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2006年09月27日

「発想勝負」は横着者の戯れ言である

 昨夜、鍼灸院の先生が、道場関係者の紹介で稽古の見学に来られた。年配の方だが、かねて空手・古武道に興味があり、私でも稽古できるか、というのが見学の理由だった。

 温厚で、紳士で、話していて楽しい方だったが、
「上達するには、資質のようなものがあります」
 という質問された。

 珍しい質問である。
 たいてい見学者は、「ケガはしませんか」とか「私でも続きますかね」といったように、「自分のこと」――すなわち主観的な質問するものだが、この方は、客観的な視点から質問されたのだ。

「そうですね。あえて資質を言えば、不器用で愚直なこと、でしょうか」
 と私は答えた。
 器用な人間は技の覚えも早く、試合にも勝つが、「あっ、こんなものか」とタカをくくってしまう。本人は一生懸命に稽古しているつもりでいても、慢心の芽生えてくる。
 ところが不器用な人間は、なかなか上達しない。だからコツコツと愚直に稽古を続ける。その結果、大きく伸びるというわけである。

 すると、この鍼灸医院の先生は、大きく頷いて、
「私どもの世界も同じです。器用な弟子は、一を習って十を覚えた気になる。だから伸びないんですね。その点、不器用な弟子は、まさにコツコツと修行していくから伸びていく」
 そうおっしゃった。

 このとき私は「発想」という言葉を思い浮かべていた。自分は安易に「発想」という言葉を使っていないか――という自問である、

 いまの世の中、「発想勝負」の風潮がある。アイデア勝負と言い換えてもよい。ちょっとした思いつきや閃きで、ビジネスが大当たりするような風潮である。実際、発想ひとつでビッグビジネスに育つことは少なくない。

 だが「発想」を得るには、得るだけの努力が必要であることを、私たちは忘れてはいまいか。努力――すなわち生む苦労をせずして「何かいいアイデアないかな」と中空を睨んでいる。

 そんなことで、アイデアなど浮かんでくるわけがないのだ。

 コップに水滴を貯めるがごとく、悶々と知恵を絞り、それでもアイデアが浮かばず、「ああ、ダメかな」と肩の力が抜けた瞬間に、ふっとアイデアは閃いてくるのである。
 水滴もコップを満たせば、一滴で水はあふれるのだ。ところが私たちはコップに水滴を貯める努力をせずして、水をあふれさせようとしている。「発想勝負」の誤解である。いや、発想という言葉を借りた横着者の戯言なのである。

「妙想飛来」という言葉ある。
 私の好きな言葉だが、妙想はじっとしていて飛んでくるのではなく、不器用に、愚直に努力した結果であることを、この鍼灸院の先生と話をしていて再認識した次第である。

投稿者 mukaidani : 10:37

2006年09月22日

〝子猫殺し〟についての私見

 坂東眞砂子さんの〝猫殺し〟について、一言、私の意見を書いておきたい。

 板東さんが子猫を殺した理由は、私流に解釈すれば、「不妊手術はしたくない⇒これ以上の猫は飼えない⇒殺すしかない」という論理だ。生命の尊厳において、「不妊手術」が「殺すこと」より残虐であるとする価値観である。

 板東氏は毎日新聞に寄稿して、
《他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する》
 と述べている。

 なるほど、板東さんの言うことはわかる。
 だが、理屈で納得することと、自ら手をかけて殺すことは、別次元のことではないかと私は思う。

 もっとわかりやすく言うと、「不妊手術をするのは嫌だ。でも、私が自分の手で子猫を殺すのも嫌だ」――これが人間の情というものだろう。身勝手と言えば、そのとおりなのだ。

 別のたとえで言うと、野良犬を何とかせよと行政に文句を言う。行政の人間は野良犬を捕獲して、薬殺する。つまり「野良犬を何とかせよ」と言うのは「殺せ」と言っているのと同じなのだ。ならば自分で殺せばいいようなものだが、そうはしない。

 自分の手で殺すのは嫌なのだ。
 これが、人間の情というものなのである。

 そうい意味から言えば、自らの手で子猫を殺せる板東さんは――決して皮肉ではなく――すごい人だと思う。

 だが、理由はどうあれ、そしてそれが論理的にいかに正しくとも、殺すという行為は責められべきだ。「殺してはいけない」という大前提――この当たり前の視点から、不妊手術を論じ、猫を飼うことを論じていくべきだと私は思う。

