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2006年12月28日

短い人生、そんなに急いでどこへ行く

 昨夜、上海旅行から帰ってきた。
 カミさんと一緒で、しかも2泊3日というあわただしい旅行であったが、片道3時間前後のフライトであれば、国内旅行のようなものである。

 上海は私は2度目で、前回は数年前。『漫画アクション』で上海を舞台としたビジネスマン劇画を連載するための原作取材だった。

 たまたま私の友人に、上海にめっぽうくわしい人間がいて、彼に同行してもらった。もちろん現地にも彼の友人がたくさんいて、その友人たちのお世話で上海のいろんな〝顔〟を取材させてもらった。

 それで、私としては上海がわかったつもりでいたのだが、今回、カミさんを連れて行って、実は何も知らなかったことにガク然とした。

 なぜなら前回は、現地の人たちにまかせきりであったため、どこをどう移動したかわからないのである。店の名前も、場所も、な~んにもわからない。上海に地下鉄が走っていることさえ知らず、「どこがくわしいのよ」とカミさんがあきれていた。

 で、今回は3日間、移動は地下鉄にした。
 あとは徹底的に歩いた。
 道を間違え、遠回りし、カミさんはブツブツ言っていたが、遠回りしたことで、思いもかけぬ光景や発見がたくさんあった。たとえばケンカが始まり、公安がパトカーで駆けつけ、当事者の首根っこを引きずるようにして連行して行った光景など、道を迷ったからこそだ。日本の警察では、こうはいくまい。中国における公安(警察)の権力については知ってはいたが、こういう光景を目の当たりにして、ナルホドと得心したという次第。

 旅行に限らず、人生もしかり。
 道を間違えたり、遠回りしてこそ、新たな、そして予期せぬ発見があるのだということを、今度の上海旅行でつくづく思った。

 新たな発見をして何の意味があるのか、と反論する人もいるだろう。私もう思う。ただ、人生は、最終目的地は「死」と定まっているで。誰もが、ここに到着する。

 目的地が定まっている以上、道中を楽しむべきではないか、と私は考える。
私にとって、人生街道の楽しみの一つは、「予期せぬ発見」であるということなのである。
  
「短い人生、そんなに急いでどこへ行く」
 上海で、そんなことを思った次第である。 

投稿者 mukaidani : 10:04

2006年12月25日

クリスマスイブに思う

今日はクリスマスイブ。
 
これまでジングルベルが街に流れていても気にならなかったが、得度して僧侶のになった今年は、何とも耳について仕方がない。

 宗教的な意味合いで、日本人がクリスマスを祝うのではないということは承知していても、何とも複雑な心境である。

「美しい日本」とは、「日本の美徳」の再発見だろうと思う。言い換えれば、ジングルベルに決別したとき、私たちは真に「日本の美徳」に気づくのかもしれない。

 1月、私にとって初の時代小説『江戸の闇鴉』(ベスト時代文庫)を出す。江戸時代の勉強を通じて、日本には素晴らしい「美徳」があったことを再発見した。

 ジングルベルが耳につくのは、僧侶になったことよりも、そのせいかもしれない。

投稿者 mukaidani : 00:09

2006年12月16日

「本論」より「余談」を大事にすべし

 昨日は午後から『Big tomorrow』誌の取材があった。

 週刊誌記者時代、私は「取材する側」で、「使える話」が引き出せるかどうかは、取材する側の力量だと思っていた。
 ところが「取材を受ける側」になってからは、「使える話」ができるかどうかは、取材される側の力量だと思うようになった。

 インタビューは双方の努力によって成り立っているという、この当たり前のことが、両方を経験して初めてわかるようになったという次第。

『Big tomorrow』誌は、女性編集者と男性記者、それにカメラマンのお三方がお見えになったが、さすがに優秀な方々で、「取材される側の力量」によって楽しい取材であった。

