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2006年06月28日

畑を耕して気づいた「子育て」と「親」

 今朝は5時起きで畑へ行った。
 まだ少量だが、キューリやコマツナ、ホウレンソウなど収穫がある。心配したカボチャも可愛い花をつけ、元気一杯である。サトイモ、ナス、ラッキョ、アシタバ、ネギ、ピーマン、落花生……等々、みんなスクスク育っている。野菜は正直で、手を掛けたぶんだけ成長してくれる。

 都内から千葉に引っ越してきた20年前は釣りに凝った。
 もっぱら堤防や護岸からの投げ釣りで、浦安から富浦、館山、勝浦、銚子、波崎まで釣り歩いた。
 釣りの楽しさは、魚との勝負にある。エサに工夫し、ポイントを探り、魚と虚々実々の駆け引きをする。いわば「対立の関係」である。
 だから釣り上げたときの快感は「してやったり」――。文字どおり「釣り上げた」快感なのである。

 ところが、畑は違う。
 野菜と勝負するわけではない。
 勝負どころか、野菜は逃げも隠れもせず、ただそこにじっとしている。踏みつけられても、引っこ抜かれても、なすがままにされ、黙したまま枯れていく。「対立の関係」にはないのだ。

 だから、野菜が育つかどうか――すなわち収穫できるかどうかは、すべて「私の問題」になる。豊作だからと言って、魚を釣り上げたときのような「してやったり」の快感はなく、あるのはただ、「育てた」という一方的な自己満足である。ここが、魚釣りとの違いなのである。

 児童虐待に関する相談が、3万件を超え、過去最高になったと、先日のニュースが伝えていた。
 この痛ましい現実に、私は釣りに見る「対立の関係」を、ふと思った。虐待する親にしてみれば、我が子は「魚」なのだ。子育ては〝釣り〟であり、釣りは魚との「対立」の中で成立する。
 だから腹も立つ。
 結果、暴力へとエスカレートしていく。

 健全な親御さんにとっては、我が子は「野菜」ではないか。
 野菜――すなわち、我が子が立派に育つかどうかは、畑を耕す「親の問題」としてとらえる。「対立の関係」という認識はなく、だから親は一方的な愛情を我が子にそそぐのだ。

 我が子は、ひと山いくらのキューリかもしれない。ジャガイモかもしれない。ひょっとして、高級アスパラかもしれない。しかし、どんな野菜であれ、耕す人が丹込めなければ収穫にはいたらない。育たないのは野菜が悪いのではない。耕す人間が悪いのだ。

 今朝――畑の草をむしりながら、そんなことを考えた。

投稿者 mukaidani : 16:44

2006年06月23日

予選で敗退した「サムライブルー」の真価

 ジーコ・ジャパンがブラジル戦に完敗し、予選敗退した。
 すっきりしない。
 負けたからではない。
「よくやった!」
 と拍手を送る気がしないのだ。

 なぜだろう。

 たぶんそれは、日本の選手から「必死さ」が伝わってこなかったからではないか。
 少なくとも私にはそうだった。

 武道が象徴するように、日本人は勝敗だけで試合を評価しない。勝っても、「勝ち方が悪い」と酷評する。卑怯な手を使えば、「そうまてして勝ちたいのか」と非難される。反対に、ひたむきに、必死に、そして正々堂々とした戦い方には、負けても「よくやった」と賞賛する。
 勝敗ではなく、どう戦ったか――日本人のメンタリティーは、ここにこだわる。
 ジーコ・ジャパンに対して、すっきりしないのは、そこに理由があるのだろうと私は思った。

 試合後のインタビューをテレビで観ていて、ジーコ監督も選手たちも、ファンに対して感謝の言葉はひと言もなかかった。
 くやしさだけを強調した。敗因を分析して見せた。私には、帰国後の〝バッシング〟に備えた「言い訳」にしか聞こえなかった。

 侍(サムライ)は、負けたら腹を切る。
 非難を甘受する。
 言い訳は、最も恥ずべきこととする。
 彼らが真の意味で「サムライブルー」であったかどうかは、帰国後の発言と処し方で問われるだろう。
「くやしいです」「力不足でした」「この経験を活かして頑張ります」――そんな、おざなの発言にならないことを祈っている。

投稿者 mukaidani : 06:48

2006年06月19日

断る理由を封じ込めば、断る理由はなくなる

 先日、都内の某ターミナル駅へ行ったときのことだ。
 用事を済ませ、友人と別れた私はカバン店をのぞいた。この間から作務衣に似合うカバンを探していたからだ。頭侘(ずた)袋も信玄袋も持っているのだが、資料を入れるのに不便なため、洋風で作務衣に似合うカバンを探していたというわけである。

