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2006年02月28日

「本音」という「建前」

「アタシって、いつもホンネじゃん?」
 女の子の会話で、目が覚めた。
 電車内でのことだ。
 いま乗ってきたのだろう。茶髪の女子高生が二人、私が座る席の前に立って話しをしていた。
「アタシって正直じゃん」「アタシってウソがつけないじゃん」と、さかんに自分は不器用だということを相方に話しているのだが、不器用と卑下しつつ、語尾は得意そうに跳ね上がっている。
 つまり、
「アタシって、いつもホンネじゃん?」
 というのは自慢なのである。

 いや、この女子高生だけでなく、「ホンネじゃん」「ウソつけないじゃん」という言い方を最近よく耳にするようになった。人間疎外の社会環境によって、それだけウソと建前が多くなったということなのだろうが、「本音でしゃべる自分」は、果たして自慢できることなのだろうか。

 私は、そうは思わない。
 本心を隠して「建前(たてまえ)」で話をするのは、相手と良好なコミュニケーションを図りたいからであり、その根底には相手に対する尊重がある。
《本音=正直=いい人》というのは間違いなのだ。

 たとえば、上司をつかまえて、
「ずいぶんハゲてきましたね」
 と、本音を言って、上司は喜ぶだろうか。
 まして、「ハゲてきましたね」と言ったあとに、
「すみません。ボク、本音でしかしゃべれないもんですから」
 とつけ加えたらどうなるか。《本音=正直=いい人》ではなく、上司は《本音=嫌味=悪意》と受け取るだろう。

 ことほどさように、「本音」は相手に対する気づかいも思いやりもない。思ったことをそのまま言葉にするのは、犬が吠えるのと同質のもので、「アタシって、いつもホンネじゃん?」と自慢できることではないのである。
 人間社会が「建前」で成り立っている以上、建前でしゃべることをもって正解とすべきなのだ。

 だが、「アタシって、いつもホンネじゃん?」と自慢する女子高生も、「うん」と相槌を打つ相方も、実は「建前」で会話しているのだ。わざわざ「ホンネじゃん」と強調しなければならないのは、そういう理由による。
 すなわち「本音」という言葉すらも、本来の意味を離れ、すでに死語になったということなのだろう。

「本音」が死語になれば、それと同意の「正直」も連動して死語になる。
「オレって、正直じゃん」「正直言って、オレ、好きくないんだよネ」――と《正直》が連発されるのは、その現れだろうと私は思っている。正直者は、そうでないと謙遜はしても、「私は正直です」とは言わなかったのである。

 そんなことを考えながら、女子高生の会話に耳を傾けていたのだが、彼女たちは駅を下りるとき、軽蔑のマナコで私を見た。
(このオッサン、寝たふりをしながら盗み聞きして、イヤなヤツ)
 とでも思ったのだろう。
 彼女たちのその目だけは、まさに「ホンネ」だったのである。
 

投稿者 mukaidani : 03:45

2006年02月25日

五輪選手に慰めは不要だ

 不振のトリノ五輪で、周知のように荒川静香選手が金メダルに輝いた。
 心からおめでとうを言いたい。
 だが、荒川選手に対するメディアのフィーバーぶりを見ていると、考えさせられるところがないわけではない。
 メダル惨敗が続いたとき、
「選手を責めるのは酷だ」
 というトーンが支配的になっていた。
「国民は勝手なこと言ってるが、選手はよくやったじゃないか」
 というわけだ。

 ならば、荒川静香選手に対する賞賛はどうなるのだろうか。シドニーオリンピック女子マラソンで優勝した高橋尚子選手に、なぜ国民栄誉賞が贈られたのだろうか。
 勝てば英雄となり、負けて期待を裏切れば国民は落胆する――これがオリンピック選手の宿命だろうと私は思うのだ。

