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2006年05月29日

「願望」という名の「我欲」に要注意

 私が仕事部屋に借りている安房鴨川市に「曽呂(そろ)温泉」というのがある。
 温泉と言っても、山あいに民家のような旅館が1軒あるだけで、平日ともなれば、客はせいぜい数人といったところか。温泉は茶褐色のコーヒー色。見るからに「ザ・温泉」といった気分で、浴槽は狭いが、それでも日帰り入浴に行って手足を長々と伸ばすと、風呂好きの私にとってはこの世の天国なのである。

 この温泉に私が通い始めたのは、風呂好きであることのほかに、もう1つ理由がある。

 鴨川市に仕事部屋を借りたのは、私が僧侶になりたいと本気で念じた1年余前のことだ。
 鴨川は温泉地なので、
(どこか、いい温泉か健康ランドでもないかな)
 と思いながら近郊をクルマで走っていて、道ばたに「曽呂温泉」という看板を偶然目にしたとき、
(これだ!)
 と飛び上がる思いがした。
「曽呂」という字に〝にんべん〟をつければ、「僧侶」という字になるではないか。
(オレはきっと坊サンになる)
 そんな確信を抱きつつ、何やら因縁めいたものを感じたのだった。

 それから1年が経ち、私は浄土真宗本願寺派の僧籍を得た。
 そして、いまこうして曽呂温泉の湯船に浸かりながら、看板を見つけたときの感慨を思い返しているというわけである。

 私は、こうした《予感》というものを大切にする。
 いや《読み》と言うべきかもしれない。
 他人の人生であれ、自分の人生であれ、「たぶん、こうなるんだろうな」と思うとおりになっていく。

 私に特殊能力があるわけではない。
 誰でも《読み》は当たるのだ。冷静に、客観的に、損得を考えずに事象を見ていれば、漠然とではあっても、「行く末」は見えてくる。

 ところが、「こうであればいいな」という願望が《読み》を狂わせる。マルチまがい商法に騙されるのは、その好例ではないか。結婚サギもしかり。投資話もしかり。人間関係もしかり。「こうあればいい」という願望が、冷静な判断力――すなわち《読み》を狂わせてしまうのだ。

《読み》が狂えば、「こんなはずじゃなかった」とガッカリする。ガッカリすれば、不満が残る。不満は人生を暗くする。そうならないためにも、「こうあればいいな」という願望を一度捨てて、自分と周囲を見まわせばいい。自ずと実相が見えてくるはずである。

 願望のない人生なんて、無味乾燥だという人は、「願望」の正体をいま一度考えてみるといいだろう。「願望」とは所詮、「我欲」のことに過ぎないのだ。「こうあって欲しい」という思いを「願望」だの「夢」だのという言葉に置き換えているだけなのだ。そして多くの場合、「願望」(我欲)は、人生という流れに棹さすものなのである。
 ここを知れば、人生はもっと楽になる。
 私はそう思っている。
 

投稿者 mukaidani : 19:40

2006年05月24日

「格差社会是正」というまやかし

《金は天下のまわりもの》という言葉がある。
 意味をご存じだろうか?
「いつかは自分のところにも金がまわってくること」
 とノンキなことを言っているようでは、死ぬまでお金はまわってこない。

《金は天下のまわりもの》とは、「誰かが誰かを喰うことで世の中は成り立っている」ということなのだ。つまり、AさんがBさんを喰い、BさんがCさんを喰い、CさんがDさんを喰い……という連鎖のことを《金は天下のまわりもの》というのである。

 以上の考え方は、『漫画大衆』誌で連載した『ヤミ金融一番星』の原作を私が書いたとき、主人公に言わせたセリフである。

 私は――いや、誰でもそうだろうが――資本主義とは弱肉強食であると思っている。強者が弱者を喰い殺し、弱者が滅んでいくことを、人間社会における「自然淘汰」と言う。腹立たしい限りだが、残念ながらこれが現実であり、「万人平等、万人幸福社会」を叫ぶのは、ウサギがライオンを諭し、ハトがタカに抗議するようなものなのだ。

 ならば、なぜ政党は「福祉の充実」や「格差社会是正」をスローガンに掲げるのか。
 選挙用である。
 国民のためを思う真摯な政治家もいるだろうが、ひとえに選挙用の政策なのだ。

 よくよく考えてもらいたい。「格差是正」と言えば聞こえがいいが、ウサギとライオンの〝格差〟は、どうすれば是正できると言うのか。ハトとタカとが、どうすれば仲間になれるというのか。
 ここに「格差是正」のまやかしがある。

 本気で「格差是正」を目指すなら、「下流社会」と「上流社会」を一緒にしてガラガラポンとやるしかないのだ。ウサギがライオンになれないなら、ライオンが牙と爪を抜いて初めて立場は平等になる。ライオン――すなわち富裕階級がビンボー人に私財を投じるや?
 答えはいうまでもないだろう。
 これが、現代日本のなのである。

 サッカーのワールドカップがまもなく開催される。
 ニッポンコールが茶の間のテレビに響き渡るだろう。
 これから日本はどこへ向かうのか。
 そのことにも思いを馳せてみたいものである。
 

 

