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2006年03月29日

視点を変えれば、「不幸の正体、枯れ尾花」

 先週末は、房総鴨川市に借りた仕事部屋に籠もって原稿を書いた。
 今年は心理術のハウツーのほか、子育てや生き方論、時代小説など、ジャンルを広げて刊行予定になっているため、頭の中は混線状態で、ときおり脳内回線がショートして、目の奥で青い火花が飛んでいる。

 そんな一日、天気がよかったので、徹夜明けのまま近くの浜辺におりて、水平線を昇る太陽に手を合わせてから、小石を探して砂浜を歩いた。なぜだか自分でもわからないのだが、私は波で磨かれた浜の小石が大好きなのだ。

 ところが、気を引くような小石が、なかなか見つからない。
 潮風と、単調な波の音を楽しみながらブラつき始めたはずなのに、せっかちな私は、イライラが次第に高じて来た。とうとう浜の端まで行って折り返し、舌打ちをして戻り始めた、その途中――。素敵な小石を見つけたのである。

 だが、小石と言っても、コブシほどの大きさがある。
 こんなでっかい石なのに、なぜ先程は気がつかなかったのだろう。目を皿のようにして歩いたはずなのに、往路では見つけることができなかったこの石が、復路で見つかったのだ。

 これには、私も考えさせられた。
 同じ砂浜の、同じ場所でありながら、歩いてくる方向が逆になるだけで、素敵な石を見つけたのだ。
 人生などど大上段に振りかざすつもりはないが、
「万事において、見る角度をちょっと返るだけで、そこに新たな発見があるのではないか」
 と、ふと思ったのである。

 変わり映えのしない日々も、ちょっと角度を変えてみるだけで、素晴らしい一日になるかもしれない。悩みの袋小路に迷い込み、絶望に苦しんでいても、ちょっと視点を変えてみるだけで、実は出口がすぐそばにあったということに気づくかもしれない。
 視点を変えて見れば、「不幸の正体見たり枯れ尾花」――というのが人生の実相ではないだろうか。鴨川の浜を散歩しながら、そんなことを考えた次第である。

「幸せな人」とは、だふん、多くの視点を持つ人のことを言うのだろう。
 だから、悩みに押しつぶされることがない。
 ならば、幸せになることの、何と簡単なことか。
 視点を多く持て――徹夜明けの朦朧とした頭で考えたのが、この結論である。

投稿者 mukaidani : 01:13

2006年03月25日

時間の逆転発想で、暇はいくらでもつくれる

 私は保護司をやっている関係で、地元中学校から、卒業式と入学式の案内を頂戴するが、今年はどちらも出席できなかった。と言うのもすでに3ヶ月前、沖縄行きの予定を入れ、チケット類を手配していたからである。
 卒業式も入学式も楽しみにしていたのに、その日程を考慮せず、沖縄行きの予定を入れたことを後悔したが、時すでに遅しである。

 空手と古武道の稽古に、毎月、沖縄・文武館総本部道場に通い始めて6年になるが、私は原則として、3ヶ月前に沖縄行きの日程を入れる。理由は、空手も古武道も、仕事や公的行事に比べてプライオリティ(優先順位)が低いからである。

 では、なぜプライオリティが低いものを優先するかと言えば、それらはどうしても後回しになってしまうからだ。
「時間ができたらやろう」「ヒマになったらやろう」――と思う。
 だが、仕事をこなすのでさえ、時間が足りないのだ。これに諸行事や雑用が加わり、時間は慢性的に足りない。社会生活を営む以上、人間は誰も永遠にヒマにはならないのである。

 とすれば、「時間ができてらやろう」「ヒマになったらやろう」は論理矛盾することになる。

 だから、先に時間を取るのだ。
「やらなければいけないこと」だから時間を取るのではなく、「やらなくてもいいこと」だから時間を強引に先取りするのだ。いわば〝人生の天引き時間〟にするのである。

 そして、残った時間を仕事など「やらなければいけないこと」にあてる。やらなければいけないことだから、どうでもこうでもやり遂げる。かくして趣味も仕事も両立するというわけである。

