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2006年07月28日

面白がれば、人生もまた楽し

 学生時代、金はないが、時間はあった。
 要するにヒマなのだ。

 「なんか面白いこと、ないっスかね」
 酒をご馳走になりながら、OBにボヤいたら、
 「バカヤロー。人生、そうそう面白いことがあってたまるか」
 怒鳴られ、翌日からOBが勤めている運送会社で、荷物の積み卸しのバイトをやらされるはめになった。
 以後、人生に退屈すると、このときのOBの説教を思い出しながら、
(そうだよな。人生、そう面白いことがあるわけねぇよな)
 と、自分に言い聞かせるようになったのである。

 そんな私が、
「人生は面白い」
 と思うようになるのは、数え四十二歳、厄年の夏であった。
 知人に、美容外科も手がける耳鼻科医がいて、この先生が、私の小鼻に小さなホクロがあるのを見つけ、
「それ、人相学的によくないね。取ってあげようか」
 と言ってくれた。

 人相学的によくないんじゃ、うまくない。
「痛くないスか?」
「なあに、麻酔を射つときにチクってするだけだよ」
 カラカラと笑うから、安心して耳鼻科の椅子に座ったのはいいが、麻酔注射の痛いこと。鼻のてっぺんに刺すのだ。それも数ヶ所――。

「痛タタタ……、先生、痛いっスよ」
 涙をポロポロ流しながら抗議すると、
「うん、鼻のてっぺんて、痛いんだよね」
 このときである。
 欲得から、「人相学的によくない」という言葉に乗って、鼻のてっぺんに注射されている愚かな自分が可笑しく、涙を流しながら笑いがこみ上げてきたのだった。

 それ以来、
「人生、そう面白いことがあってたまるか」
 と言ったOBの言葉に、
「だから人生は、面白がるんだ」
 という言葉をつけ加えることにした次第である。

 年輩者の酒におつき合いしていると、酔うにつれ、以前聞いた話を何度も繰り返すことがある。
(またか)
 と、うんざりする人もいるだろう。
 話を打ち切ろうとして、
「だから、そのとき辞表を叩きつけたんですよね」
 と、先回りしてオチを口にする人もいるだろう。
 だが、〝一つ話〟も、初めて聞く話だと思えば、新鮮で楽しいものだ。実際、初めて聞いたときは、面白かったはずだ。
《一つことを聞いていつも珍しく初めたるように信の上にはあるべきなり》
 とは、浄土真宗本願寺派八世にして中興の祖である蓮如上人の教えだが、この教えはまた、「面白がるコツ」でもあるのだ。

投稿者 mukaidani : 18:53

2006年07月22日

言葉の〝手形〟に気をつけるべし

 人間は「言葉の生き物」である。
 特に日本では、「言霊(ことだま)」といって、言葉には霊が宿るとしている。

 たとえば、父親の帰宅が遅いとする。
 息子が、
「交通事故にでもあってんじゃねえか」
 冗談で言うと、母親が、
「縁起でもないことを言うもんじゃありません」
 と、たしなめたところへ、警察から電話。
「先ほどご主人が、駅前で車にハネられました」
 母親は、この報せを受けたき、息子に叫んだ。
「あんたが縁起でもないことを言うからよ!」
 言葉=縁起――一例をあげれば、これが「言霊文化」である。

 霊が宿るかどうかは別としても、言葉は人を殺しもすれば、生かしもする。
「ワイは○×組の特攻隊や。殺てもうたるさかい、夜道は気ィつけや」
 こんな電話がしょっちゅう掛かってくれば、ヤクザが実際に行動に移さなくても、気の弱い人なら仕事も手につかず、ノイローゼになるだろう。

 あるいは、会社で、
「キミのような無能な部下は見たこともない!」「今度、ミスしたら辞表だぞ!」――こんな言葉で毎日、上司に叱責されれば、気持ちは背水の陣。おどおどしながら仕事をするから、またドジを踏む、という悪循環になる。

