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2007年01月30日

講演のあと、「人間関係」について考えた

 
 昨日、東京商工会議所品川支部の依頼で、「殺し文句」についてセミナー講演をした。

「殺し文句」とは、人を納得させ、行動に駆り立てる技術である。私は心理学者ではないので学問的な話はできないが、これまでの経験を基に、どうすれば人は動くのか、どう持ちかければ納得するのかをお話した。

 メモを執る人など、みなさん熱心で、講師の私も力が入ったが、講演のあとで再認識したのは、「人間社会は、結局、人間関係がすべて」ということだった。

 だが、「人間関係」という言い方には、「妥協」というニュアンスがある。テクニカルなイメージがある。自我を殺して周囲に迎合する生き方のように思ってしまう。そういう生き方を潔しとせず、「我は我なり」という人生でありたいと願う。

 私もそう思って生きてきた。「我が儘」「言い出したら聞かない」「唯我独尊」――身内からはそう思われてきた。

 それが最近、変わってきた。

「自分があって社会がある」のではなく、「社会があって自分がある」と思うようになった。当たり前のことだが、これまで頭でわかっていたことが腑に落ちたのである。得心したのである。

 五十六歳という年齢のせいか、得度して仏門を勉強し始めたせいかわからないが、「人間関係」がすべてだと心底、思うようになった。

 同じ間違いであっても、A氏なら許せて、B氏なら絶対に許せないということがある。頼みごとでも、そうだ。利害を超えて、人間関係は成り立っている。

 自我が強く、周囲との協調意識が低いため、能力を発揮できない人がいる。
 そんな人間を評して、
「有能だけど、人間関係に問題がある。惜しいね」
 と言ったりする。

 これは間違いなのだ。
 人物評価は、「能力」+「人間関係」ではなく、「人間関係」+「能力」なのだ。
 つまり、人間関係がうまくいって、次に能力がものを言う。
 それを私たちは逆に考えている。

 人間関係もまた「能力」なのだ。
 この能力とは、全人格を言う。
 すなわち、人間関係の能力を身につけるには、全人格を磨くことに他ならない。

 全人格が能力を凌駕するのは自明の理であり、だから「人間関係」が先にあって次に「能力」だと、私は思うのである。

 人間関係に悩む人は多い。
 そうい人は、大きな勘違いをしている。
 人間関係は、悩んで当然なのである。悩まないほうが、どうかしているのだ。

 人間関係の悩みを解決する方法があるとすれば、それは全人格を磨くこと。
 磨こうと努力すること。
 自戒の意を込めて、私はそう思うのである。



投稿者 mukaidani : 10:20

2007年01月28日

「欲のバルブ閉鎖」をもって悟りとす

 人生とは、モノを獲得し、所有していくことである。
 オギャーと生まれて、まず生きるための知恵を身につける。だから腹が減れば泣いて親に知らせる。

 学校に上がってからは、勉強を通じて知識を得る。損得という利害を知る。人間関係を知る。競走に勝つことの意味を知る。

 社会に出てからは、金銭を得、伴侶を得、地位を得る。このほか、家や車、馴染みの飲み屋など、実に多くのモノを獲得し、所有していく。

 むろん、いいことばかりではなく、苦労も背負う。
 これが、人生なのだ。

 ところがお釈迦様は、
《何者も「自分のもの」ではない、と知るのが知恵であり、苦しみからはなれ、清らかなる道である》
 と説く。
 つまり、
「地位、名誉、財産、家庭、健康……など、すべては〝自分のもの〟ではないということを知り、所有に対する執着を捨てれば、物欲から解放され、幸せな気持ちになれる」
 と言うわけだ。

 確かに、お釈迦様の言うとおりだと思う。
 だが、「人生=所有」という日々を生きてきて、
「家も財産も、自分のものじゃないと思え」
 と言われても、凡夫たる私たちは、
「はい、そうですか」
 とはならない。
 せっかく手に入れたのに、冗談ポイだろう。

 そこで、私は、こう考える。
 たとえば、ある年齢を設定し、そこに至るまでは「バルブ全開の人生」を、そして、その年齢に達したら、「バルブ閉鎖の人生」を生きるというものだ。
 たとえば五十歳で線を引くなら、この歳になるまで、とことん努力する。会社では出世をめざす。趣味も手を広げる。テニスクラブに入会するのもいいだろう。頼まれれば、町内会の役員も引き受ける。

 だが、五十歳を迎えたら、そこを、人生という名の放物線の頂点と考え、獲得のバルブを締めるのだ。
 所有しているものを捨てるのではなく、これ以上、所有しないのだ。
 そうすれば、供給がなくなるのだから、放物線が緩やかに下降するように、人生のソフトランディングができるのではないか。
 私は、そう考える。