 これまで、いろんなメディアの取材を受けてきた。
 面白いのは、印象に残る記者と、そうでない記者がいることだ。

 で、つらつら考えてみるに、印象に強い記者に共通することが2つあることに気がついた。

 1つは、インタビューの最中、私に対して、さりげなく人物評価をしてみせる記者だ。「向谷さんは○○な人かと思っていましたが、お会いしてみると○○ですね」といったことだ。
 つまり人間は、社会的生き物である以上、潜在的に「評価」や「印象」、自分がどう見られているかということを気にしているということなのだろう。

 2つ目は、ときおり取材の本筋から離れ、私の「趣味」や「経歴」、「人生観」などに話をさり気なく振る記者だ。こういう質問は、「自分に興味を持ってもらっている」という気持ちにさせるのである。
 だから、気分がよくなる。記者に好感を抱く。だから印象が強くなるのだろう。

 このことから、取材に限らず、営業でもそうだと思うが、仕事の正否は、いかに相手に好感を抱いてもらえるか、ということに尽きるのではあるまいか。
もっと言えば、「本論」より「余談」が勝負ということなのである。
 人生も、しかり、ということか。

投稿者 mukaidani : 09:29

2006年12月13日

人生もまた「時宜」を得て花開く

 この日曜日に沖縄で古武道の演舞会があって、我が昇空館から、私を含め十余名が参加した。これで今年の行事はすべて終わり、あとは二十三日の稽古納めと忘年会を残すのみとなった。

 年内渡しの原稿も一段落で、少しずつ仏教の勉強に取りかかっている。

 仏教と言えば、私は四年ほど前に「お経」をテーマにした本を書いたことがある。『お経は最強の実戦ビジネス書だ』(双葉社)という本だ。「ビジネス」とくっつけたのが姑息だったか、思ったほど売れず、いまや絶版になっしまった。

 しかしながら、中身にはいささかの自信がある。
 高僧の教えや経文を題材にして、私流に解説したものだ。このまま絶版にしておくには忍びなく、折に触れてこのブログに転載したいと思うので、一読願えれば幸である。

 で、さっそく今回は、法然上人(浄土宗)で、以下、転載である。

         *  *

「ほのお(炎)は空にのぼり、水はくだりさまに流る。菓子(なし)のなかにすきものあり、甘きものあり。これらはみな法爾(ほうに)の道理なり」(『四十八巻伝』(法然上人行状絵図)


 法然上人のこの教えの意味は、説明するまでもない。
 炎は立ち上り、水は下流へと流れて行く。菓子(果物)には酸っぱいものもあれば甘いものもある――。
 一読して判然。
「当たり前じゃん」
 と言われれば、そのとおり。
「太陽は東から昇って、西に沈む」
 と言っているようなもので、
「法然もたいしたことないじゃないか」
 と揶揄されそうである。
 だが、この「当たり前のこと」に私たちの何人が気づき、生き方の指針にしているだろうか。
(こうありたい、こうしたい、あれが欲しい、これが欲しい)
 と、欲望に突き動かされ、実現しないことに苛立つ。
 思い通りの人生にならないことに、不満を抱く。
 だが、出世も、幸せも不幸も、損も得も、いや自分の存在そのものが、天の配剤によるものとしたらどうだろう。
 川の水が下流へ向かって流れて行くように、私たちの人生もまた意志と関わりなく、日々は過ぎていく。この「当たり前」のことに気づき、いたずらに欲望や願望に振り回されることなく、淡々と自然の流れに身をまかせることが大事である――法然はそう説いているのである。
 願望や欲望は、「期待」という言葉に置き換えられる。
「給料を上げて欲しい」
「出世したい」
「仕事で手柄を立てたい」
 志(こころざし)とは、「期待」と同義語なのだ。
 だから、苦しむ。
(こうありたい)
 と、現状を超えたものを求めるのだから、そのギャップだけ苦しむのは道理なのである。
 自然の流れに人生を委(ゆだ)ねることの大切さは、ここにある。
 もっとわかりやすく言えば、たとえば花がそうだ。
 桜は春に咲く。
「オレは真夏に咲きたい」
 と桜が欲しても、それは無理で、努力の及ばざることなのだ。
 反対に、春という季節を迎えれば、咲きたくないとゴネても、蕾は勝手に開いてしまう。
 これが天地の真理――すなわち、
「炎は立ち上り、水は下流へと流れ、果物には酸っぱいものもあれば甘いものもある」
 とする法然の教えなのである。
 桜が、春という季節を迎えて咲くことを、
「時宜(じぎ)を得る」
 と言う。
 我が人生が、いつ時宜を得るのか。
 あせるのではなく、その日が来るのを楽しみにしながら、季節の移ろいに身をまかせる。
 それが、人生を楽に、そして幸せに生きるコツなのである。