 猫を飼う理由として、板東さんは、
《私は人が苦手だ。人を前にすると緊張する。人を愛するのが難しい。だから猫を飼っている》
 と書くが、人が苦手なのは板東さんの都合であって、猫は何の関係もないことを忘れてはなるまい。

 

投稿者 mukaidani : 18:22

2006年09月19日

「原因」を探ることの無意味

 ドジを踏む。
「なぜ」
 と失敗の原因を考え、それを克服することで人間は進歩する――私は、これまでそう思ってきた。

 だが最近になって、「失敗の原因を探ることは無味ではないか」と思うようになってきた。

 たとえば、知人が飛行機に乗り遅れたときのことだ。
「次から早めに出たほうがいいね」
 と、私が注意して、
「そうするよ」
 と知人が言えば話はこれで終わるが、
「早く出たほうがいいのはわかっているけど、寝過ごしたんだ」
 と言ったことから、話はややこしくなった。

「どうして寝過ごしたんだい?」
「仕事が忙しくて、前夜は遅くまで残業したんだ」
「どうして忙しいんだ?」
「新規プロジェクトが始まったからさ」
 ここまで遡るだけでも、飛行機に乗り遅れた原因は新規プロジェクトということになる。

 さらに、なぜ新規プロジェクトのメンバーになったのか、なぜその会社に入ったのか……と遡っていけば、たぶん出生児、いや両親の結婚、いや両親の出生時……と限りなく過去に遡っていくことになる。

 だから、「失敗の原因を探ることは無味ではないか」と、私は思うようになったというわけである。

 むろん「原因」には、直接原因と間接原因があり、それを承知であえて、
「原因を問うことは無意味だ」
 と私は言う。

 原因を探るのは、いわば〝犯人捜し〟だ。
 なぜ失敗したのか、なぜ自分は不幸な境遇にあるのか……等々、原因という〝犯人捜し〟をし、犯人がわかった段階で精神的に一件落着となる。
 この〝落着感〟がクセ者なのである。

 失敗の原因など、どうでもいいのだ。原因を探せば、ときに自分の出生以前にさえ遡るのだ。そんなことより、失敗したという現実を受容し、次にどういう手を打つか、だけを考えるべきなのだ。

「学習」とは、失敗の原因を探ることではなく、二度と轍を踏まないことなのである。
「だから、そのためにも原因を探らなくては……」
 と考える人は、結局、同じ轍を踏むことになるのだ。

 誰が悪いのでもない。失敗を繰り返すまいとして原因を探る、その考え方が間違いなのである。

 靖国問題しかり、太平洋戦争しかり、中東問題しかり、テロしかり。
「侵略だ」
「いや、挑発した」
 原因を探るのは、結局、何の解決にもならないのである。

 ついでながら、恋愛もしかり、離婚もしかり、親子関係もしかり、学校荒廃もしかり……。「なぜ」を問うているうちは堂々めぐりするだけなのである。

投稿者 mukaidani : 19:47

2006年09月13日

飲酒運転に潜む「明日は我が身」

 私は保護司をやっている関係で、本日、千葉県の市原刑務所へ視察研修に行った。

 ご存じの方もいらっしゃると思うが、市原刑務所は「交通刑務所」だ。飲酒運転による死亡事故や、轢き逃げなどの交通事犯を収容する矯正施設だ。福岡幼児3人死亡事故があったばかりなので、視察研修に行く私の気持ちも暗く重いものがあった。

 私の先入観かもしれないが、市原刑務所の受刑者は、他の刑務所のそれとは雰囲気が違って見えた。飲酒事故や轢き逃げ、重過失の交通事犯は断罪されて当然だが、強盗殺人が「意志」を持った凶悪犯であるのに対して、交通受刑者にはその「意志」が希薄だからだろう。「ちょっと一杯」という甘えが引き起こす重大事件なのだ。

「意志が希薄」であるということは、言い換えれば、「いつ私たちがその立場になるかもしれぬ」ということでもある。
「一杯くらいいいだろう」「家はすぐそこだから」「酔いを覚ましてから帰ればいいや」――そんな安易な気持ちが重大事故を起こし、被害者も加害者も人生を狂わせてしまうのである。

