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2006年10月30日

「山本モナって、誰だ?」

《てるてる坊主》に《ないない坊主》という言葉がある。
 私が勝手につくったものだ。 

「あっ、それね。知ってる知ってる」
 これが《てるてる坊主》で、
「何のこと? 知らない知らない」
これが《ないない坊主》である。

 どちらも、自分という存在を、より大きく見せようとするときに発する言葉だ。

「安倍総理? 知ってる知ってる。オレの先輩に山口県出身の人がいてさ。その先輩の親戚の人が、安倍総理の関係者の友人と知り合いなんだ」
 こんな調子で、いかに自分の人脈が広いか、自慢にならない自慢をする。《てるてる坊主》にかかれば、安倍総理どころか、ブッシュだってプーチンだって〝知り合い〟になってしまうのだ。

《ないない坊主》は、その逆だ。
「オレ、コーヒー」
 女性客と一緒にファミレスに入ってきたホストが注文する。
「では、あちらのドリンクバーでお願いします」
「それって、持ってきてくれないって意味?」
「はい、ドリンクバーになっておりますので」
「ヘェーッ、ファミレスってそうなんだ。知らなかったなァ」
 女性客に肩をすくめてみせる。「知らない知らない」と強調することで、「オレって、ファミレスなんか行かないもんね」 と、言外にホストの兄ィちゃんはカッコつけているのである。

 どっちも、姑息な連中だと、私はバカにしていたのだが、先日、私は、結果として、似たようなカッコづけをしていたのだ。

 酒席でのこと。
「でも、山本モナって、いい女ですよね」
 と、編集者の一人が話を振ってきたのだが、私は「山本モナ」を知らなかった。
「AV嬢?」
「まさか」
「ああ、倖田來未のライバルか」
「ゲッ」
 ヘタな冗談だと思ったのだろう。座が一瞬シラケた。

 だが私は、「山本モナ」という名前も顔も、本当に知らなかったのだ。
 民主党のナントカという議員が女性キャスターと不倫して云々……というニュースは知っていたが、その相手の女性については、とんと興味がなかったからである。
 それに、テレビを見ることはめったにないし、このところ何だかんだと忙しくて、週刊誌も読んでいない。だからスキャンダルの相手が「山本モナ」というキャスターであることも、「山本モナ」がどんな女性であるかも知らなかったのである。

 ところが、一緒にいた連中は、
(山本モナの一件を知らねぇわけないだろう。カッコつけやがって)
 そんな目で私を見ている。ファミレスのドリンクバーを「知らない知らない」と言ってみせた《ないない坊主》を見る目つきだったのである。

 このとき、私は悟った。
「みんなが知っていることは、知っていなければならないし、みんなが知らないことは、知る必要がないのだ」——と。

 つまり、「長いものには巻かれろ」という処世訓の意味が、なんとなく理解できたのである。

投稿者 mukaidani : 17:23

2006年10月19日

「いじめ」で見落としてはならないもの

 いじめによる児童生徒の自殺の報に接するたびに、胸が締めつけられる。
 十代の子供が、いじめられるつらさより死を選ぶのだ。
 その心中は察して余りある。

 同時に、学校の対応、教育委員会の〝隠蔽体質〟に怒るのは私だけではあるまい。実際、抗議のメールや電話が殺到していると言う。

 さすがに文部科学省も、ここまで社会問題化すれば放ってもおけず、全国の教育委員会担当者を集めた緊急連絡会議を東京都内で開き、
「いじめの未然防止とともに、問題を隠さず、迅速に対応することが必要」
 と、取り組みの徹底を求めた。

 だが、これによって、学校は真剣にいじめ防止に乗り出すだろうか。

「無理だろう」
 と、私の知人で現役教師は、そう前置きしてこんなふうに語る。
「いじめに限らず、生徒が事件を起こすたびに、学校側は〝信じられない〟というコメントを出す。なぜだかわかりますか? もし事前に学校側に懸念があったとしたら、〝なぜ早く手を打たなかったんだ〟と責任を追及されるからです。だから校長も教師も、懸念を抱いていたとしても、〝まさか〟〝信じられない〟と言うしかないんです」

 この現状をどうとらえればいいのか。

 教師の質の低下をあげつらうのはやさしい。周知のように、ワイセツな事件を起こし、これが教師かとあきれることもある。
 だが、私は保護司をやっている関係で知っているが、生徒のことを親身になって考え、行動する熱血漢の教師も少なくないのだ。学校批判と同時に、私はその教師たちの無念さに思いを馳せる。

