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2006年04月28日

どう生きても、後悔するのが人生だ

「ブリタンのロバ」という言葉をご存じだろうか。
 こんな話だ。
 空腹のロバがいて、目の前に「水」と「エサ」があるにもかかわらず、餓死してしまう。理由は、ロバはどっちも欲しいのだが、どっちから先に口をつけていいか決めかね、結局、餓死してしまったという話。どっちを選ぶか、迷いに迷ったあげく、選び損(そこ)ね、元も子もなくすことのたとえである。

 笑ってはいけない。
 迷いの本質は、「どちらも欲しい」という欲であることを、このたとえ話は見事に現しているのだ。

 ずいぶん昔になるが、私は週刊大衆で、俳優・梅宮辰夫さんを回答者とする「人生相談」の連載原稿を書いたことがある。
 毎週、いろんな相談が寄せられたが、梅宮さん曰く。「右と左と同時に行こうとするから、悩むんだよな」と喝破した。
 右と左の分岐点に立ち、どっちの道を選択するか迷い、決めかね、それが悩みになっていくというわけである。

 では、なぜ決めかねるのか。
 それは、選択した道が正解であるかどうかは、先に進んでみなければわからないからであり、後戻りはできないからである。

 だから迷う。
 選択に失敗すれば後悔するのは当然だが、人間というやつは欲があるから、選んだ道がたとえ正解であっても、
「あっちの道を選んでいれば、もっとよかったかもしれないな」
 と後悔する。

 つまり、正解でも不正解でも、人間は後悔するということなのだ。

 そして人生は、煎じ詰めれば二者択一の日々だ。
「やるか、やらないか」「行くか、行かないか」「買うか、買わないか」「承諾するか、断るか」「飲むか、飲まないか」「その会社に就職するか、しないか」「結婚するか、しないか」……。
 あみだクジのごとく、日々を二者択一で生きた集大成が「人生」なのである。

 だから、私たちは常に「ブリタンのロバ」なのだ。
 迷ったあげく、決めかねてその場に立ちつくせば、ロバのごとく餓死する。
 さりとて、一方を選べば、
「あっちのほうが、もっとよかったんじゃないか」
 と後悔する。

 すなわち、どっちに転んでも、ハッピーにはなれないのだ。

 だから、人生の岐路に立ったら、「どっちを選んでも、いずれ自分は後悔する」ということを、しっかりと肝に銘じることだ。
 そうすれば、少なくとも悩みの程度は軽くなるはずである。

 ついでながら、週刊漫画ゴラクで、私はエッセイの連載を始めた。第1回は本日発売である。一読願えれば幸である。
 

投稿者 mukaidani : 16:00

2006年04月23日

「上げたら下ろせ」――30年間、忘れ得ぬ言葉

 5月6日から11日間、得度習礼で京都・西本願寺西山別院に入るため、いま原稿に追われていて、このブログも4日ぶりになってしまった。

 昨年6月、奈良教区で得度考査を受け、11月から得度習礼の予定であったが、今回と同じように出発前の原稿に追われ、結果、過労で入院するハメになってしまった。加えて脊柱管狭窄症による膝痛が出て正座もできなくなり、今年5月に延期願いを出しての得度習礼である。

 今回も、膝痛、腰痛に続いていて風邪をこじらせ、私の師匠である奈良・称名寺の伊藤智誠氏もたいへん心配してくださっているが、何とか得度したいと念じている。(なぜ坊主を志したのか、得度はどうであったか等については、日を改めて書き起こしたい)。

 今日――日曜日の午後、遅い昼食を摂っていると、テレビでゴルフ中継をやっていた。
 私はいまはやらないが、20代のころはゴルフに凝った。
 空手をやっているから、何事も基本が大事であることを痛感しているため、ゴルフを始めるに際して、打ちっ放しの練習場を選んで、レッスンプロについてグリップから手ほどきを受けた。