 多くの人はそこを勘違いして、「やらなければいけないこと」から日程や時間配分を考える。
 だが、それは間違いなのなのだ。
 時間が足りないからこそ、「不要」なことを最優先すべきなのだ。
 そうしない限り、「ヒマ」は永遠にやってこないのである。

投稿者 mukaidani : 11:30

2006年03月22日

進退に窮したら、居直るべし

 もし、あなたが〝偽メール〟の永田寿康議員だったら、どう身を処したろうか。

 本日の衆院懲罰委員会で、永田議員は、
「事実無根のメールでご迷惑をおかけして……云々」
 と、ひたすら頭を下げ続け、自らの責任については、
「ほかに転化するつもりはない。委員会の議論を踏まえて判断する」
 とした。

「煮え切らねぇ野郎だな」
 と、大方の人が思ったことだろう。
 永田議員が所属する民主党の渡部恒三国対委員長でさえ、業を煮やし、
「武士なら潔(いさぎよ)く腹を切るべし」
 と断じたほどである。

 ところが、永田議員は辞めない。
 地位にしがみつく姿は醜悪として、世論の袋叩きにあっている。

 では、永田議員は潔く辞職すべきだったか。
 答えはノーだ。

 なるほど日本人は、桜の花のごとく、散り際の潔さを美徳とする。
 私も、そんな人生が好きだ。
 だが、本当に潔さは美徳なのだろうか。

 こんな例がある。
 ずいぶん前のことだ。
 Kという人気キャスターが、女性スキャンダルで、レギュラー番組のすべてから降ろされたことがある。深夜、ホテルに外人コールガールを呼び寄せたところを、写真週刊誌にスッパ抜かれたのである。

 で、Kはどうしたか。
 謝罪記者会見を開き、
「軽挙盲動を恥じています」
 と号泣した。
 シラを切るわけでもなく、「ノーコメントです」と逃げを打つわけでもなく、アッパレなことに、潔く事実を認めたのである。

 結果はどうか。
 テレビ界から抹殺された。
 事実を認めた以上、メディアもファンも視聴者も、擁護のしようがないのである。

 これがもし、
「コールガールは売った買ったの商品。それを買ってなぜ悪い」
 と居直っていればどうだったか。
 あるいは、居並ぶ報道陣に対して、
「一度も浮気したことのない人は手を挙げてください」
 と、挑戦していたらどうだったか。

 当初は世論の袋叩きだろう。
 サンドバッグである。
 瀕死の状態になるだろう。
 だが、一方的な非難には必ず〝揺れ戻し〟が起こるのもまた世間の常で、
「でも、Kが言うことも一理あるんじゃないか」
 という声が必ず起こってくる。
「男だもん、女遊びもするさ」
 という同情の声も出てくる。

 ところが、「ゴメンナサイ」と号泣されたら、〝揺れ戻し〟という弁護の声は起こらない。かくして、ブラウン管から閉め出されたというわけである。

 永田議員も、居直るべきだったのだ。
「結果として偽メールであっただけで、私の行為は政治家として正しかったと信じている」「政治家として、いささかの恥じるところもない」——と、堂々と居直ればいいのだ。

 政界をあげて袋叩きにされればしめたもので、トコトン居直っていれば、
「永田って、あれでなかなか骨があるじゃないか」
 という〝揺れ戻し〟が起こってくる。
「捨てる神あれば、拾う神あり」
 とは、この〝揺れ戻し〟のことを言うのだ。

 永田議員と対照的なのが、図らずも〝偽メール〟の当事者となったホリエモンである。
 彼は一連の容疑に対して居直り、検察と真っ向勝負している。
 誰が見てもホリエモンは〝悪役〟であるにもかかわらず、一貫して「ボクは悪くない」と言い続けている。
「潔く認めたらどうだ」
 と世論は、往生際の悪さを非難した。
 だが、その居直りも、こうまで徹底抗戦となれば、
「ホリエモンもなかなか骨があるじゃないか」
 という声が起こってくる。
 実際、そう思い始めている人も少なくないだろう。