 すなわち、「賞賛」と「落胆」は等量であり、アスリートはその両方を覚悟して競技の檜舞台に上がる。誰よりそのことを承知しているのが、他ならぬ選手自身なのだ。
 そのアスリートに、負けたからと言って〝あたたかい拍手〟を送るのは失礼だろう。なぜなら、〝あたたかい拍手〟の根底にあるのは同情であり、同情は常に高見からなされるものであるからだ。

 私は空手道場を主宰しており、試合で負けた選手の心情は痛いほどわかっている。
 わかってなお、安易な慰めは口にしない。
 負けは、負けなのだ。
 それでいいではないか。
 次に勝てばいい。
 勝つように努力すればいい。
「よくやった」
 と言ってやりたいが、よくやるのは当たり前なのだ。それを誉めることこそ、選手に失礼だと、私は考えるのである。

 期待に送られ、郷里や母校をあとにしたオリンピック選手にとって、敗戦の帰国は気が重いだろう。
 だが、自分で選んだ道ではないか。
 それに耐え、雪辱を期すべく新たなチャレンジをして欲しい。
 いや、彼らはすでに次の大会に向けてスタートを切っているはずだ。
 慰めではなく、そのチャレンジ精神に拍手を送ろうではないか。
 私は、そんなアスリートが大好きだ。
 

投稿者 mukaidani : 20:03

2006年02月24日

「親切」の本質を考える

 先日、友人と新しくオープンした焼き肉店に行ったときのことだ。
  たらふく食べて、少し皿に残したまま勘定をお願いすると、
「食べ切れませんでしたか? いいお肉ですから、持って帰ってください」
 と、中年のおカミさんがパックに詰めてくれた。
(親切な人だな)
 と思うと同時に、ふと、
(だけど、オレがもし、面倒だから持って帰りたくないと思っていたとしたら、これは〝親切〟なのだろうか?)
 そんな思いがよぎった。

 おカミさんは「よかれ」と思って肉を詰めてくれた。
 親切心は痛いほどわかる。
 だが、それは、おカミさんの価値観による親切であり、一般通念としての親切であって、私にとって親切であるかどうかは別問題ではないか――そんな思いがよぎったというわけである。

 というのも、昨年暮、こんなことがあったからだ。
 某編集プロダクション社長が、
「A君が欲しいんだけど、仲介してくれないか」
 と私に言ってきた。
 A君は二十代半ばのフリーライターで、私の仕事を何度か手伝ってくれたことがあるのだが、取材能力はイマイチ。性格も引っ込み思案で、私としてはあまり薦めたくなかった。
 そこで私は、
「A君より、B君のほうがいいと思うよ。何なら、私からB君に話してもいいけど」
 と、能力に勝るB君を薦めたが、
「いや、A君がいいんだ」
 と、編プロ社長はこだわった。

 結果として、この話はうまくいかなかったのだが、先日、この編プロ社長と食事をしたときに、なぜA君にこだわったのか、聞きそびれていたことを思い出して尋ねた。
 理由は意外なものだった。
「B君のほうがいいに決まっている。それはわかってる。だけど僕は、デキの悪いA君を育てられるかどうか、自分を試してみたかったんだ」
 編プロ社長は、そんなことを言ったのだった。

 B君を薦めるのが親切であるという私の思いは――それが客観的に見て親切であるとされても――編プロ社長にとっては、余計なお世話であり、結果として親切にはならなかったのである。

「よかれ」と思うことが、相手にとって本当にいいことなのかどうか、私たちはあまりに無神経かもしれない。「親切」の本質は、実は自分の価値観の押しつけではないだろうか。
 自分の価値観でなく、相手の価値観で考える――これが本当の意味で親切のように思うが、どうだろう。

