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2006年08月15日

小泉首相の靖国参拝に思う

 小泉首相が今朝、靖国神社に参拝した。
 賛否をめぐって論議が再燃しているが、靖国問題の是非はひとまず措くとして、私が注目するのは、元自民党幹事長である加藤紘一議員が、テレビで繰り返し発言している言葉だ。

 すなわち、
「小泉さんは、靖国の問題は《心の問題》」とおっしゃっているが、《心の問題》と《政治の問題》とは区別して考えるべきだ」
 という発言である。

 なるほど、加藤議員の言うとおりだろう。《心情》と《政治》は別であり、政治の世界に個人的心情を持ち込むべきではない。

 だが、この当たり前のことを、加藤議員がなぜ繰り返し発言するのだろうか。

 それは、《心の問題》が《政治の問題》よりも、強く国民にアピールすることを熟知しているからではないか。靖国参拝反対派の加藤議員としては、国民が心情的に参拝に納得してしまうことを危惧しているものと、私は見ている。
 だから「心と政治は別ですよ」と、繰り返し国民にクギを刺しているのだろう。

 靖国問題は一例として、人間は、よくも悪くも感情で動くのだ。
「確かにおっしゃる通りだ。しかし、私はどうしても好きになれないのだ」
 ということが、よくある。
 理屈で正しいことと、納得とは別ものなのだ。
 すなわち、《理屈》でなく、最後は《感情》で態度を決する――これが人間なのだ。

 むろん、感情や、情緒的な気分に流されることの危険性はじゅうぶん承知している。だが、承知してなお、人間は感情の生き物であり、《感情》が《理屈》を超えるということを忘れてはなるまい。

 この人間心理を知らずして、《理屈》で人を説き伏せようとするのは愚かなことだ。《理屈》として正しければ「正義」だと思い込むのは滑稽なことだ。

 靖国参拝反対派の意見を聞いていて、私はつくづくそう思うのである。

 

投稿者 mukaidani : 11:49

2006年08月14日

〝宝の山〟は足下にあり

 80歳を迎えた師匠が、私に言った。
「人生なんて、過ぎてみればあっという間だな」

 知人が、私に言った。
「もう10歳若かったら――とね。つくづく思うんだ」
 知人は86歳だ。

 55歳の私が、青年に言う。
「いいね、若いってことは。何だってできるじゃないか」

 その青年が、高校生にこぼしていた。
「オレ、あと3年で30歳だぜ。いいよな、おまえら」

 他人から見れば、自分が宝の山に寝ていることに気がつかないで、私たちは溜息ばかりついている。モッタイナイという言葉がはやっているが、本当にモッタイナイのは、私たちが「自分の人生」に気がつかないことかもかもしれない。

投稿者 mukaidani : 19:30

2006年08月08日

易(やす)きものに価値なし

「価値」に「絶対値」はない――これが私の考え方である。

 たとえば、鯨肉(げいにく)。
 私が子供のころは牛肉が高くて、鯨肉(げいにく)を〝代食〟していた。
 ところが、いまはどうか。
 鯨肉、高価ですね。周知のように、捕鯨禁止の国際世論のなかでクジラの漁獲量が減ったからである。

 鰊(ニシン)にしても、昔は「猫またぎ」と呼ばれた。大漁で猫も食い飽き、見向きもしなくなったからである。
 それがいまはどうか。
 炉端焼き店に行けば、しかるべき値段でメニューに載っている。猫が跨いで通るものを、人間サマが金を払って酒のツマミにしているというわけだ。

 食べ物だけではない。
 たとえば、ノルマを課せられた営業職は厳しい。成績があがらないときは、つらくて会社を辞めようかと思う。しかし、達成したときの高揚感たるや、病みつきになるほどの快感だと言う。

 鯨肉も鰊も営業職も、その価値は「絶対値」ではなく「相対値」なのだ。鯨と鰊は量的な相対値、営業職はノルマという質的な相対値であり、この質的な相対値を「付加価値」と言う。

 そして付加価値は、難易度に比例するのだ。

 たとえば営業職。上司から「1ヶ月10台の成約を取れ!」とノルマを課せられる場合と、「1台でも2台でもいいから頑張ってくれ」と言われる場合を比較すればわかる。厳しいノルマを課せられたほうに、達成したときの喜びは大きい。同じ営業職でありながら、ノルマという難易度が高くなることによって、付加価値を持ったからである。

 一部ウラ社会の人たちは、付加価値のことを、いみじくも「値打ちをつける」という言い方をするが、難易度――すなわちハードルをわざと高くすることによって、彼らは〝値打ち〟をつけるのだ。
「こらッ、オシマエは、オノレの身体じゃ!」
 ガツンと脅し、ハードルをうんと高くしておいて、金銭解決を落としどころにすれば、
(ああ、助かった)
 と、相手は感謝である。

 ところが、相手のことをおもんばかってハードルを低く設定すると、どうなるか。
「しゃあない。ゼニで勘弁したろやないか」
「ありがとうございました」
 とは言わない。
 (チェ、ゼニ取られてもうた)
 不満タラタラとなる。
 本当は感謝すべきことであっても、そうは思わないのである。

 この人間心理を、「易(やす)きものに価値なし」と言うのだ。

 値打ちをつけるなど、いやらしい駆け引きだが、その駆け引きによって、人間は感謝もすれば、毒づきもする。良くも悪くも、それが人間なのである。


投稿者 mukaidani : 22:50

2006年08月04日

嫌われるなら、青大将よりコブラになれ

 今日は暑い一日になるという予報だったので、早朝5時前に起床して畑へ行った。

 畑に行くメンバーはいつも三人だ。
 私のオヤジと、カミさんと、そして私だ。役割がそれぞれ決まっていて、畑の知識があるオヤジが種を蒔き、苗を植え、肥料をやる。カミさんは当然、収穫係りで、しっかとカゴを用意し、「あっ、インゲンができてる」「あっ、ネギが――」と、嬉しそうな声をあげている。

 私は、何の能力もないので、ひたすら草むしり。
 オヤジとカミさんに背を向けてしゃがみ込み、ただ黙々と草をむしるばかりなので、いつまでたっても畑の知識が身につかない。
「それで、畑は何を植えてるんだい?」
 友人に訊かれて、
「ええっと、キューリとナスとサニーレタスと落花生と……、あと何だっけな」
「それでよく畑をやってるって言えるな」
 友人はあきれるが、私の畑仕事は草むしりなのだから、しょうがないのである。

 で、今朝。
 畑を貸してくださっているS氏が、ミョウガを持って来てくださった。
「ミョウガを採っていたら、マムシがいたんだ」
 S氏は愉快そうに言うが、笑いごとではない。
「気をつけてくださいよ」
「なあに、大丈夫さ」
 S氏は豪快に笑い飛ばしたが、このときふと思った。

(マムシでなく、ハブだったらどうだろう)
 
 私は毎月、沖縄に古武道の稽古に行っているので、ハブの恐ろしさについては承知している。

 だから、マムシでなくハブだったら、Sさんも笑ってはいられなかったろう。

 さらに、ハブでなく、コブラだったら、どうか。エラを張り、鎌首をもたげていたら……。

 このとき思ったのである。

 蛇は嫌われるが、ハブやコブラになると、今度は恐れられる。

 人間も同じで、青大将や、せいぜいマムシでいるから嫌われ、みんなに石もて追われるのだ。ならば、いっそのこと〝コブラ人間〟になればいい。恐怖されれば、みんなは足をすくませる。
 もはや嫌われることはないのだ。

投稿者 mukaidani : 19:10