 これが世の中なのだ。

 だから、進退窮まったときは、徹頭徹尾、居直るべきなのだ。
 居直り続ければ、やがて復活の芽が、自然に出てくるというわけである。

「潔さ」とは、決してカッコいいものではない。ツメ腹を切らせるときの常套句であり、戦いを放棄した〝負け犬〟が口にする自己弁護なのである。


投稿者 mukaidani : 22:12

2006年03月19日

「一日生涯」の生き方と「長寿」

「東海道の赤い石」をご存じだろうか。
 飛脚の話だ。
 江戸時代、足のべらぼうに速いベテラン飛脚がいた。
 どうすればそんなに早く走れるのか、新人飛脚が質問すると、
「道の所々に赤い石が落ちてるんだ。その赤い石を踏みながら走っていくと速く着くのさ」
 と答えた。
「なるほど!」
 というわけで、新人飛脚は、赤い石を探しながら東海道を一路、大坂へとひた走った。

 ところが、いくら目をこらしても、赤い石は見あたらない。とうとう一個も見つけられないまま、大坂に着いてしまった。
「よし、帰りこそ!」
 と、今度は江戸に向かって走りながら、赤い石を探したが、これも結局、見つけることはできなかった。
「赤い石なんか、ないじゃないですか」
 新人が文句を言うと、
「それより、おめえ、何日で往復した?」
 ベテラン飛脚に言われて、新人はハッとした。これまでより、はるかに少ない日数で、江戸―大坂間を往復していたのである。

 ――これが「東海道の赤い石」だ。何事も没頭することの大切さを教えた寓話だが、これを私はいつも「一日生涯」という言葉に重ねてしまう。

「一日」を「東海道の赤い石」とするなら、充実した人生とは密度が濃く、そして〝短い〟ということになる。長寿時代になって久しいが、「人生の密度」を念頭に置かずして、いたずらに長寿を願うのは、東海道をトコトコと走る足の遅い飛脚のようなものだと私は思うのである。

 今日という一日に全力投球し、完全燃焼して生きるということは、昨日と変わらぬ「今日」であり、今日と変わらぬ「明日」ということになる。
 けれど、人生のある時期を迎えて来し方をふり返ったとき、人生の登山口は、はるか眼下にあり、思いもつかぬ曲折の山道を登って来たことにア然とさせられる。東海道の〝赤い石〟を探して走っていたら、いつのまにか江戸についていたという気分である。

「人生を短く感じるのは損ではないか」
 と反論する人は、この世に生まれてきたことの意味を解さない人だ。

 仏教は、この世に生を受けることを「苦」と教える。欲という名の煩悩に苦しみながら、一生を終えるのだ。くわしい話はまたの機会に譲るが、人生、ただ長ければいいというものではないことに、そろそろ気がつくべきではないだろうか。
「東海道の赤い石」は、実はそのことを私たちに教えているかもしれないと思うのである。

投稿者 mukaidani : 21:58

2006年03月16日

生き方に、なぜ「意味」を問うのか

「お茶、飲みに行こうか?」
「お茶ァ~……。そんなん、意味ないじゃなん」

「本でも読んだら」
「どんな?」
「日本文学の古典とかさ」
「ブンガク? そんなん、意味ないじゃん」

「そんなことしたって意味ないじゃん」――最近、よく耳にするセリフである。
 ここで言う《意味》とは、本音を隠した曖昧な言葉で、
「自分にとって何のメリットもない」
 ということを言っているのだ。

 もちろん《意味》のないことをする必要はない。
 だが、私が気になるのは、何事においても「意味があるかないか」で判断しようとする、その価値観である。
 すなわち、物質的なメリットはもちろん、ボランティアなど精神的な広義のメリットをも含めて、得になるからする、損になるからしない、という価値判断は「本当に正しいのか」という疑問である。

 私は、正しくないと思う。
 なぜなら、それは犬や猫など動物と同じであるからだ。
 動物は「損か得か」で考える。「損得」が、生存に即決する彼らにしてみれば、それは当然であるし、そうあるべきだ。生き抜いて種の保存を図ることが、彼らにとって至上の義務である以上、「生きる」というそのこと自体をもって、「生をまっとうした」ということになる。