 これがもし、
「ミスなんか気にするな。思い切ってやれ。責任はオレが取る」
 と言ったらどうだろう。
 部下は奮起して、次はいい仕事をするだろうし、励ました上司も、部下の信頼を得ることになる。
 人間を生かすも殺すも言葉ひとつであり、相手を生かすことは、すなわち自分を活かすことなのである。

 このことを仏陀は、《自分を苦しめない言葉、また、他人を傷つけない言葉のみ語れ》と教えるのだが、前段の《自分を苦しめない言葉》について、補足しておきたい。

 自分を苦しめない言葉とは、本来の意味は他人に対する悪口を指し、
「廻りまわって、自分に跳ね返ってくる」
 と諭したものだが、これに私は〝言葉の手形〟をつけ加えたい。
 つまり、実現する前に、しゃべってしまうことである。
「今度、家を買うんだ」
 つい嬉しくなって周囲に話したとする。
 だが、本当にそのつもりでいたのに、諸般の事情で買えなくなったときが問題だ。
「あれ? 家を買うんじゃなかったの?」
「いや、それが……」
 自分がしゃべった言葉に苦しむのである。

 あるいは、
「常務の話では、オレ、今度の人事移動で課長になるらしいんだ」
 正式に辞令が出るまで待てばいいのに、黙っていられなくて、後輩に話したとする。だが、もし何かの事情で実現しなかったら……。

 これが、他人に対して振り出す〝言葉の手形〟なのである。
 言ったとおりの結果――つまり〝入金〟があって決済されれば問題はないが、何かの事情で〝入金〟がなくなれば不渡りになる。
 つまり〝言葉の手形〟は、振り出した時点から、自分を苦しめることになるわけである。
「口は災いの元」とは使い古された言葉だが、その意味は深いのだ。

投稿者 mukaidani : 11:47

2006年07月17日

リスクを承知で〝大風呂敷〟を広げてみたまえ

 大風呂敷――胸躍る言葉ではないか。
 男たる者、大風呂敷のひとつも広げられないでどうする。
「オレの大風呂敷で、地球を包んでやる」――といった気構えは欲しいものである。

 だが、注意すべきは、「ハッタリ」と「気構え」は違うということ。
 何が違うのか。
 本気でやろうと胆をくくるのが気構えで、出ルゾ、出ルゾで一向に出ない真夏の幽霊が、ハッタリ。「有言実行」と「有言不実行」の違いと言ってもいいだろう。

 大風呂敷で大事なことは、包み切ることだ。
 そうすれば、
「あいつは、たいしたものだ」
 と見直される。
 これまでが悪評フンプンであっても、オセロゲームのごとく評価は大逆転である。

 反対に、不幸にして、ただ広げて見せただけで終わると、これはハッタリになってしまう。
「しょうがねえな、あの野郎は」
 と信用失墜である。

 そういう意味で、大風呂敷は、まさに諸刃の剣なのである。

 だから、大風呂敷を広げるときは、
「やり切れるのか」
 という見極めがまず、大事になってくる。
 掛け値なしで、自分の実力を推し量るのだ。
 そして、
(やれる)
 と判断したら、目一杯、風呂敷を広げればいい。
「ホラ吹いてやがる」
「できもしねえくせに」
「口は重宝なもんだ」
 悪口、悪態、誹謗中傷は大歓迎。うまくやったときは、何倍もの賞賛になって帰ってくるからである。

 だからこそ、やり切れるかどうか、自分の実力を知ることが不可欠になる。
 ありのままの自分を知ること――これを《如実知自(にょじつちじ)》と言う。経典の中に出でくる文言で、ビジネスマンで言えば、まさに「自分の実力を知れ」ということになるが、ポイントは「ありのまま」というところにある。