 レッスンプロは、リー・トレビノに風貌が似た30代の男性で、何くれとなく世話を焼いてくれ、彼が休日の日は、よく河川敷コースへ連れて行ってくれた。河川敷でのレッスン初日、謝礼を封筒に入れて渡そうとしたが、「いいよ」とニッコリ笑って受け取ってはもらえなかった。以後、1度も払ったことはない。昼食のとき、漬け物が好物だと彼が言っていたので、お礼にどっさりと漬け物を送ったことを覚えている。

 その彼が、レッスンの最中、私にこう言ったことがある。
「スィングは、クラブを上げたら下ろす――これでいいんだ。余計なこと考えるからだめんなんだ」
 バックスィングしたら、トップからそのまま無心で振り下ろせばいいと言うのだ。

 なるほど、と思った。
(ゴルフだけでなく、仕事も人間関係も何かも、余計なことを考えないで、上げたら下ろす――でいいのではないか)
 そう思った。
 そう思ったら、生き方が少し楽になった。

 レッスンを受け始めて1年ほど経ってからのことだったろうか。
 いつものように練習場に行くと、彼が待ち受けていて、「実は事情があって、ゴルフから足を洗うことにしたんだ。頑張ってね」と言った。
 どういう会話をしたのか記憶が抜け落ちている。
 彼は笑っていたけれど、淋しそうな顔をしていたような記憶が、かすかだが残っている。

 彼の名前は覚えていない。
 顔はしっかり覚えている。
 そして、「上げたら下ろす」という言葉は、この30年間、私の頭から消えることはなかった。

投稿者 mukaidani : 23:32

2006年04月19日

弁護士の「本音」は奈辺にありや

 最高裁の弁論を弁護士がドタキャンしたことが、ニュースとして大きく報道された。
 周知のとおり、「光市母子殺害事件」である。
 ドタキャンの理由が、模擬裁判のリハーサル出席だったそうだが、法曹関係者は「裁判の引き延ばし戦略ではないか」とテレビでコメントしていた。

 ちなみに「光市母子殺害事件」というのは、山口県光市で99年に起きた母子殺害事件で、妻を暴行目的で襲い、抵抗されたため、手で首を絞めて殺害。傍らで泣いていた長女(同11カ月)をも絞殺するという残忍非道な殺人事件だ。被告(当時18歳、現在25歳)は1、2審で無期懲役とされたが、検察は「反省の情がまったくうかがえず、極刑をもって臨むほかない」と死刑適用を求めて上告。これに対して弁護側は、被告の殺意を否定し、検察側上告を棄却して審理を高裁に差しもどすよう求めたもの。

 私はかねて、弁護士という職業に疑問を持っている。
 なるほど弁護士は、被告の利益のために最善をつくすことを使命とする。
 それはわかる。
 被告は、弁護士によってしか、その人権を守ることはできない。
 そういう意味で崇高な職業だと思っている。

 だが一方で、私が疑問を抱くのは、たとえば「光市母子殺害事件」において、弁護士は被告の殺意を否定しているが、
「本気でそう思っているのか」
 ということだ。
 つまり「弁護士」として、被告人の利益になるための主張なのか、それとも「人間」として本気でそう思っているのかどうか、ということなのだ。

 疑問を持つ例はいくらでもある。
 たとえば、奈良の〝騒音オバさん〟。CDラジカセで音楽を大音量で流し続け、近所の女性を不眠、頭痛状態に追い込んだとして傷害容疑で逮捕されたが、オバさんの弁護士は無罪を主張した。
 なぜ無罪なのかを、弁護士はこれから裁判で立証していくわけだが、法廷戦術としてではなく、この弁護士は本気で〝騒音オバさん〟が無罪だと信じているのだろうか。

 オームの麻原彰晃にしても、ホリエモンにしても、その他諸々の被告にしても、被告人の利益のために「弁護士」として全力を尽くすのは「正しい」。
 しかし、一人の「人間」として、弁護士は被告のことをどう思っているのだろうか。「彼らは絶対に正しい」「彼らは絶対に無罪だ」――と、本気で信じているのだろうか。