投稿者 mukaidani : 15:14

2006年02月22日

伸びる人間は「返事」でわかる

 伸びる人間と、そうでない人間を見抜く方法は、「返事」にある。
 これが私の人物鑑定法で、「でも」と「しかし」という否定の返事をする人間は、まず伸びないと思ってよい。
 たとえば、
「この原稿、書き出しがちょっと重いな」
 私が若い子に注意する。
「そうかもしれませんけど、しかしこの場合、仕方ないと思うんですが」
 へりくだってはいるが、この場合の「しかし」は、
(俺は正しい)
 ということを言外に主張しているのだ。
 あるいは、
「だめじゃないか、遅れちゃ」
 叱ると、
「すみません。でも、いつもの快速電車が今日は運休になっていたんです」
 あやまってはいるが、この場合の「でも」は、
(俺は悪くない、悪いのは電車だ)
 と、電車に責任を転嫁しているのだ。
 すなわち、〝でも〟と〝しかし〟は、「自分が正しい」という前提に立って発する言葉なのである。
 だから、伸びない。
「伸びる」とは、注意され、それを謙虚に受け止め、克服した結果を言うのだ。「自分が正しい」と思い込んでいる限り、成長がないのは自明の理なのである。

 返事は常に「はい」――。注意や批判を謙虚に受け止め、吟味し、しかるのち対処する。「見どころがある」とは、こういう若者のことを言うのだ。

投稿者 mukaidani : 17:16

2006年02月20日

「落ち目の芸能人」と「嘲笑」

 先日のことだ。
 サウナで汗を流していると、かつて一世を風靡した男性タレントが通販番組に出演して、ヨイショの〝サクラ〟をやっていた。

 それを見て、サウナにいた二人連れの中年客が、
「○○のヤツ、まだいたんだ」
「ああまでして、芸能界にしがみついていたいのかね」
 と、嘲笑した。
 まさに、「落ち目になった有名人は蜜の味」と言ったところか。

 だが、考えてみれば、同じ有名人でも、落ち目になって嘲笑されるのは芸能人だけではあるまいか。

 たとえば、小説家。
 世間から忘れられたかつての人気作家が、久しぶりに作品を発表したらどうなるか。
「へぇ、まだ書いてるんだ」
 とは言わない。嘲笑もしない。反対に、待望の書き下ろしと言われるだろう。

 あるいは、スポーツ選手。一流と呼ばれた選手が、二軍、三軍に落とされてなお、必死にプレイしていたらどうなるか。
「あいつ、まだやってんのか」
 とは言わない。嘲笑もしない。反対に、感動すら呼ぶだろう。

 しかるに芸能人だけは、「あいつ、まだいたの?」と嘲笑される。
 なぜか。
 それは、芸能人の多くが、「実力」という絶対的な評価ではなく、ファンという〝数の力〟でスターになったからである。

 芸能人は、いわば祭りの神輿(みこし)なのだ。
 人気が出ると、ここを勘違いする。
 担がれているにもかかわらず、担ぎ手を従えているような気分になる。
 だから落ち目――すなわち、ファンという担ぎ手に放り出されてなお、御輿はそれに気がつかない。嘲笑されて当然だろう。

 だが、ひょっとして、これと同じようなことが、私たちにもあるのではないか?
(いま自分という人間が存在するのは、自分がそうと気がつかないだけで、誰かしら〝担ぎ手〟がいるからではないのか……)
 人間は一人では生きていけないというのは、そういう意味なのかもしれない。サウナで嘲笑を耳にしながら、ふとそんなことを思った次第である。

投稿者 mukaidani : 19:23

2006年02月17日

トリノ五輪と「日の丸」

 一昨日のことだ。
 午後から〝健康ランド〟出かけ、湯船で手足を伸ばしていると、洗い場から口笛が聞こえてきた。
(どこかで聞いたメロディーだな)
 と思いつつ、つられるようにハミングして、愕然とした。
 何と、アメリカ国歌だったのである。

 スポーツ超大国であるアメリカ国歌は各種スポーツ大会でお馴染みだけに、何となく口笛になったのだろう。青年が、身体を洗いながら、口をとがらせて軽快なメロディーを〝演奏〟していた。日本国歌たる「君が代」を口ずさむことはなくても、アメリカ国歌は無意識に口笛になる――これが日本の現状であり、つられてハミングしかけた自分に、私は愕然としたというわけである。

