。いかにとなれば、なんの思慮分別もなく、眼にさえぎるやいなや、そのまま抜き打ちにせしなり。これ、剣の極意、無想の場なるべし」》(戸部新十郎著『剣は語る』)

 無想――すなわち直感に技が反応したということであり、これが一刀流の極意「無想剣」なのである。

 直感を理性で判断するなら、
「誰だ!」
 と、まず誰何(すいか)し、その返答によって刀を抜くかどうか判断すべきだろうが、それでは遅れを取ってしまう、というわけである。

 もちろん、知識や経験は大事だ。
 だが、私たちは、知識や経験という過去の蓄積に頼り過ぎてはいないだろうか。常識はどんなに深化させても、常識の先は常識しかないのだ。

 それでは、つまらない。

 そろそろ知識や常識、経験を削ぎ落とし、直感で行動してみようかと思い始めたところだ。

 常識をとらわれず、常識を超越した直感に従うのだ。 

 「非常識」ではない。「不常識」の人生である。
 

投稿者 mukaidani : 01:34

2007年03月17日

「極楽トンボ」の人生観に迷い生じて

 某社の文庫書き下ろしが終わったところで、ここ1週間、溜まっていた用事を一気にこなした。

 私は拓殖大学同窓会(学友会)の広報関係を担当しているので、学生主事など大学関係者と打ち合わせの他、お祝い事へ参加、若い卒業生3人と会食して広報委員会にスカウト、さらに学友会HPの企画等、あちこち出歩く日が続いた。

 その間隙を縫うようにして数社の編集者、某漫画家、若いライターと会食など、我ながら感心するほど忙しかった。

 なぜ、こんなことを書いたかというと、いまこうして振り返ってみて、結局、何が忙しかったのか、自分でもよくわからないからである。

 忙しいと何となく充実した気分になるが、これは錯覚だ。
 錯覚のまま忙殺され、人生は矢のごとく過ぎていくのかと思うと、日々を一喜一憂することの、なんとバカバカしいことか。やはり、極楽トンボで、お気楽に生きるのが正解だと再認識した次第。

 ところが、それはシャバにいる人間のことだと気がついた。
 昨日は、保護司として某刑務所へ受刑者の面接に出かけた。仮釈放になれば私の担当になる成人男子だ。
 刑務所で過ごす日々は毎日が長い。
「時間だけは平等」と言うが、それはウソだ。同じ1日24時間、どういう人生を送っているかで、長くもなれば短くもなるのだ。
 寿命とは、絶対値ではなく相対値だと、改めて思った。

 受刑者と人生について、いろいろ語り合った。
 刑務所に入ろうと思って生まてきた人間は1人もいないにも関わらず、犯罪に手を染めてしまう。魔が差すというのか、人生は危ういものだと、刑務所に行くたびにいつも思う。

 そんなことを考えれば、極楽トンボじゃ、やっぱりマズイのではないか――今度は反省した次第。

 3月、4月は3冊+αで執筆が重なるので、それぞれ編集者に〆切について延期を打診するが、前々からの約束とあって2社は冷たくノー。1社だけ、あたたかい返事に、感謝、感謝。

 いま朝の5時30分。こんなブログを書きつつ、今日という1日が始まる。
 
 

投稿者 mukaidani : 05:09

2007年03月05日

花粉症のため、原稿持参で連夜の〝風呂通い〟

 先日、親父と女房と私の三人で畑へ出かけた。ジャガイモを植える時季が迫ってきたので、その準備のためだ。

 親父が指示し、女房と私が畑を耕す。親父は84歳と高齢のうえ、胸部に動脈瘤を持っているため、もっぱら〝指揮官〟というわけである。

 私はジャガイモが大好物なので、それは熱心に耕し、石灰を撒き、肥料をやって畑をつくった。しばらく寝かせ、それからジャガイモを植えるのだと、鍬を杖代わりにした〝指揮官〟がレクチャーする。
 近所に住む曾孫が遊びに来ると、一所懸命に機嫌を取る好々爺も、〝指揮官〟になると、毅然とするから面白い。

 ついでながら、親父も女房も私も花粉症である。
 三人がマスクで顔を覆い、畑を耕す姿は、ちょっと異様である。

 だが、畑仕事なら、花粉症でも何とかなるが、原稿を書くのは難儀だ。
 花粉症で鼻水がたれ、かつ詰まるため、思考力が鈍るからだ。
 非才を棚に上げ、思考力が鈍るせいするから、ますます原稿が進まなくなるという悪循環になるのだ。

 そして、こんなときに限って原稿の締め切りが続く。

 そんなわけで、風呂に入れば鼻の通りが少しはよくなるため、連夜、健康ランドへ原稿持参で出かけている。
 湯船につかり、鼻の通りをよくし、あれやこれやと頭の中で推敲し、風呂から上がると休憩室で原稿の手直しをする。

 ところが、鼻の通りはよくなるのだが、連夜とあっては、湯疲れもハンパではなく、帰宅して、そのままバタンキュー。結局、原稿は進まないということになる。

 この言い訳が通じるかどうかは、編集者が花粉症で、そのつらさを知るかどうかによるのだ。

投稿者 mukaidani : 20:07