投稿者 mukaidani : 16:17

2006年12月06日

高速道路で「この道一筋」の意味を考えた

 ここ一週間、風邪で苦しんだ。
 下痢である。
 尾籠な話で恐縮だが、いま流行の風邪は胃腸にくるそうだ。

 で、先週の金曜日。医者で薬を処方してもらったのだが、3日たった月曜日になっても下痢が治らず、ならば逆療法で勝負しようと、焼き肉を腹一杯食べた。

 結果はどうか。
 死ぬほど苦しんだ。
 それまで〝特急〟だった下痢が〝新幹線〟になってしまったのである。

 しかし、夕方、都内で所用がある。
 キャンセルしようかと思ったが、小一時間ですむ用事だ。頭を下げるのも癪なので、下痢止めを呑んで、自宅のある千葉県佐倉市から車を運転して出かけたのである。

 方向音痴の私にとって、頼りはいつもカーナビ。縮尺は50m~200mの詳細サイズで見るのだが、このときどういう操作をしたのか、画面の地図がうんと小さくなって、千葉県から東京都までが画面に映ったのである。

 驚いた。
 何に驚いたかと言うと、私の車が東京湾に向かっていたからである。驚くほうが間違いで、考えてみれば、私が高速に乗った四街道ICから道路は南下し、千葉北ICを過ぎたあたりから東京方向(西)に向かう。高速道路は直線道ではないのだ。

 だから東京湾に向かっていて何の不思議でもないのだが、頭の中の地図では、佐倉市から一直線に東京――西方向に向かって走っている。カーナビは50m~200mの設定で目前しか映らないのだから当然だろう。私の感覚では、東京湾など方向違い。「思いこみ」とは何とも怖いものであると再認識した次第である。

 そんなことから、ふと人生も似たようなものだと思った。
 自分が思い描く道筋と、現実は必ずしも一致しないのである。東京(目的)へ向かってひた走っているものとばかり思っていたら、東京とは方向違いに走っていて、驚くこともあるのだ。

 ただし――ここが肝心なことだが――私が走った高速道路のように、道路が曲がっているため、途中は方向が目的地と違ってはいても、走り続ければ、やがて目的地につく。

 ところが、
「あっ、方向がちがう」
 と、あわててルートを変えるとどうなるか。
 せっかく順調に目的地に近づいているのに、道を外すことになる。

 人生に夢を描き、目的を持ち、それに邁進する。自分の頭の中における日々は、夢や目的に一直線に近づいていくように思っている。

 ところが現実は、紆余曲折して、しかも山あり谷あり。
「あれッ。この道は違ってるんじゃないか?」
 と迷いが生じることになる。

 このとき、どうするかで、人生は決まる。

 人生の敗者は、あわてて道を降りる。

 「この道一筋」とは、単に一つことを継続するという意味ではなく、選び取った道に迷いを挟まないことだと、私はこの日、運転しながら思ったというわけである。

 ついでながら、都内までの行き帰り、それぞれサービスエリアで用を足し、なんとか〝無事〟に帰宅することができた。
 

投稿者 mukaidani : 02:00