 人間は違う。
 いや、違うと私は思っている。
 人間に問われるのは、動物のように「生きる」というそのこと自体ではなく、「どう生きたか」という《生き方》ではないだろうか。

 そして、《生き方》が個人の人生観に基づくものである以上――もちろん、どう生きてもそれは個人の自由であるが――人間は動物と違うという矜持があるなら、その《生き方》を選択する際に、損得という《意味》を持ち込んではなるまい。

 もっと言えば、《意味》を超えた生き方こそ、人間が人間たる生存理由ではあるまいか。
 たとえば、故・土光敏夫氏(元経団連会長)の次の言葉をどう感じるだろうか。
「アルピニストは、峨々たるアルプスの壁に、ロープ一本に身を託して闘いを挑む。一歩誤れば千仰の谷に落ちる。それは死だ。アルピニストは、それでも闘志と意欲で登る。君はヤル気にならないからできないのだ。やらなくても命に別状がないからできないんだ」(『土光敏夫――次世代へ申し送りたく候』宮野 澄著/PHP)

 この言葉を聞いて、
「アルプス? 意味ないじゃん」
 という、薄っぺらな発想をするのは動物であって、人間ではあるまい。

 もちろん土光氏は、仕事に賭ける情熱を喚起しているのだが、私は〝アルプス〟を深読みして、「《意味》のないことに情熱をそそぐ人生」ということを考え、
(そういう人生でありたい)
 と、強く念じた次第である。

投稿者 mukaidani : 22:38

2006年03月13日

愛犬マックの「媚びの生き方」

 我が家ではトイプードルを飼っている。
 オスの五歳。いまは灰色になってきたが、飼い始めたときは黒い毛だったので「マック」と命名した。「真っ黒、まっくろ、マック」である。

 愛玩犬なので室内で飼っているが、これが典型的な内弁慶。家の中では、ご主人様たる私に吠えたり、「ウ~」と唸ってみせたりして強いのだが、散歩に連れ出すと、もういけない。他犬が遠くで「ワン」と小さく吠えただけで、シッポを巻いて自宅へ一目散なのである。

 取り柄のない駄犬だが、感心することが一つある。
 イタズラをしてご主人様の怒りを買うと、コロりと仰向けにひっくり返り、前足を折り曲げて腹を見せるのである。動物が腹を見せるのは、降参しましたという合図だから、「あっしが悪うござんした。これ、このとおり、いかようにもしてください」というわけである。

 この〝降参のポーズ〟をされると、それ以上は怒れなくなる。つまり、我が家の駄犬は、「あっしは弱いんです」ということをアピールすることで、難を逃れているというわけだ。

 実は、この〝マックの生き方〟には、いささか感ずるところがある。

 と言うのも、人間の多くは弱点や欠点を隠そうとする。
 虚勢を張ろうとする。
 できなくても、「できます」と言いたくなる。
 知らなくても、知ったかぶりをする。
 だから苦しくなる。
 若いころ――週刊誌記者時代の私がそうだった。

 虚勢を張った日々に、ほとほと疲れてきたある日のこと。
 ふと、ひらめいた。
(そうだ、逆だ! 知らない、わからないということを前面に出せばいいんだ)
 弱点を相手にさらす――すなわち〝マックの生き方〟に気がついたというわけである。

 やってみると、これが楽チンなのだ。
「この件に関しては門外漢なので、初歩的な質問をするかもしれませんが、よろしくお願いします」
 インタビューに際して、〝謙虚〟という予防線を張った。これなら、たとえトンチンカンな質問をしても許される。実際、許されたし、相手も懇切に解説してくれた。
 我ながら、うまい方法だと悦に入って、取材のたびに、
「門外漢なので」
「シロウトなので」
「不勉強で申しわけありませんが」
 予防線を張りまくったのである。
 ところが、某先輩記者と一緒にインタビューしたときのことである。
 取材が終わってから、先輩にこっぴどく叱られた。
「不勉強が自慢になるのか。門外漢だという自覚があるなら、勉強してからインタビューしろ!」
 目からウロコ――。謙虚を装いつつ、相手に腹を見せて取材をしていた自分に気がついたのである。
「媚びて取材するのは記者じゃない、ご用聞きだ!」
 先輩のキツーイ叱責だったが、それ以後、インタビューに際しては資料を当たり、予備取材をして臨むようになったのである。