 保護司という立場上、私は細心の注意を払って車を運転をしているが、親鸞聖人の教えを借りれば、「それは私が善人であるからではなく、たまたま悪行を犯さないですむ状況にあるだけであって、人間は誰も、状況によっては罪を犯す」ということなのだ。
 戦争を見よ。
 戦地へ派兵されれば、善良な一市民ですら人を殺すではないか。

 飲酒運転よる福岡幼児3人死亡事故は、痛ましいの一語につきる。
 私にも2歳の孫がいる。空手道場では幼児たちを指導している。愛児を3人同時に失ったご両親の心中たるや、察するに余りある。

 それを思えば、犯人の福岡市職員の非道はいまさら言うまでもない。
 だが、私たちもまた、いつ彼の立場になるかもしれないのだ。そのことを気づけば、飲酒運転など愚かなことはしないだろう。

 すべての元凶は「ちょっとくらい」という自分に対する甘えにある。
 このことは、飲酒運転に限らず、すべてに言えるのではあるまいか。社会の一員としていま私たちに求められるのは、甘えを戒め、厳しく自分を律する心だと私は思うのである。

 市原刑務所で、受刑者を見ながら、そんなことを感じた次第。

投稿者 mukaidani : 00:06

2006年09月07日

凡夫が、死に臨んで平静でいられるや

「人生の一大事に臨んで、自分は平然としていられるか、それとも狼狽するか」――。これが私が自分に課した長年のテーマである。

 一大事の最たるものは「死」だが、死んでしまったら甘受も狼狽もないので、現実としては、死と隣り合うガンの宣告が一大事と言っていいだろう。ガンの宣告を受けたときに、自分はどう反応するか―――という問題である。
 私の母は、私のいまの年齢より二歳若く、五十四歳のときに直腸ガンで亡くなっている。遺伝との関わりは不案内だが、ガンが人ごとでないという気分だけはあった。

 で、先月のこと。
 舌の表面に異物ができた。
 次第に大きくなって小豆大になった。
 表面が剥離し、舌に当たったり上顎に当たったりで痛くなった。

 このとき「舌ガン」という思いがよぎった。

 と言うのも、ここ数年で二冊ほど、故石原裕次郎さんの闘病記の編集に携わったことがあったからだ。裕次郎さんは舌ガンも患っていた。それでピンときたわけである。

 町の耳鼻咽喉科で診察してもらうと、医師が難しい顔で「舌ガンの可能性があります。十日ほど軟膏を塗ってみて、剥離した部分の経過が芳しくなければ、大学病院で細胞の検査を受けてください」と告げた。

 さて、このときの私の心境はどうであったか。

(おっ、ついに一大事に臨んだな)
 と、そんなふうに思った。
 平常心である。
 カッコつけるわけでなく、本当にそうだった。平常心でいられた自分が嬉しく、正直、浮き浮きするような気分だったのである。

 ところが、数日後。
 某社の若手編集者と、久しぶりに打ち合わせで会ったときのことだ。
「ずいぶん、お痩せになりましたね」
 と言われてガク然とした。

 痩せることがガンの兆候だからではない。
 この一年間、酒をやめ、野菜中心の生活にして8キロほど減量したというのに、もし私が舌ガンということになれば、
「ああ、やっぱりねぇ。ずいぶん痩せたと思ってたんだ」
 と、周囲の人たちに言われるではないか。
「ダイエットしたって威張っていたけど、ガンだったんだね」
 笑い話になるではないか。
 そのことにガク然としたのである。

(冗談じゃない)
 と、思った。
 本気で思った。コトに臨んで平静でありたいと願い、ガンの疑いという医者のご託宣に平常でいられた私が、「ガンゆえに痩せた」と誤解されることに動揺したのである。いま振り返れば、ミエもここに極まれりであった。

 幸いにも舌の異物は次第に小さくなり、10日後の診断は「大丈夫でしょう」ということになった。念のため、さらに2週間の経過を見て、無罪放免になった。

 そして、無罪放免になった日の道場で、幼児、1年生クラスを指導しているときのことだった。
 1年生のA子ちゃんに、みんなの前で型の演舞をやらせようとしたところ、道場の真ん中に立って、しきりに帯の結び目を気にしている。帯のことよりも、気にすべきは型の手順だろうに、枝葉末節の帯にこだわっている。緊張しているのだ。