 もちろん、
《何ものも「自分のもの」ではない》
 という悟りの境地に達すればベスト。
 それが叶わぬ凡夫であるなら、「欲のバルブ閉鎖」をもって、悟りとしたい。

投稿者 mukaidani : 07:42

2007年01月17日

人の心は〝ブラックボックス〟

人間には、「理性」と「感情」が同居している。
 だから、やっかいなのだ。
(あの野郎、虫が好かねえな)
 と、心のなかでは思っていても、利害関係にあれば、
「お世話になっています」
 理性で、ニッコリ笑顔である。

 だから相手の笑顔を額面どおり受け取って、
(あいつは、オレに好感を持っている)
 と浮かれていると、そのうち強烈なシッペ返しを食うことになりかねない。人間の心は不可解(ブラックボツクス)であり、誤解と思い込みによって、悲喜こもごもの人生ドラマが繰り広げられるわけである。

 言い換えれば、もし相手の心が読めたなら、これほど強いことはない。〝人生ドラマ〟こそ味わえないかもしれないが、ことビジネスにおいては大変な威力を発揮する。
「この値段が限界ですわ。これ以上、まからしまへん」
 と渋面をつくる営業マンが、心でアッカンベーをしていることがわかれば、
「あっ、そ。じゃ、やめや」
 ブラフをカマすことができる。

 あるいは、
「悪いようにはしないから、ここは責任をかぶってもらえないか」
 という上司の言葉が、心にもないものであることがわかれば、
「ノー」
 と返事ができる。

 だから古来より、心というブラックボックスをのぞき見ようと、いろいろな占いが生まれ、発展してきたのである。

 このことは、天台宗開祖の最澄も同じ考えだったようで、人の心を推し量る方法として、
《風色見難しと雖も、葉を見て方を得ん。心色見えずと雖も、しかも情を見れば知り易し》
 と説いた。

 すなわち、
「形のない風も、葉の動きを見ることで実体を知ることができる。心も同じで、形こそないが、情の動きを見ることで、心のなかがわかる」
 という意味で、喜怒哀楽など感情の微妙な変化を感知することによって、相手の心を読みとることができると言うのだ。

 空手の組手試合をしていて、ある一瞬、相手の目に〝怯えの色〟を見て取ることがある。それがどんな色かと訊かれても困るが、精神を集中して対峙していると、確かに色が見えるのだ。相手の怯えた気持ち――すなわち心のブラックボックスが、相手の目を通じて一瞬の光を放つのである。

「形のないものを見る」――この素晴らしい能力を、実は私たちすべての人間が備えているにもかかわらず、そのことに気づかないでいる。漫然と生きるとは、そういうことを言うのだ。
 

投稿者 mukaidani : 16:53

2007年01月15日

コンプレックスは解消することができるか

 背の低い男がいた。
 子供のころから「チビ」のあだ名で呼ばれていた。
 高校生になって恋をして、フラレた。
「背が低いから」
 それが理由だと人づてに聞いた。

 このときから彼は、コンプレックスに苛まれるまれるようになった。
 牛乳を飲み、鉄棒にブラ下がった。〝身長伸ばし器〟という怪しげな機械を通販で買った。結局、チビのまま社会人になった。

 彼は仕事に没頭した。
 チビというコンプレックスを、仕事でハネ返そうとした。
 彼は同期の出世頭になった。

 彼はコンプレックスを解消したのだろうか?

 答えはノーだ。
 出世は「代償行為」であって、決してコンプレックスの「解消」にはならないのである。

「コンプレックスは飛躍のバネになる」
 というのは〝人生指南〟の常套句だが、いくら出世したとしても、それが代償行為であるなら、結局、コンプレックスを抱いたまま人生を送ることになる。出世すればするほど屈折する。これではハッピーとは言えまい。

 コンプレックスは「バネ」にするのではなく、「武器」にするのだ。

 某広告代理店に、肥満体の営業マンがいる。
 W君と言う。28歳。身長170センチで、体重120キロ。肉の塊である。
 小学校時代は臨海学校があり、裸になるのが恥ずかしくて、死ぬほどの苦しみだった。コンプレックスから引っ込み思案になる。彼女もできない。中学、高校、大学と青春時代は暗かった。