 なぜなら、自分に甘く、他人に辛いのが人間で、自分をありのままに評価するのは至難の業であるからだ。
 ウィークポイントに対しては、眼をつむるか、
(でもさ)
 と、いいように解釈する。
 反対に長所は、
(まっ、オレの実力からすればチョロイもんさ)
 と、拡大解釈である。

 自分の実力を冷静に評価せずして大風呂敷を広げれば、どうなるか。
 包めなくなって恥をかく。
 ハッタリだと言われる。
 ホラ吹きだと嘲笑される。
 そのことを肝に銘じ、リスクを承知してなお、目一杯に大風呂敷を広げて見せるのが男だと、私は思うのである。

投稿者 mukaidani : 19:06

2006年07月10日

51対49の人生をもって最上とすべし

「一般大衆の持っている金を22とすれば、金持ちのそれは78である」――と喝破したのは、日本マクドナルドの創業者にして超リッチマンの故藤田田氏で、「金を儲けようとするなら、金持ちを相手すべし」と説く。外食産業の雄として、多くの成功神話を生み続けた藤田氏の〝金儲け哲学〟である。なるほど、釣り糸は魚道に垂るべきで、雨の水溜まりに魚がいないのは道理である。

 藤田氏の説く「78対22」の根拠は、空気の成分にある。空気は窒素78に対して、酸素などそれ以外のものが22の割合になっている。このことから、宇宙はすべて78対22に分割されるとし、藤田氏はこれ「「宇宙の大法則」と名づけ、経営に活かしたのである。

 宇宙がすべて「78対22」の割合になっているかどうか、私は知らない。世のなかがすべて「78対22」の割合になっているのかどうかも知らない。

 だが、世のなかも人生も「割合」でとらえるという考え方なら、私も実践している。

 それは、「49対51をもって満足すべし」という考え方だ。
 ベターハーフと言ってもよい。
 人生を100とし、幸せと不幸との比率が50対50ならイーブン。それより幸せの比率が多くなれば、その分だけより幸せな人生になるわけで、誰もが100対0をめざす。100が無理なら80対20、最低でも70対30でありたいと願う。

 私もそう思っていた。
 努力とは、限りなく100対0に近づけることだと思っていた。

 いまは違う。
 100対0をめざすのは欲であり、その欲ゆえに、背負わなくてもいい苦労を背負い、苦しまなくてもいいことに苦しむことに気がついた。100対0をめざす生き方は、皮肉にも、結果として0対100の人生になるのではないか。そんなことを考えるようになったのである。

 そして結論は、「51対49」をもって最上とするという考え方だ。生き方と言ってもいい。51対49と、勝ち越しの人生であるだけで万々歳――そう思うようになってきたのである。

 笑ったり落ち込んだり、勝ったり負けたりしなが日々を楽しみ、棺(ひつぎ)を覆うときに51対49であったなら、最高の人生と言えるだろう。

「まあ、あわてずにボチボチ行こうじゃありませんか」

 中庸とは、たぶんそういう生き方のことを言うのだろう。

 人生街道をひた走って55年。「死」をもってゴールとするなら、ゴールをめざして努力することの、何と愚かなことか。ゴールを意識するようになって、ようやくそのことに気づいたという次第である。


投稿者 mukaidani : 00:15

2006年07月04日

人生勝利の要諦は「自分を知る」にあり

「誰にでも何らかの才能がある」――ホスト界のカリスマ社長・愛田武氏の言葉である。
拙著『ホストの実戦心理術』の執筆に際し、知人の紹介で愛田社長にお目にかかったときに、そうおっしゃった。

 なぜ、愛田社長の言葉を紹介したかというと、私は今月、億万長者たちの成功ノウハウをまとめた『カリスマ社長の実戦心理術』(イーストプレス)を出版するのだが、その中に愛田社長も登場するからである。

 愛田社長は、自著でこう記している。
《誰にでもなんらかの才能があるはずなんです。自分の才能にいち早く気づいて、それを商売に取り入れる。これが成功の秘訣ですよ。ところが自分の才能に気づかないまま死んでいく人が大勢いますね。つまり私は、自分の才能が何かを見極める能力こそが才能なのではないかと思うわけです。》(『天下無敵の経営術』河出書房新社)