 いま、トリノ五輪の真っ最中である。
 今日現在で、まだ日の丸は揚がっていないが、小中学校の卒業式で「日の丸」と「君が代」に反対する左翼教師たちは、オリンピックや各種ワールドゲームでは黙りを決め込んでいる。 卒業式という〝ローカルな行事〟では、校長相手に国旗掲揚をボイコットするくせに、オリンピックなど〝世界的な行事〟ではシカトである。「日の丸はけしからん」と言えば、世論の袋叩きに合うことを知っているからである。
 だから、知らん顔をする。
 イヤな人間たちではないか。
 
 そして――これは自戒の意味を込めて言うのだが――テレビは昼夜を問わずトリノ五輪を放送し、「頑張れニッポン!」とナショナリズムに訴えることで視聴率を稼ごうとしている。
 それはいい。
 だが、一方で、我らが同胞が北朝鮮に拉致されているのだ。「頑張れニッポン!」のオリンピック中継も意義あることだが、なぜ拉致問題を昼夜を問わず放送しないのだろうか。「頑張れニッポン!」が、なぜ「助け出せ、ニッポン人!」にならないのだろうか。

 日の丸、君が代、オリンピック、サッカー、そして拉致問題……。
「愛国心」とは何だろう。アメリカ国歌の口笛を湯船で耳にしながら考えさせられた。

投稿者 mukaidani : 18:32

2006年02月15日

「無常」という素晴らしさ

 五十代半ばにして、「無常」という言葉が、実感をもって理解できるようになってきた。

 無常とは「常(つね)ならず」いう意味で、サンスクリット語を漢訳した仏教用語である。「諸行無常」という使い方をし、これは「すべてのものは変わっていく」という意味で、形あるものはもちろん、幸せも、不幸も、価値観も、人生観も、人間関係もすべて、時の移ろいと共に変わっていくとする。

 たとえば、この人とは一生つき合っていこうと思うほど仲のよかった人と、ちょっとしたことがキッカケで気持ちが離れたり、虫が好かないと思っていた人間を見直したり、あるいは抱いていた夢が色あせて見えてきたり、くだらないとバカにしていたことが素晴らしく思えてきたり……。恋い焦がれ、周囲の反対を押し切って駆け落ちした恋人が、やがて憎しみ合って別れるというのは、世間でよくある話だ。

 要するに、良くも悪くも、「いまの気持ちは、やがては変わる」ということなのだ。
 だから「無常」とは、幸せはいつまでも続くものではないという戒めであると同時に、いまどんなに苦しくても、あるいは不幸だと絶望していても、それは「変わる」のだという「救い」でもある。

 苦しみの本質は、「苦しいこと」ではなく、「この苦しい状態が一生続くのではないか」という絶望感にある。
 いま苦しくとも、来年になれば解決するとわかっていれば耐えられる。いまお金がなくても、来年になれば大金が入ってくるとわかっていれば辛抱できる。「解決のゴール」が見えないからこそ、苦しむのだ。

 だが「解決のゴール」が見えなくとも、人間の心も、この世の中も「無常」――すなわち「すべては変わっていく」という真理を知っていれば、それは「解決のゴール」が見えているのと同じということになる。

 いまどんな境遇にあろうとも、あわてず、あせらず、淡々と生きていればよい。
 ちょっと元気を出して、ニコニコ笑っていればいい。
 すべては、変わる。
 人間の意志を超えて、すべては変わっていくのだ。

投稿者 mukaidani : 07:21

2006年02月12日

「悩みの正体」を考える

 私は「交渉術」をテーマに何冊か本を書いているが、交渉術においてプロ中のプロは政治家だと思っている。
 たとえば、国会質問。
「小泉総理、北朝鮮に対して、経済制裁を行うのかどうか、お答え願いたい」
「エー、その件に関しましては、エー、現在、関係省庁が協議しておりますので、それを見極めた上で、慎重に対処したいと思っております」
「そうじゃなく、総理として、経済制裁についてどう思っているかを質問しているんです」
「ですから、現在、関係省庁が慎重に協議しておりますので、それを見極めて……」