 地下街の各店も、デパートのカバン売り場ものぞいたが、作務衣に似合うカバンがなかった。店員も親切に応対してくれたが、気持ちが動かなかった。

 で、駅構内ブラブラと歩いていると、
「閉店セールだよ!」
 仮設店舗で、太ったおっちゃんが呼び込みをやっていた。カバンのバーゲンである。

 呼び込みに吸い寄せられるように、フラフラと近寄っていくと、
「おっ、お客さん、陣羽織がカッコいいね」
 私の作務衣姿を見やりながら、
「どう、このショルダー」
 と、手近なヤツを手に取りながら勧めてきた。
「作務衣に合わないよ」
 私が言うと、
「じゃ、こっちだ」
 おっちゃんがダレスバッグと取り替えて、
「ミスマッチだと思うでしょう? 実は、それがカッコいいんだって」
「そうかな」
「そうだよ。だけど、モノをたくさん入れちゃだめだよ。このカバンはカッコ勝負だからね。型崩れはみっともないから」
「じゃ、だめだ。オレ、ノートパソコン入れるから」
「あっ、そっ。それなら、こっちだね」
 別のカバンを手に取って、
「ほら、見てよ。これならパソコン入れても崩れなし」
「色がどうかな。黒はちょっと……」
「あっ、そっ。じゃ、茶色――」
 と、別の棚から取り出してきたのである。

 かくして、私はこのカバンを買うハメになった。
 作務衣に似合うカバンを探していたはずなのに、「型崩れしない」「茶色もあるよ」と、〝すり替え攻撃〟にしてやれたという次第。
《断る理由を封じ込めば、もはや断る理由はなくなる》――拙著で私が書いた〝実戦心理術〟の一節だが、ナルホド、その威力は抜群なのである。

投稿者 mukaidani : 15:08

2006年06月14日

視点を変えれば、瓦礫も宝に変ずる

 ねずみ小僧次郎吉と、石川五右衛門――。
 大泥棒の双璧である。
 だが、同じ泥棒でも、後世の評価は百八十度違う。

 五右衛門は、私腹を肥やすために泥棒をしたのだから、正統派のワルで、
「あんな奴、釜ゆでになっていい気味だ」
 と世間は冷ややかなのに対して、次郎吉は「義賊」と呼ばれ、喝采を送った。ご存じのように、次郎吉は悪徳商人や悪代官から財産を盗んで、貧しい人の家に投げ込んで歩いたからである。異説はあるが、真偽は別として、泥棒をして誉められたのは次郎吉くらいのものだろう。

 だが、次郎吉をヒーローにしたのは、その所業もさることながら、「義賊」というネーミングにあるのではないか。「盗人・ねずみ小僧」と「義賊・ねずみ小僧」とでは、イメージがまるっきり変わってくる。すなわち「賊」に「義」を冠することで、泥棒が正義の使者になったというわけである。

 ねずみ小僧を持ち出したのは、ほかでもない。同じ泥棒でも、視点をかえれば正義になるように、人生もまた、ちょっと視点を変えることで正反対に見えるということを言いたかったのである。

 このことを教えたのが、
《心暗きときは、すなわち偶(あ)うところことごとく禍(わざわ)いなり。眼(まなこ)明らかなれば途(みち)にふれてみな宝なり》
 という空海の言葉だ。
 意味は、「心が暗ければみな暗く見え、心が明るければ、たとえ石ころでも宝石に見える」といったもので、「視点」――すなわち、この世のすべてのものは、見方によって瓦礫にもなれば宝石にもなるということなのである。

 これは生き方にも、ビジネスにも当てはまる。
 たとえば、靴のセールスマンが南方の島に営業に行ったところ、現地は裸足の生活だったとする。
 これを見て、
「靴を売るのは無理だ」
 と、あきらめるか、
「やった! 誰も靴を履いていないから、ビジネスチャンスだ!」
 と勇んで営業を始めるか。
 あるいは、会社をリストラされたとする。
「お先、真っ暗」
 と悲観するか、
「天から授かった新たなチャンスだ」
 とポジティブにとらえるかで、人生はまるっきり違ったものになってくるである。

 大泥棒であるはずの「ねずみ小僧」だって、「義賊」というキャッチフレーズをつけることによってヒーローになったではないか。それを思えば、我が人生を幸せと感じることなど、いともたやすいことなのである。

投稿者 mukaidani : 20:23

2006年06月09日

「人間、物見遊山」という生き方

 貧しくとも人生謳歌――これが江戸庶民の生き方である。
 執筆のため、いま江戸時代について調べているのだが、当時、庶民が住む長屋は、入口と台所を含めてわずか三坪(六畳)。隣とは板一枚で仕切られただけで、井戸、トイレ共同という暮らしだった。

 それでも庶民は、日々の生活を楽しみ、明るく、逞しく日々を生きていた。

 その理由――すなわち江戸庶民の〝人生観〟について、故杉浦日向子氏がこんなことを書いている。

《江戸の人々は「人間一生、物見遊山(ものみゆさん)」と思っています。生まれてきたのは、この世をあちこち寄り道しながら見物するためだと考えているのです。「せいぜいあちこち見て、見聞を広めて友だちを増やし、死んでいけばいい」と考えています。
 ものに価値をおくのではなく、江戸の人々は、生きている時間を買います。芝居を見に行く、相撲を応援しに行く、旅に行く――と、後にものとして残らないことにお金を使うのが粋でした。江戸の町では火事が日常事だったので、「どれだけものに執着しても一晩の火事で灰になってしまう。そんなのはつまらない」ということになるのです。》(『お江戸でござる』/ワニブックス刊)