 メディアの論調を見ていると、いじめ問題が起こるたびに、学校と教師を批判する。

 なるほど、批判されて当然の体質である。

 だが一方で、「いじめをする側」について、なぜもっと報道しないのだろうか。「自殺の原因」については熱心に報道するが、「なぜいじめるのか」――個々の原因ではなく――「なぜ弱い者いじめをするような子供に育つのか」ということについて、問題提起をすべきではないだろうか。

 家庭教育の在り方である。
 しつけである。
 もっと言えば、人間の尊厳に対して、親がどう子供に教えているのか、ということである。
 口はばったいようだが、保護司として、空手を通じて子供たちを指導する一人として、僧侶の末席で仏法の勉強を始めた一人として、そのことを痛切に感じないわけにはいかない。

 安倍内閣は「教育改革」を掲げている。
 その取り組みは評価したい。
 だが、「教育」は学校まかせにしてはいけないということに、私たちは気づくべきだろう。
 すべての基本は「我が家」にあるのだ。

投稿者 mukaidani : 22:43

2006年10月15日

鰻屋の主人が語った人生論

 千葉県の印旛村に『余白亭』という、鰻と鴨を食べさせる店がある。
 ご主人と奥さんの二人でやっている。
 ご主人は六十代で、奥さんはそれより十歳以上は若いだろうが、屋号のごとく、「人生の余白」――すなわち趣味でやっている店だ。店と言っても、民家に靴を脱いであがる雰囲気で、四人掛けのテーブルが二つだけ。しかも昼間の営業は二時間程度で、夜は予約で一組しか取らない。まさに、趣味の店のなのである。
 それだけに安くてうまい。

 このご主人は、建設会社の社長をやったり、趣味が高じて美術商に転じたりと波乱の人生を送った人で、あれこれ人生の蘊蓄を聞かせていただくのが楽しく、私はときどき顔を出す。

 で、先日、鰻を食べに行ったときのこと。

 著名な陶芸家の湯呑茶碗を出してきて、
「持ってごらん。どう? 軽いでしょう。湯呑はね、見た目は重く、手取りは軽く――というのがいいんですよ」
 とおっしゃった。

 見た目は重厚だが、実際に使ってみると軽い――という意味だ。

 そして、別の陶芸家の湯呑を出して来て、
「こっちはどう?」
「重いですね」
「茶の経験のない陶芸家が茶器をつくると、こうなるんだね」
 と笑った。

 いくら陶芸の腕がよくても、「それを茶器として実際に使った場合にどうか」という視点がなければだめだ、ということをおっしゃったのである。

 本物とは何か。
 本質とは何か。
 自分は、「机上の空論」を振りまわしてはいないだろうか。
 鰻を食べながら、そんなことを考えた。

投稿者 mukaidani : 18:28

2006年10月09日

「魔が差す」の正体を考える

「なんてバカ奴」――と嘲笑するような事件が、相次いで二つ起こった。
 NHK富山放送局長(54)の万引きと、警視庁交通執行課巡査部長(47)の飲酒運転である。

 放送局長はホームセンターでボールペンや髭剃りなど5千円相当の万引き。巡査部長は都内で同僚たちと飲酒後、電車で自宅のある千葉県大網市まで帰り、そこから自家用車を運転して帰宅途中、千葉県警の検問に引っかかった。
 
 放送局長は辞職し、これまで築き上げた信用と社会的地位を失った。事件が万引きだけに、これからの晩年は暗く、孤独で寂しいものになるだろう。
「魔が差した」
 と局長は語っているが、当人にすれば、まさに魔が差したとしか言いようのない事件だったろう。

 一方、巡査部長は懲戒免職となり、職も退職金も一瞬にして失った。家族は経済的にもイバラの道だろう。飲酒運転取締強化のさなかで、しかも交通執行課の現職警官が飲酒運転をし、検問に引っかかったのだ。巡査長はそうは言っていないが、内心では、「魔が差した」としか説明ができないだろう。

「バカな奴」と嘲笑するのはたやすい。
「どうして、あんなバカなことをしたのか」
 と誰しも思う。

 だが、ここで私たちが考えるべきは、子供でもわかるような「あんバカなこと」をなぜ彼らはやったのか、ということである。

 気のゆるみ、と言えばそうかもしれない。
 タカをくくっていた、と言えばそうかもしれない。

 だが、私が言いたいのは、誰にだって「魔が差すときがある」――ということなのだ。もっと言えば、私たちは正義漢ではなく、「たまたま魔が差さないでいるだけ」ということでもあるのだ。