 政治家は結論を出さない。「鋭意、努力をしていく所存であり」「その件に関しましては、現在、精査中でございまして」「十分に事態を見極めた上で」――決してイエス、ノーでは答えない。

 ズルイのではない。
 そう答弁せざるを得ないのである。
 なぜなら、政治の役割とは、利害の対立という矛盾した社会を〝調整〟することであるからだ。
 つまり、あっちを立てれば、こっちが立たず、というが社会なのだ。

 たとえば「環境VS経済活動」など、その最たるものだろう。それぞれの立場で正当性を主張し、対処を迫るが、政治家としては「環境も大事、経済活動も大事」とニュートラルの立場に立つしかない。実際、どちらも大事なのだが、利害は対立しているのだ。だから「慎重に見極めてムニャムニャ……」と答弁し、問題を先送りすることになる。

 実は、矛盾ということにおいて、「人生」も同じだと思う。「お金は欲しいけど、働くのはイヤ」「一流校に入りたいけど、勉強はしたくない」「愛して欲しいけど、束縛されるのはイヤ」「楽な仕事で、たくさん給料が欲しい」……。私たちは〝利害の対立〟という矛盾を個々人で抱えながら日々を生きている。

 マジメな人は、この矛盾を割り切ろうとする。割り切れないものを割り切ろうとするから無理が生じ、これが〝苦悩〟へと変化していくのである。
 これが悩みの正体である。

 割り切れないものは、割り切る必要はない。政治家の答弁よろしく、「エー、その件につきましては、エー、現在、協議中でございまして……」と、のらりくらりでいい。矛盾を矛盾のまま抱え、結論は先送りすればいいのだ。そのうち、矛盾のほうで勝手に解決してくれる。人生とは、そういうものなのだ。

 

投稿者 mukaidani : 11:51

2006年02月10日

世間の実相は「恫喝と脅迫」

 まもなく拙著『恫喝と脅迫の心理戦術』(日本文芸社/パンドラ新書)が発売になる。
 恫喝と脅迫は、決してワル社会の専売特許ではなく、たとえば「リストラだぞ!」と恫喝する上司、「勉強しないと、私立中学には受かりませんよ!」と脅迫する教育ママ、「そんな練習じゃ、試合に負けるぞ!」と脅す監督……etcと、この世の中は大なり小なり「恫喝と脅迫」で成り立っており、そのノウハウを、恫喝と恐喝の〝専門家〟であるワル社会を例に引きながら解説したのが本書である。一読、即、役に立つと自負する次第。

 恐喝と言えば、私の知人に、街宣車で活動している硬骨漢がいる。私と同世代。ギョーカイではイケイケで知られており、八面六臂の活躍だが、その彼が言う。
「この世の中、どんなきれいごとを言っても、所詮、恐喝で成り立っている。だから、オレもキョーカツするんだ」
 としながら、
「だけど、オレのキョーカツは、〝恐喝〟じゃなく〝今日、勝つ〟という意味なんだ。そこんとこ、間違わないでよ」
 と、不適に笑う。

 言われてみれば、小泉政治もしかり。刺客を放ったり、数の力で法案を通したり、なるほど恫喝と恐喝のようである。

投稿者 mukaidani : 18:04

2006年02月07日

「比較すること」の無意味

 最近、「国内移住」がブームだ。

 定年を迎える団塊の世代や、その予備軍にとって、国内移住は、自分の意志による〝新天地〟の選択であることから、「人生を二度生きる」という思いにつながるのだろう。「人生のリセット」と言い換えてもよい。

 私も昨夜、友人たちと食事をしながら、国内移住の話になった。「海派」と「山派」に別れたが、私はどちらにもくみしなかった。
 と言うのも、瀬戸内海で育った私は、これまで大の「海派」で、だからこそ房総鴨川市の海辺に仕事部屋を借りたのだが、昨年秋、過労で一週間ほど内陸部の入院して、考えが変わった。