 私たち現代人は、家一軒を手に入れるために日々の生活を切り詰め、一生を費やすのとは対極の生き方が、そこにある。モノや財産は、火事で灰にならなくとも、死んでしまえばそれっきり。あの世にまで持っていくことはできないことを思えば、ブランド品だ何だと、モノを手に入れることに汲々とする人生は、愚かなことかもしれない。

 いや、モノに限るまい。
 進学もしかり、出世もしかり。
 一流校へ入ったから、それがどうしたというのか。出世したからといって、それがどうしたと言うのか。物見遊山で日々を楽しみなが生きている人間と、進学だ、出世だ、財産だと、歯を食いしばって生きている人間と、どっちが幸せだろうか。

 努力をするなと言っているのではない。
 努力は大切だ。
 ただ、何のために努力をするのかという視点が間違っていれば、結果として不幸になると言っているのである。
 たとえて言えば、東京から北海道へ行くつもりで必死で自転車を漕ぎながら、それが九州へ行く道であったなら、努力してペダルを漕げば漕ぐほど、皮肉にも、ますます北海道から遠ざかることになる。

 人生も同じなのである。

 もし、自分が執着し、それが欲しい、そうありたいと悶々としている事があれば、いま一度、考え直してみるといい。「自分は、それを手に入れてどうしようというのか」「それが人生にとって、どういう意味を持つのか」「それで幸せになるのか」――案外、つまらぬことに心がとらわれていることに気がつくだろう。

投稿者 mukaidani : 14:31

2006年06月05日

農作業で体得した「価値観」の正体

 このところ、毎朝5時起きで畑へ出かけている。
 ピーマン、サニーレタス、コマツナ、ナス、スイカ、サツマイモ、ホウレンソウ、キューリ……。もっと植えたような気がするが失念。というのも、畑の指南役は、八十三歳になる私の親父で、指南役主導で耕し、苗を植え、種を蒔いたので、何を植えたのか、私はよくわかっていないのである。

 それでも、コマツナとサニーレタス、キューリが収穫できるようになり、畑に行くのがとても楽しみになった。早い話が、成果があってこその努力。僧侶としての生き方から言えば、無償の努力であるべきだろうに、悟り(?)はまだまだ雲の彼方といった気分である。

 僧侶と言えば、今朝、雑草を引き抜きながら、得度習礼のことを思い出した。得度習礼は、京都・本願寺西山別院で行われたが、11日間の研修のなかで2回ほど境内の掃除があった。私は草むしりをやったのだが、このとき年配の〝仲間〟が、
「雑草も花と同様、生命を宿す植物なのに、引き抜かれて可哀想ですね」
 と私に言った。

 なるほど、と思った。雑草に罪はなく、人間の都合で引き抜くのである。私は、心底、雑草が可哀想になったものである。

 だが、このときは、得度習礼中ということで、気分は〝仏教〟。だから、雑草にさえ心を動かされたのだろう。娑婆へ帰って畑を耕せば、雑草の何と憎らしいことか。
「雑草に罪はない」
 と思った殊勝な心はどこへやら。
「冗談じゃねぇよ」
 刈った後から生えてくる雑草に悪態をついているのである。

 結局、価値観なんてのは、どんなにエラそうなことを言ってみたところで、所詮、「自分の都合」と同義語ということか。農作業で〝体得〟した「納得」である。「悟る」のは難事だが、「納得」するのは実に簡単なのだ。

 と、ここまで書いたところで、つけっぱなしにしていたテレビで村上氏(村上ファンド)の記者会見ニュースが放送され始めた。
 何だかんだとリキを入れて語っているが、要するに村上氏の発言をひとことで言えば、
「私は犯罪認識(インサイダー取引)は毛頭なかったが、結果として犯罪になるというなら、罪を認めざるをえない」――ということになろうか。
 要するに、罪を認めつつ、「私は悪くない」と言っているのである。

  だが、このことは、別の例に置き換えれば、もっと本質がハッキリする。
  たとえば、痴漢。
「私は痴漢する気は毛頭なかったが、結果として手が女性のお尻に触れていたとしたら、罪を認めざるをえない」
 村上氏の論理と同じである。
 すなわち、論理もまた価値観同様、「自分の都合」によって、いかようにもなるということなのだ。

「私は、世のため人のために尽くそうと思って日々を生きていますが、結果として、世間に迷惑をかけているとしたら、非を認めざるをえません」
「私はやさしい人間なんです。でも、結果として……」
「私はウソなどついたことはありません。でも、結果として……」
 謝りつつ、「私は悪くない」と主張する。〝言い訳テクニック〟の基本である。
 

 
  

投稿者 mukaidani : 12:50