 職業上のテクニックで、無罪を主張したり、殺意や犯意を否定したり、心神耗弱を持ち出したりしたとするなら、「弁護士」としては優秀かもしれないが、「人間」としては唾棄すべき存在だろう。「法律として正ければ、すべて正しい」とする考え方は、「法に触れなければ何をしてもいい」という理屈と同質のものなのである。

 法律的には正しくても、人間的には間違っていることは、いくらでもある。

 弁護士の果たして何人が、そのことを考えているのだろうか。
 
 極悪人と知ったならば、弁護はすべきではない。極悪人にも人間としての権利があることを承知で、私はそう言いたい。被告の権利ばかり尊重され、被害者の人権がおざなりにされている。殺され損の社会でいいわけがないではないか。

 木の葉が沈んで石が浮くような世の中にしてはならない。

投稿者 mukaidani : 01:10

2006年04月15日

世の中をスイスイと楽に泳ぎ回る秘訣

 人間は誰でも誉められたがる。
 誉められたら嬉しくなる。
 私もそうだ。
「今度の本、面白いっスね」
「そうかァ」
 ヨイショであるとわかっていても、つい頬がゆるんでくる。

 私のようなヘソ曲がりでも気をよくするのだから、お世辞がまかり通るのは、人間社会の常ということだろう。

 ならば、ここで考えていただきたい。
「誉める」のと「誉められる」のとでは、どっちがより自分にプラスになるだろうか。

 答えは「誉める」だ。
「課長に一生ついて行きます」
「キミに全幅の信頼を置いている」
「○○ちゃん、少し痩せたんじゃない?」
 お世辞であるとわかっていても相手は喜ぶのだから、ヨイショなんて楽なもの。しかも、ヨイショしてくれる人間に好感を抱く。「誉める側」は楽で、しかも自分にプラスになるというわけだ。

 では、「誉められる側」はどうか。
「いつもカッコいいっスね」
 とヨイショされれば、嬉しくはなるが、これからもカッコよくあり続けなければならない。
「いつも気前がいいっスね」
 とヨイショされれば、奢り続けなければならない。
「キミの報告書はいつも早くて丁寧だね」
 上司に誉められれば、徹夜してでも報告書を仕上げなくてはならなくなる。

 ことほど左様に、誉められて気分がいいのは一瞬だけで、そのあと誉められたツケを払わされることになる。極論すれば、誉められて得することは、実は何もないのだ。

 しかるに人間というヤツは、そのことを知ってなお、誉められたがる。人生、窮屈になって当たり前だろう。

 楽に生き、みんなに感謝され、世の中をスイスイと泳ぎ回りたいと思うなら、要諦は、自分は誉められないようにしつつ、人を誉めることなのである。

投稿者 mukaidani : 12:17

2006年04月12日

「いい人」は「無能」の代名詞である

 小沢一郎民主党新執行部が船出した。
 緒戦は衆院千葉7区補選。
「手強い相手」
 と小泉首相が警戒するように、政治という〝舌戦のリング〟は、ますます面白くなっていくということか。

 それにしても、毀誉褒貶は世の習いとは言うけれど、傲岸不遜として〝嫌われ者〟だったはずの小沢人気が、国民の間で急上昇。次期総理として待望論まで起こってきたのだから、「人気」「不人気」というやつはアテにならないものだと、つくづく思う。
 これでもし小沢一郎氏が総理にでもなったら、〝嫌われ者〟が一転、喝采で国民に迎えられることだろう。

 勝てば官軍――。
 これが世の中だ。
 人を蹴落とそうが、騙そうが、出世した奴を「勝ち組」と呼ぶ。
 そして理不尽なことに、「いい人」ほど、会社では無能とされ、「イヤな奴」ほど出世していくのである。