 実は、このことを教えるのが、親鸞である。

 かいつまんで書くと、次のようになる。

 ある日のこと。
 親鸞が弟子の唯円に向かって、
「私の言うことを信じるか」
 と問うた。
「信じます」
 唯円が答えると、
「ならば人を千人殺しなさい」
 と親鸞が言った。
 驚いた唯円が、
「そんなことはできません」
 と答えると、
「いま、何でも言うことを聞くと言ったではないか」
 と親鸞が責めてから、こう諭したのである。

「おまえが人を殺せないのは、自分の心が善であるから殺さないのではなく、殺すという縁にめぐり会っていないからに過ぎない。逆に、殺したくなくても、殺さなければならない縁に出合えば、殺さねばならなくなる」
 これが、唯円が書いたとされる『歎異抄』13章に出てくる親鸞の宿業論である。

 考えみるがいい。人を殺そうと思って生まれてくる人間はいないし、殺人者になるなど夢にも思うまい。たかだか5千円の万引きで、あるいは飲酒運転で人生を棒に振るなど、誰が思うだろう。

 言い換えれば、「どうして、あんなバカなことをしたのか」と嘲笑する私たちは、親鸞の教えに従えば、私たちが善人なのでなく、たまたまそうせざるを得ない縁に出合わないでいるだけと、いうことになる。

 それほど人生というのは、危ういものなのだ。私たちはそうと気づかないだけで、幸せと不幸の間を仕切る塀の上をヨチヨチ歩きしているだけなのだ。

 このことに気づけば、日々をもっと大切に生きることができる。
「私だけは大丈夫」
 と、根拠のない自信と驕慢を戒めることができる。
 もっと言えば、このような「生き方」を説いていくのが、真宗僧侶の末席につらなる一人として、私の責務ではないか、と思った次第。

 古来より、「明日は我が身」と教えた先人の知恵は、実は、「魔が差す」の正体を指しているように私は思えてならないのである。

投稿者 mukaidani : 01:01

2006年10月01日

女のリアリズムに思う

 房総鴨川市の仕事部屋に来て、カミさんと近くの温泉に日帰り入浴に出かけた。
 いつぞやこのブログでも紹介した曽呂(そろ)温泉だ。山あいに民家のような旅館が1軒あるだけで、入浴客はせいぜい数人といったところ。温泉は茶褐色のコーヒー色。浴槽は狭いが、それでも手足を長々と伸ばすと、風呂好きの私にとってはこの世の天国なのである。

 で、曽呂温泉へ向かう道中のこと。
 あちこちに、深紅の彼岸花が咲いていて、
「ああ、きれいね」
 と、カミさんが運転する私に言った。
「そうだね」
 と返事すればいいものを、
「彼岸花は色彩が強烈で、自己主張が強すぎるな」
 と異を唱えてしまった。

「そうかしら」
 カミさんがちょっと不機嫌になる。
「そうさ。花は、やっぱり雑草の可憐なのがいいね」
 論理の展開上、私がそう言うと、
「それは庭の草を引いたことがない人が言うことよ。庭の雑草を引いてごらんなさい。そんなノンキなこと言ってられないから」
 女は論理を超越して存在するリアリストであることに、このとき改めて気づいた次第。

 それでも、
「畑の草はオレが引いてるじゃないか」
 と反論を試みたが、
「だったら庭の草も引けばいいじゃないの。だいたい、あなたは……」
 私に対する批判は演繹的に展開し、女と議論することがいかに生産性のないものであるか――こう言うとフェミニストの人は怒るだろうが――再認識した次第である。

 来春スタートする離婚時の厚生年金分割制度を前に、社会保険庁が、離婚後の年金額を事前に試算するサービスを本日から始めた。対象は50歳以上で、社会保険事務所に年金手帳や戸籍謄本などを提出して申請すれば、離婚したときの受給額を教えてくれる。

 リアリストの女性に、これからは経済力も備わるのだ。
 熟年離婚は確実に増えるだろう。
 高齢社会の次にくるのは、女性社会ではないか――私は曽呂温泉につかりながら、ふと思った次第である。


 

投稿者 mukaidani : 21:19