 我が家のマックが、コロリと仰向けになって腹を見せるたびに、先輩記者の叱責を思い出す。
 あれから三十年――。
 人に媚びず、自力で人生という山を登ってきたつもりでいるが、本当にそうなのだろうか。
(自分がそう思っているだけで、ひょっとして〝マックの生き方〟ではなかったのか?)
 ふと自問することがある。
 五十も半ばになると、そんなことが気になってくるのだ。

投稿者 mukaidani : 17:50

2006年03月10日

「失敗」は千載一遇のチャンスなり

 昨日、ダカーポ誌の取材を受けた。
 テーマは「初対面で失敗しても、こんなケアで挽回できる」といったものだ。どう挽回するかはダカーポ誌を読んでもらうとして、取材に際して「失敗とは何か」について考えさせられた。

 たとえば、初対面の席でコーヒーカップをひっくり返し、相手の洋服を汚したとする。
 大失態である。
 ところが、これがキッカケで仲よくなったとすれば、これは「失敗」だろうか?

 あるいは酒席で上司にカラんだとする。
 大失態である。
 ところが、これがキッカケで、上司に可愛がられるようになったとすれば、これは「失敗」だろうか?

 小泉チルドレンの大蔵こと、杉村太蔵議員がいい例だ。
 当選直後、不用意にして幼稚な発言が相次ぎ、「あんなアホに議員が務まるのか」と世間の大バッシング。誰が見ても「大失敗」である。
 ところが、どうだ。
 あの「大失敗」があったからこそ、「タイゾー」は有名人となり、名前は全国区になった。彼の幼稚な発言は「失敗」だったのだろうか?

 ことほど左様に、「失敗」はその時点ではマイナスであっても、結果として「成功のタネだった」ということは少なからずある。
 「あの失敗がなかったなら、いまの私はない」
 といった回顧談は、人生の勝者にはつきものではないか。
 ならば、どんな失敗であれ、その場で一喜一憂するのはバカげたことと言うことになる。
(いまのこの大失敗が、成功のタネかもしれない)
 と思えば、落ち込むどころか、ワクワクさえしてくるだろう。

 では、「不幸」や「苦労」「辛酸」「挫折」などはどうか。
 これも同様である。
「あの挫折がなければ、いまの私はないだろう」「いまにして思えば、あのときの苦労があったればこそ、今日の私がある」――これも、人生の勝者につきものの回顧談である。

 すなわち、「失敗」だけでなく、「不幸」「苦労」「辛酸」「挫折」等々、みーんな〝成功のタネ〟ということなのだ。せっかく〝成功のタネ〟をもらいながら、「私って、なんて不幸なのかしら」と嘆くのはバチ当たり。苦しければ苦しいほど、大いに喜ぶべきことなのである。

 私など、五十余年を生きてきて、来し方を振り返ってみれば、「不幸」が「幸せ」の原因であったり、「幸せ」が「不幸」の始まりであったことがよくわかる。このことは、例として拙著『もがけ30代』(福昌堂)にくわしく書いたが、人間の浅薄な知恵で予測できるほど、人生は単純ではなく、だからこそ面白い。「日々の些事に一喜一憂するなかれ」である。

 かつて週刊女性で、こうした「人生の不思議」の観点から著名人のインタビュー記事を連載したことがある。連載を通じてつくづく感じたのは、人生、思うようにはいかないものであると同時に、そう捨てたものでもないということである。
 このインタビュー連載は、『夢は叶う』(主婦と生活社)と題して単行本になっているので、興味があれば読んでいただきたい。人生とはなんと厄介で、なんと希望に満ちたものであるか、その一端がわかっていただけるだろう。

投稿者 mukaidani : 16:47

2006年03月07日

日々のイメージは「愚公移山」

 これまで私は、原稿や雑事が山のように溜まったときは、「除雪列車」をイメージして自分を奮い立たせてきた。巨大な〝扇風機〟で線路上の雪を吹き飛ばしていく除雪列車に我が身を重ね、片っ端からガンガン処理していくのである。