 では、なぜ「いい人」は無能なのか。

 それは、摩擦を恐れて、自己主張をしないからである。
 会社というのは、「共通の利害を持って他社と競争しながら、社員個々もまた競争する」という構造になっている。
 つまり「同僚=敵」という矛盾した人間関係において社員のとるべき道は、二つしかない。
 すなわち、「自己主張する」か「他人に従う」か――。

 自己主張すれば同僚と摩擦が起こる。
 敵ができる。
「あの野郎」
 と、陰口を叩かれる。
 毒にもなるが、薬にもなる。
 意志を持つと言うことは、ビジネス社会という試合に参加し、実際に戦うアスリートなのである。

 一方、他人に従えば摩擦は起きない。
 味方ができる。
 いや、味方だけになる。
「あいつは、いい奴だ」
 と、みんなに愛される。
 毒にも、薬にもならない。
 意志を持たない人間は、アスリートではなく、その多大勢の〝観客〟であり〝応援団〟なのだ。試合にエントリーすらできない人間に競技能力を問うのは、無意味というものである。

 だから「いい人」は無能なのだ。
 舐められているのだ。
 どんな世界であれ、一名を成す人間は、良きにつけ悪しきにつけ、駆け出し当時から一目置かれているものだ。アクの強い奴、強気な奴、ドライな奴、平気で人を裏切れる奴――。
 小沢一郎氏を見ていると、〝嫌われ者〟という悪評も徹底して貫き通せば、道は拓けるということがよくわかる。

 言い換えれば、人気など、良くても悪くても、取るに足りないことなのだ。人がどう思おうと知ったことか。「我が道」こそが最善の道であり、まさに「我が道」は「目前」にあるのだ。


投稿者 mukaidani : 11:36

2006年04月08日

変節を正当化する政治家の「詭弁術」

 周知のように、小沢一郎氏が民主党の新代表になった。
 真打ち登場である。
 おかげで偽メール事件はどこかにフッ飛び、世間の関心は「小泉純一郎VS小沢一郎」という〝一郎対決〟になった。これで〝小泉劇場〟はさらなる人気を博すことになるだろう。
 小泉首相もそこは心得ていて、
「小沢さんは自民党の手の内を知っているからね。手強いね」
 とコメントして、〝観客〟を盛り上げている。
〝小泉劇場〟がこのあとどう展開するのか、乞うご期待といったところか。

 それはそれとして、政治家を見ていて、つくづくうらやましく思うのは、彼らの前言にとらわれない自由闊達な生き方である。
 前言を翻(ひるがえ)し、約束を反故(ほご)にし、
「あれっ? そんなこと言ったっけ」
 とケロリとできたなら、人生、もっと楽しいに違いない。

 たとえば、小泉首相。
「戦没者に対し、心を込めて経緯と感謝の意誠を捧げたい。個人として終戦記念日に参拝する。なぜ(参拝に)反対されるのかわからない」
 と、言い切ったのが首相就任直後のこと。内外から激しい反発もあったが、国政トップのこの断固とした姿勢に、拍手喝采した国民も多かった。

 ところが、それからわずか四ヶ月後。
 8月15日の終戦記念日が近づいてくると、
「与党三党の方々の意見を虚心坦懐に伺って、熟慮して判断したい」
 とトーンダウンし、
「口は一つ、耳は二つありますから」
 と、周囲の意見を聞くことの大切さをアピール。
 そして、八月十三日。二日前倒しして、小泉首相が靖国神社に〝電撃参拝〟したのは周知のとおり。

 早い話が、前言を翻し、約束を反故にしたのである。
 我々なら、恥ずかしくて街を歩けないが、政治家の政治家たるユエンはここからで、
「私は絶対ぶれない。靖国でぶれたから、総理はぶれるんじゃないかという人がいるが、靖国と構造改革はどっちが大事か。それは当然、構造改革のほうが大事だ」
 と堂々たる弁であった。