 愛田社長はフランスベッドの営業マン時代、全国ナンバー1のトップセールスマンとなり、26歳で独立。防犯器具を扱う会社、次いでカツラ会社を設立するが、これが見事に倒産した。

《途方に暮れていた時に昔のセールスマン仲間から、女性の接待をする商売があると聞いて「コレだ!」と思わず膝を打ちました。女性相手の商売でならイケるはずだ。好きこそものの上手なれというではないか。なぜこれまでそのことに気づかなかったのかと思いましたよ》(同前)

 それでホスト界へ転進するのだが、愛田社長の成功は、自分の才能が〝女性〟にあることに気づいたことにある。13才で遊郭の女性にセックスの手ほどきを受けて以後、女について徹底研究し、女性心理を開眼。19才で新潟から上京して銀座のクラブでバーテンのアルバイトをする。ホステスたちにモテモテで、銀座ホステスとバスガイドと、それぞれ別個に同棲。フランスベッド営業マンに転じて、全国ナンバー1のトップセールスマンになったのも、その原動力は、得意のトークと団地妻のナンパだったのである。

 この経験から、「自分の才能が何かを見極める能力こそが才能である」と、愛田社長は喝破するのだ。

 私も、愛田社長の人生哲学に同感である。

 成功する人間・失敗する人間、あるいは幸せになる人間・不幸になる人間の分かれ目は、まさに「自分を知るかどうか」の一点にかかっているのだ。

 たとえば「人体」を考えてみればわかりやすい。指には指の、足には足の、脳には脳の働きがある。指の機能を伸ばせば職人として大成するだろうし、足の機能を伸ばせば一流ランナーになれるかもしれない。脳を活かせば、いろんな分野に無限の可能性も出てくるだろう。

 ポイントは、自分が何であるかを知ることなのだ。指なのか、足なのか、脳なのか、爪なのか、髪の毛なのか……。指であるのに脳に憧れ、脳の働きをマネしようとしても無理なのだ。爪が足のマネをしようとするのは愚の骨頂なのだ。

 しかるに我々は、この愚を犯している。他人をうらやむ。「ないものねだり」をする。こんなに努力しているのにと不条理を嘆く。だから成功もしないし、幸せにもなれない。指は指の、爪は爪の機能を伸ばしてこそ大成する。「自分を知る」とは、そういうことを言うのだ。

 同じ会社に勤めるなら、門番より社長になりたいのが人情だ。
 だが、誰もが社長になれるわけでもない。
「オレの一生の仕事は門番だ」
 と自分に言い聞かせるには葛藤があるだろう。
 しかし、心からそれを天職と納得し、全力投球したなら、その人の人生は幸せに違いない。
 なぜなら、うらやみの心を持たないですむからだ。「充実した日々」とは、「うらやみの心」と対極にあり、これが人生の幸せというものなのである。

 役者は、誰もが主役を目指す。
 だが、誰もが主役になれるわけではない。
 名脇役と呼ばれる役者は、脇役という「自分のつとめ」に徹することで、役者としての地歩を占めているのである。主役になることだけを夢見て、不満の日々を送る役者と、どっちが幸せか、言うまでもないだろう。

 手は手の、足は足の、爪は爪の、それぞれ果たすべき役割というものがある。
 〝足の裏〟が、
「毎日、踏みつけられて嫌だ」
 と不満を口にするのは、愚の骨頂なのだ。
 なぜなら〝足の裏〟は、踏みつけられることによって存在価値があるからだ。
 人間もそれと同じで、それぞれなすべき本分(役割)を持って、この世に生まれてきている。〝足の裏〟が〝頭〟になりたい羨むのは、実に愚かなことなのである。

投稿者 mukaidani : 10:05