 リラックスさせようと思い、
「A子ちゃん、帯なんか気にしなくていいよ」
 と告げた、その時である。
 私はハッとした。
「ガンゆえに痩せた」と言われることに動揺した自分を思い出したのである。どうでもいいこと――枝葉末節にこだわった自分の精神状態は、本当はどうだったのだろうか、と。

 人間にとっていちばんの苦しみは「死」である。
 私は浄土真宗本願寺派の僧籍を得た人間だが、宗祖親鸞聖人でさえ、
「流転せる苦悩の旧里は捨てがたく、いまだ生まれざる安養の浄土恋しからず」(歎異抄)
 とおっしゃっている。意味は、「ちょっとした病気でも、死ぬのではないか心細く思う」という親鸞聖人ご自身の感慨で、苦の元は人間の持つ煩悩だと説く。

 ならば、煩悩の固まりであることを自認する私が、「死」を恐れないわけがないではないか。
 そのことに思い至ったのである。
 一大事に臨んで、平常心でいたのは、「ガンと決まったわけじゃない」という無意識の希望か、それとも「そんなことがあるわけがない」というタカのくくりか、あるいは動揺の裏返しか……。

「ガンゆえに痩せた」と誤解されることにガク然した自分の気持ちは、本当はどうだったのだろう。
 いま、原稿〆切の手を休めて、あれこれ考えているところなのである。
 

投稿者 mukaidani : 22:44

2006年09月01日

「忙=心が滅ぶ」を論じる

 鈴虫が鳴いているのに気がついたのは数日前のことだった。
 残暑だ真夏日だと言っているうちに、季節はいつの間にかそっと忍び寄り、時の移ろいの早さに、何とも無常を感じる今日このごろである。

 8月は、仏教セミナーや空手の合宿、それに溜まった原稿が追い打ちをかけ、このブログは2週間ぶりとなった。
「書かなきゃ、書かなきゃ」
 と、追われる心を「キャー、キャー病」と言い、これは精神状態によくないので、ブログのことは忘れることにしていた。

 ついでながら、
「○○せねばならない」
 と追われる心を、「ネバネバ病」と言い、
「どうして私ばっかりが……」
 と、不幸感に追われる心を「ばっかり病」と言う。

 まっ、それはさておき、今朝、一週間ぶりに畑に出かけた。
 いつものように5時前に起きたが、曇っていたせいもあってか、窓の外は薄暗かった。鈴虫の鳴き声だけでなく、ここにも季節の移ろいがあった。

 数分遅れて鳴り始めた目覚まし時計を止めて、ふと思った。
(「時間」て、いったい何だろうか……)

 私も、あれやこれやと多忙で、スケジュール帳なしには日々が送れない。

 だが、考えてみれば、手帳に記載された「月・日・時」は、私たちが便宜的に決めた区切りであるにもかかわらず、それをあたかも「時間」や「季節」だと勘違いしているのではあるまいか――。ふと、そう思ったのである。

「9月だから秋」なのではなく、「涼しくなってきたら秋」なのだ。「5時だから朝」ではなく、「明るくなってきたから朝」なのだ。

 それにもかかわらず、今朝、私は5時前に起きて、
「朝が明けるのが遅くなったな」
 と思った。
 主客転倒――「5時=朝」という観念で日々を送る生き方が間違っているということに気づかされた次第。

「忙」という字は、「心が滅ぶ」と書く。
 スケジュール帳と睨めっこの日々に、自分の心が滅ぶのではないかと、ふと思うときがある。もっと、ゆったり生きるべきだろうと反省をしたりもする。

 だが、「忙=心が滅ぶ」も勘違いではないか、と思うようになった。
 忙しいから、心が滅ぶのではない。忙しさによって、人間が決めた「時間」を主軸に物事を見るようになり、主客転倒するから心が滅ぶ。そう思うようになったのである。

 もし「忙=心が滅ぶ」であるなら、「暇=心が栄える」となるが、そうはならないことを、私たちは経験で知っている。「小人閑居して不善をなす」とも言うではないか。

 忙しくてもいい。
 暇でもいい。
 要は、「時間」をどうとらえるか、という主体性の問題ではないか。畑の草むしりをしながら、そんなことを考えた。
 

投稿者 mukaidani : 16:53