 だが、よくよく考えてみれば、
「靖国の件ではウソついちゃったけど、構造改革はホントにやるよ。だってオレ、ウソつきじゃないから」
 という、矛盾した〝言い訳〟を、「靖国と構造改革はどっちが大事か」というレトリックでうまくごまかしたのである。

 ここで、私たちが学ぶべきは、世間というのは、前言を翻したこと自体ではなく、その理由に対して、非難もすれば、賛同もするということである。

 たとえば、駅まで十キロの道を「歩いていく」と宣言したとする。
 ところが、途中で足が痛くなった。車に乗ることにしたが、まさか足が痛いと本当のことを言うわけにはいかない。
 そこで、どう言い訳すれば世間は納得するか。

「非常時に鑑(かんが)み、本来なら歩くべき所を、断腸の思いで車に乗ることにしました。足は二本、タイヤは四本。急ぐには車に乗るしかないでしょう」
 もっともらしいが、こんな言い訳では、
「そんなこと最初からわかってるじゃねえか」
「歩くの、イヤんなったんだろう」
 と、変節を咎められる。

 ならば、片足を骨折したことにしたらどうか。
「そりゃ、歩くのは無理だわな」
 納得である。
 そこまでよく頑張った、と応援である。
 これが、良くも悪くも世間なのだ。

 前言を翻し、約束を反故にし、
「あれっ? そんなこと言ったっけ」
 と、ケロリとして生きていきたいなら、ウソでいいから、周囲の人が「そりゃ、そうだ」と納得する理由をくっつけること。恥じることはない。「先生」と呼ばれ、我ら国民が信任する政治家は、そうやって生き抜いているのだ。鉄面皮と言うなかれ。彼らこそ、生き方の達人なのである。

投稿者 mukaidani : 15:52

2006年04月05日

湯船に浸かれば「妙想飛来」

 私は風呂が大好きだ。
 子供のころからそうだった。
 中学2年生のとき、学校で何かの調査があって、趣味の欄に「風呂」と書いたところ、
「風呂は趣味じゃない」
 と、担任に怒られた。担任は、私がわざとそう書いたと思ったのだろうが、私にとって風呂は「趣味」だと本気で思っていたのだ。

 高校に入ったころから、風呂に食べ物を持ち込むようになった。最初は菓子類だったが、そのうちエスカレートして晩飯を持ち込むようになり、行儀が悪いと、いまは亡き母親を嘆かせたものだった。

 いまこうして記憶をたどると、どうやら世界史の授業に行き着くようだ。ローマ帝国時代の貴族たちにとって食事は、空腹を満たすものではなく、味覚を楽しむものだったので、食後は浴場で吐き出していた――いつの学年であったか、授業でそんなことを習ったのが「風呂=食事」というキッカケだったように思う。私は貴族ではないので、吐き出すのではなく、空腹を満たしたのである。

 さて、学生時代の四年間は、風呂ナシのアパート住まいだったので、風呂で食事することはできなかったが、結婚して風呂付きのアパートに入居してから、風呂に食事と雑誌を持ち込み、一杯やるようになった。これには女房も驚いていたが、以来三十年。いまでは、私が風呂で食べるものと女房は思っているようで、手際よくお盆にデザートまで載せて風呂場に運んでくれる。

 ついでながら、ストーリーを練ったり、原稿の推敲をしたりするのも風呂だ。だから、自宅だけでなく、近所の健康ランドにもよく行く。湯船に浸かって想を練り、休憩室でノートバソコンに打ち込むのだ。

 これは習慣なのか、元々そうなのかはわからないが、私は湯船に浸かると、いろんなアイデアが閃くのだ。
 朝、起きて風呂に入り、湯船に浸かったとたん、
(おっ、そうか!)
 と閃くのだ。
 次から次へと閃いて覚えきれなくなり、メモを持ってくるよう女房に怒鳴るのだが、女房がシカトすると、そそくさと身体を拭いて自分でメモ帳を取りに行く。