 ところが昨年秋、過労で入院してからは、除雪列車がイメージできなくなった。
「そうまでして頑張ることはないさ」
 という思いが先に立ち、〝扇風機〟が廻らなくなってしまったのである。

 しかし、だからといってヒマになったわけではない。
 すると不思議なもので、新たなイメージが浮かんできて、自分を奮い立たせるようとするのだ。「除雪列車」の替わりに、今度は「愚公移山」をイメージするようになったのである。

「愚公移山」は中国の故事で、「どんな難事でも、志をもって専念して努力すれば可能となる」ということの譬(たと)えだ。
 ちなみに意味は、愚公(ぐこう)という老人の家は山に囲まれているため、どこへ行くにも回り道をしなければならなかった。そこで愚公は「山を平らにすればいい」と考え、岩石を砕き、土を運び出す作業にとりかかったのである。
 それを見た人間は、当然ながら嘲笑した。
「山を平らにするなんて、おまえさん、正気か」
 というわけである。

 すると、愚公は何と答えたか。
「私が死んでも、子供は生き残る。子供は孫を、孫はそのまた子供を産むよ うに子孫は長く続いていくが、山はいまより高くなることはない。子々孫々が山を削り続けたならば、いずれ平らになるではないか」

 この話には後日談があり、詳しい内容についてはお調べいただくとして、私はいま、この愚公の心境で仕事や雑事をこなしているというわけである。
「急ぐな、あわてるな。淡々と、淡々と、ただ淡々と目前の道を歩めばよいのだ」
 と自分に言い聞かせると、何やら人格が完成されてきたようで、すこぶる気分がいいのである。

 だが、元来、せっかちで、短気な私だ。
 時として「除雪列車」が顔を出し、
「こらッ、さっさとやらんかい!」
 気がついたら周囲の人間を怒鳴り散らしている。
 そんなとき私は、決して反省などしない。
「そうか、人格完成まであと一歩なのか」
 と、プラス思考し、愚公に思いを馳せるのである。

投稿者 mukaidani : 02:47

2006年03月03日

ビジネスとは「自分」を売ることである

「オレたちは、〝自分〟という〝商品〟を売っている」――これが、一流ホストの矜持だ。
「だって、そうでしょう」
 と、某店トップホスト君が言う。
「デーラーの営業マンはクルマを売る。保険屋のオバちゃんは、保険という商品を売る。ところがホストは、売るべき商品も製品もない。何を売るかと言えば、自分という〝商品〟を売って稼ぐんです」
 すなわち、自分という全人格で勝負する。世間ではジゴロなどと言うが、「冗談じゃねぇ」と言うわけだ。

 なるほど、会社営業マンであれば、
「こんなんじゃ売れねぇよ」
 と商品にケチつけることができる。
 だが、ホストはそうはいかない。商品にケチをつけるということは、自分にケチをつけることになるからだ。誰のせいにもできない――ここがホスト稼業のつらいところであり、やり甲斐もあるのだと、一流ホストたちは言う。

 だが、考えてみれば、「自分という商品」を売るのは会社勤めの営業マンも同じではないか。商品や製品自体の優劣で勝負するのであれば、営業マンは不要だ。性能、価格、サービスなど客観評価が購入の決め手になるなら、学生バイトで事足りる。

 そうではない。
「あの営業マンなら……」と客の信頼を得て、商品や製品を売るのだ。すなわち営業マンもまた、「自分という商品」で勝負しているのだ。
 営業マンだけではない。職業を問わず、すべてにおいて、私たちは「自分という商品」を売っていると言っていいだろう。

 言い換えれば、ビジネスにおいて成功したければ、「自分という商品」をいかに素晴らしいものにしていくか、この一点にかかっていると言っても過言ではあるまい。
「自分は〝商品〟として、どれだけの価値があるのか」――鏡を見ながら自問して、さて、あなたは何と答えるだろうか。

投稿者 mukaidani : 13:12