投稿者 mukaidani : 15:39

2006年05月19日

「結果悪ければすべて無駄」という愚かな人生

「結果よければすべてよし」――これがビジネス社会だ。
 どんなに努力しようが、仕事として成功しなければ評価ゼロ。反対に、寝転がっていようと、結果を出しさえすれば賞賛される。努力という「過程」がホメられるのは小学生だけ――これがビジネス社会なのである。

 ならば、必死の努力をしてなお、結果が出せなかった人間はどうなるか。努力の期間が、1ヶ月とか1年といった短期間であればともかく、人生というスパンで考えた場合、結果が出せなかった人間は「負け組」になってしまう。
 反対に、たいした努力もせず、スイスイと世の中を泳ぎまわることで結果を出した人間は「勝ち組」なのである。

 頭にくる。
 努力が報われない社会など、どこかが間違っていると思う。
 だが、これを「人生の不条理」と不満を抱くのは間違いなのだ。

 なぜなら、「結果」というゴールから見て、「過程」を評価することになるからだ。
 マラソンを例にすればわかりやすいだろう。苦しい思いをして走っても、メダルを取れなければ「負け組」になってしまう。努力が無駄骨になってしまう。
 だが、結果と関係なく、走ること自体を〝楽しみ〟にしたらどうか。メダルを取れなくても――すなわち客観評価はどうあれ――42.195キロは無駄にはならない。いや、楽しんで走ったぶんだけ幸せな気分になるだろう。
 
 ビジネス社会も同じだ。
「結果よければすべてよし」であることは厳然たる事実ではあるが、その一方で「過程」を楽しむのだ。結果が出ればなおよし。結果が出なくても、楽しんだぶんだけ得をするではないか。人生の不条理を憤る人は、「結果」というオール・オア・ナッシングの価値観に囚われている人なのである。

 人生という時間は限られている。「結果悪ければすべて無駄」という人生など、愚かなことではないか。それでなくても、人生は問題山積なのだ。今日という日をいかに楽しむか。いや、楽しんでみせるか。人生の要諦は、そこにあるのではないかと私は思っている。

  

投稿者 mukaidani : 11:45

2006年05月18日

二週間ぶりにブログ再開

 浄土真宗本願寺派西山別院で11日間の得度習礼を終え、 5月16日に僧籍を得て帰宅した。早朝5時半の起床から午後11時の消灯まで、初めて経験するハードな習礼に精根尽き果て、本日になって、やっとこさブログを書き始めた次第。
 と、ここまで書いて、頭がフリーズ。
 雑用、仕事、諸々山積で、どこから手をつけていいのやら……。 とりあえず今夜はグッドナイトにして、明日から仕切り直しということにしょう。
 ブログに書きたいことは山ほどありながら書けないというのは、エベレストを仰ぎ見つつも、登攀に向けて一歩が踏み出せないようなものか。 
 ま、能書きは明日以降ということで。

投稿者 mukaidani : 23:54

2006年05月04日

念願の〝畑デビュー〟をする

 得度習礼を控え、体調を整えるため、仕事をすべて中断。健康ランドへ行ったり、家でゴロゴロしたりしていると、神経が弛緩して、このブログも休止状態になってしまった。
 一事が万事と言うのか、ブログは仕事とは違って楽しみながら書いているのに、その楽しみさえ、億劫になる。「気分転換」と「割り切り」には自信があるはずなのに、思ったより不器用なのかもしれないと、反省しきである。

 昨日、〝畑デビュー〟した。
 知人から「苗を用意したよ」との電話があり、このときは弛緩した神経にムチ打って出かけた次第。

 長靴に麦わら帽子、首タオル。定番の恰好をしてリヤカーを牽くだけで、もうすっかりベテラン気分。
「こんにちわ」
 という挨拶も、腰をかがめて見せるなど、これもすっかりベテラン気分。天気ポカポカ、うぐいすが啼いて、実に気分がいいのである。

 知人のお手本に従って、キューリ、ナス、小玉スイカ、シシトウ(だっかたな)などを植える。
「成長するのを見ると、病みつきになるよ」
 と知人が笑い、私も嬉しくなってくるが、〝遊び〟だから楽しいのだろう。そうでなければ、病みつきになるほど楽しい農作業を放って、若者が街へ出て行くはずがない。
 ということは、何事も〝遊び〟でやれば楽しくなるということか。
 いい発見である。

 夕方、久しぶりに馴染みの寿司屋に顔を出し、〝畑デビュー〟を告げると、
「もう隠居するんですか」
 と、マジな顔で訊いてきた。
「畑をするのが隠居なら、農家の人はみな隠居になるじゃないか」
 と、ヘ理屈をカマする。
 ナスの浅漬けが出て、私は実はナスが嫌いであったことに、ハタと気がついた。昼間、ナスを植えたばかりではないか。「ナスは育てやすい」ということを聞いて植えたのだが、考えてみれば、私はナスが嫌いだったのだ。
 
 しかし、やがて楽しみの収穫になる。ならば、ナスが好きになるしかないだろう。そう腹をくくって食べてみたら、これがうまいではないか。「食わず嫌い」というこを改めて知った。
 いい発見である。

 * * * * * * 

 まっ、そんなこんなで、これから5月16日まで、僧侶になるべく京都で得度習礼に臨みます。
 外部との連絡は取れなくなるため、この間、ブログは休止しますので、よろしくお願い致します。

投稿者 mukaidani : 11:58