 閃きも毎度のことになると、仕事に難儀していても、
(なあに、あとで風呂へ入れば妙想飛来。いい知恵が出るさ)
 と、余裕である。
「妙想飛来」というのは読んで字の如しで、確か梅原猛先生の言葉と記憶しているが、 私の大好きな言葉なのだ。

 湯船に浸かるだけで「妙想飛来」なのだから結構な話だが、妙想も飛来し過ぎると、温泉に行ったときなど大変なのだ。
 メモ帳を持って大浴場に入るわけにはいかないので、湯船に浸かったとたん、妙想が飛来して、脱衣場に賭けだしてメモを取る。これがひっきりなしで、のんびり温泉を楽しむどころではなくなるというわけである。

 だが、妙想飛来の割りには、たいした仕事になっていないのはどういうわけだろう。
 不思議なことに、その回答については、なぜか湯船に浸かっても妙想は飛来してこないのである。

投稿者 mukaidani : 03:29

2006年04月01日

悩みも極限に至れば、幸せに転ずる

 かねて知人より、畑づくりを勧められている。
 知人は広大な畑地を持っており、貸してやるからやってみろ、というわけだ。先夜も「そうだなァ。150坪ほどもあればいいかな」とおっしゃってくれた。

 私は150坪の広さを想像し、
(ちょっとした畑だわい)
 と、ワクワクしながら、この話を、やはり畑にくわしい別の知人にすると、
「アホか。シロウトが150坪の畑なんかできるわけがないじゃないか」
 と、目を剥いた。
 やるなら10坪程度から始め、面白くなったら徐々に増やしていけばいい、というアドバイスであった。

 家に帰って、女房に畑づくりの話をすると、
「自分でやるならどうぞ」
 と、つれない返事だった。ものぐさな亭主のことだから、草取りなど、自分に押しつけられてはたまらない――ということなのだろう。
 果たして私一人でやれるのか……。畑を借りるべきかどうか、いま思案の最中である。

 畑と言えば、田舎暮らしがブームになって久しい。
 私も、田舎暮らしにはあこがれる。
 あこがれる一方で、
(しかし……)
 という思いもある。
 昔は、大都会を別とすれば、みんな〝田舎暮らし〟だったのだ。
 その〝田舎暮らし〟がイヤで、
「オラ、東京さ行くだ」
 と、ネコも杓子も大都会へなびいたのだ。

 ところが、いまになって、
「田舎暮らしって、人間らしくていいなァ」
 と、あこがれる。
 妙な話ではないか。

 もちろん〝田舎暮らし〟にあこがれる理由は、いろいろあるだろう。自然回帰、癒し、文明への批判……。理屈はいくらでもつくが、私は折に触れて書くように、世の中も人生もすべて「振り子」であり、〝田舎暮らしブーム〟は、たまたま〝振り子〟が「田舎」に振れているだけだと思っている。
 右に振り切れば左へ、左に振り切れば右へ――。これが世の中であり、人生なのだ。

 たとえば先日のニュースで伝えていたが、総合商社の賃金体系が、成果主義から元の年功序列型にもどすという。
 妙な話だ。
「年功序列なんておかしいじゃないか。仕事は実力で評価されるべきだ」
 と、みんなして批判の声を上げたではないか。成果主義こそグローバルスタンダードだとして、競って導入したのは誰なのだ。
 それが今度は一転、年功序列がいいと言い出した。結局、〝振り子〟は右に左に振れるのだ。いずれまた年功序列が批判され、形を変えた成果主義になるだろう。これが世の中なのだ。

 人間も同じだ。
 泣いたり、笑ったり、悩んだり、ハッピーになったり、気持ちの揺れは〝振り子〟と同じ。悩みもトコトン悩み抜けば、逆方向に振れ始める。だから、案ずることはない。悩みや苦労に浸かっていれば、放っておいてもやがてハッピーが訪れるのである。

投稿者 mukaidani : 11:53