 仕事部屋から見る海の景色もいいが、病室から見る森の景色もよかった。 すなわち、海も山もそれぞれによさがあり、要は、それぞれのよさを見つけられるかどうか、それぞれのよさを楽しめるかどうか――ここに人生の要諦があるような気がしたのである。

 海と山は一例だが、人生、どんな境遇にあろうとも、他人と比較し、「どっちが幸せか」を考え、一喜一憂するのは無意味なことかもしれない。幸・不幸の分かれ目は、それに気づくかどうか……。

 移住せずとも、いま自分が立っている場所こそ、実は最高の幸せの場所かもしれない。自戒の意味を込めて、そんなことを昨夜は考えた次第である。

投稿者 mukaidani : 17:47

2006年02月06日

「格差社会」の批判に思う

 友人の子息の結婚式に招かれ、帰宅すると、テレビで「格差社会」について論じていた。

 そういえば、「格差社会」という言葉が連日、メディアをにぎわせている。金持ちと貧乏人の格差がますます広がってきたいま、「小泉政治はこれでいいのか」という論議である。

 貧乏でいいわけがないのは言うまでもないが、私は番組を見ながら、「格差社会」という批判に何となく違和感を覚えた。したり顔で「格差社会」を論じているが、ついこの間まで、IT長者やマネーゲームの〝勝ち組〟こそ、ジャパン・ドリームの体現者として囃し立て、羨望したのは、メディアであり、世間ではなかったか。
 それが一転、批判を始めた。
 ここに私は、違和感を覚える。
「格差社会」という言葉が急速にクローズアップされてきたのは、ホリエモン逮捕以後である。勝ち組に対する「羨望」が、ホリエモン逮捕によって「嫉妬」に変わり、世間の嫉妬心をメディアは「格差社会」という言葉で煽り、迎合しているのではないか――私にはそう見えるのである。

 競争とは、良くも悪くも「格差」を競うものであり、それが資本主義社会だ。
 誰かが笑えば、誰かが泣く。
 悲しいかな、それが現実なのである。

 そして、この現実を前に、私たちはどういう人生を選択するか――。拝金主義に走るのか、金品より心の平静を優先するのか、大きな幸せか、小さな幸せか、貧しくとも暖かい家族の団らんか……。
 どう生きるかの権利は、私たち一人ひとりが持っている。「格差社会」に不満を言う前に、まずこのことを肝に銘じることこそ大事だと、私は思うのである。
 

投稿者 mukaidani : 02:50

2006年02月03日

人間関係の要諦

 昨日、月刊『CIRCUS』の取材を受けた。
 取材テーマは「女子社員の管理術」といった内容だった。

 また、先日は『週刊女性』の取材を受けたが、こちらは「ちょいワル女の交渉術」といったテーマで、カレにおねだりする方法や、夫、姑の操縦法について話をした。

 両誌ともテーマは「人間関係術」だ。

 人間関係は、生きている限り、私たちについて廻るものであり、喜びも苦悩も人間関係から発する。だから「人間関係術」は、永遠のテーマということになる。

 私は、人間関係は、精神的な意味を含めて、次の3つのパターンしかないと思っている。
 ①相手の「上位」に立つ。
 ②相手と「同位」に立つ。
 ③相手の「下位」に立つ。

 そして人間関係でモメるのは、双方が「同位」に立った場合である。

 高さが違えば、意見が違ってもすれ違う。
 つまり白黒をつけなくてもすむ。
 ところが、同じ高さに立っていれば、真正面からぶつかるのは必然だ。ぶつかれば、どっちが正しいかを争うことになる。だから双方とも引かず、論理に理屈に詭弁を弄し、いかに自分が正しくて相手が間違っているかを主張する。結果、人間関係に無用のヒビが入るというわけだ。

 以上のことから、人間関係術の要諦は、相手の「上位」に立ち、時に「下位」に降り、「同位」に立つことを避けることだと、私は思っている。この「上位」と「下位」の振幅によって、相手は翻弄される。
「相手を手のひらで転がす」
 とは、こういうことを言うのだ。

投稿者 mukaidani : 13:32