 そんなW君がガラリと変わるのは、広告代理店に就職してからだ。

「キミと会った人間は、キミを絶対に忘れない。その体型に感謝だな」
 上司である辣腕の営業部長が、彼を見て真顔で言った。
「営業の仕事は、まず自分を売り込むこと。しかしキミは、すでに存在自体に強烈なインパクトがある。いい仕事ができるだろう」
 辣腕上司のこの発想に、W君は〝目からウロコ〟だったと振り返る。

 それからは肥満を〝武器〟にした。
「私が乗ったら、エレベーターがミシミシ鳴ってましたが、大丈夫ですかね」
 クライアントを訪問して、そんな冗談を飛ばす。
「じゃ、エレベーターを落としてよ。新機種に変えるチャンスだから」
 相手も、肥満をサカナに軽口を叩ける。
 こうしてW君は次第に人気者になり、「凸凹社の関取」という異名で、名を馳せていくのである。

「肥満体で本当によかった」
「チビだったから、いまの私がある」
 自分が抱いてきたコンプレックスに対して、感謝の〝演出〟ができれば、コンプレックは雲散霧消するのである。

投稿者 mukaidani : 11:45

2007年01月04日

年頭の覚悟は「のたうつ1年」

 1年前の正月から、このブログを書き始めた。

 その最初のメッセージに何を書いたのかと思い、バックナンバーを見てみると、「正月は人生のリセットである」と書いている。

《だから今年は、いろんな時節をとらえて人生を積極的にリセットすることに決めた。一度でうまくいかなければ、何度でもリセットすればよい。節分、お彼岸、年度始まり、端午の節句……。書き損じた人生は、ポイとクズ籠へ放り込めばいいのだ。》
 一文を、そう締めくくっている。

 あれから1年。
 振り返れば、節分と言わず、お彼岸と言わず、我が人生は書き損じの連続で〝毎日がリセット〟であった。と言うことは、正月から1年、何の進歩もなかったということなる。

 何をもって「進歩」とするかは人それぞれなので、ここでは語らないが、私にとって「こう生きたい」と願った1年ではなかったということである。

 で、今年は、その逆をやってみることにした。
 書き損じた人生をポイとクズ籠へ放るのではなく、トコトンこだわってみるのだ。

 すなわち、
《煩悩せざらんことをほっせば、今すべからく煩悩すべし。思量せざらんことをほっせば、今すべからく思量すべし》(大慧宋杲著『大慧普説」巻4)

 この言葉は、最愛の息子を亡くした湯思退(とう・したい)が、宰相という立場から泣くこともできずに苦悩する姿を見て、大慧が語りかけたものだ。
「悩みたくないと望むなら、いま悩みなさい。思い煩いたくないと望むなら、いま思い煩いなさい。我が子を亡くして泣かない親がありましょうか、どうぞお泣きなさい」
 と言って諭したのである。

 この教えの意味するところは、
「悩み切ること」
「泣き切ること」
「思い煩い切ること」
 といったように、苦悩や悲しみを、その場で全部出し切って心を空にし、引きずるな、ということだ。

 人生は、喜怒哀楽と道連れの旅である。
 騙されれば頭にくるだろう。
 大失敗すれば、泣きたくなる。
 ここ一番の難事を乗り切ることができれば、
「バンザイ!」
 と叫びたくもなるだろ。

 だが、社会的立場だとか、世間体などを考えて、喜怒哀楽をぐっと我慢せざるを得ないこともまた、往々にしてあることだ。

 大慧は、この我慢がよくないと説く。

 自我を殺し、平然としていられるなら、それはそれで立派なことだが、多くの人は、我慢することがストレスになってしまう。
 泣きたいときに泣けなければ、悲しみをずっと引きずることになる。
 怒るときに怒らなければ、怒りをずっと引きずることになる。
 悩みの解決を先送りすれば、ずっと悩み続けることになる。
 これがよくないと、大慧は諭す。

 だから、世間で言うではないか。  
「泣いたカラスが、すぐ笑う」
 泣き切れば心から悲しみは消えてしまうのだ。

〝瞬間湯沸かし器〟でカミナリを落とす人は、怒りを後に引きずらない。
 反対に、怒るときに怒らない人は、ネチネチといつまでも嫌味を言うのである。

 今年1年がどうなることやら自分でも見当がつかないが、1つの試みとして一切のリセットをやめ、人生という日々の現場で「のたうつ年」にしてみようと思っている。

「のたうつ」とは、悶え、苦しむことだけではない。
 解決を求めて、ジタバタすることでもない。
 どんな困難に直面しても、泰然自若。笑顔で淡々と耐えることもまた「のたうつ」であろうと、私は思っている。

 それができるかどうか。
 楽しみながら、今年1年を送ってみたい。

投稿者 mukaidani : 23:15