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2006年01月31日

「信じる」とは「問わないこと」

 最近、思うところあって「信用」について考えている。
「信用は人生の財産」と言われるが、言い換えれば、それだけ人を信用するのは難しいということなのだ。

 たとえば、前々から友人と約束をしていて、当日、断りの電話が来たとする。
「悪いけど、急な用事ができて行けなくなったんだ」
 これに対して、あなたは何と返事をするだろうか。
「そうか、わかった。気にしなくていいよ」
 と返事すれば、友人を信用していることになる。用事の中身を問うこともなければ、
(何だ、今日になって)
 と腹立たしくもならない。当日になってキャンセルしてくるくらいだから、のっぴきならない用事なのだと了解する。
 これが信頼関係。

 すなわち、「信用する」とは「問わないこと」であり、「信用される」とは「問われないこと」なのである。人格に対する納得と言ってもいいだろう。

 これに対して、
「急な用事って何だい?」
「納品した機械がトラブルを起こしたんだ」
「そうか、わかった」
 理由を聞いて了解するのは、「理屈」に納得したのであって、相手の「人格」に納得したわけではない。
 裏を返せば――そうと意識していなくても――友人を信用していないことになる。

 太陽は、東から出て西に沈む。
 これが自然であり、私たちは「太陽は東から出るもの」と信じている。
 これに対して、
「どうして太陽は東から出るんだ?」
 と問い、
「地球は自転しながら太陽のまわりを廻っていて……」
 と説明されて、「なるほど」と納得するのは「理解」であって、「信じたこと」ではないのである。
 信じるとは、理屈を超越した先にあるものなのだ。
 愛もしかり。
 憎しみには理由があるが、愛に理屈はない。もし愛に理屈があるとすれば、それは打算と言うのだ。

投稿者 mukaidani : 15:15

2006年01月28日

「道は目前にあり」について考える

 週末から那覇市に滞在している。
 
 先週はエアコンをつける陽気だった沖縄も、今週は一転、肌寒い日が続いている。

 私が主催する空手会派「昇空館」は、古武道において、沖縄伝統古武道保存会「文武館」(沖縄県那覇市鳥堀町)の関東支部でもあり、こうして毎月沖縄に出向いて稽古をしている。

 早いもので、通い始めて5年が過ぎたが、沖縄滞在中は、文武館道場で稽古をしているか、ホテルに籠もって原稿を書いているか、友人や道場生と飲んでいるかのいずれかで、いまもって海に入ったことは一度もない。

 今夜は、このホームページ《道は目前にあり》の題字を書いてくれた書家の玉城芳岳先生と一献まじえながら、あれこれ話をした。

 話のテーマは人生論が中心だったが、その中で、《道は目前にあり》の「目前」とはいったい何かについて話し合った。

 玉城先生は、
「目前とは、後ろも横も前も、いま自分が見つめている方向である」
 といった意味のことをおっしゃった。

「目前」というと、将来とか、自分が進む方向のことを考えがちだが、そうではなく、いま見ている方向が「目前」であり、どこを見ているかを以て人生観とする、というわけだ。

 玉城先生は私より若く、まだ四十代だが、書家の語る人生論はなかなか人を惹きつけるものがある。

「人の行く 裏に道あり 花の山」

 私の好きな言葉だ。
 人(世間)と反対のことをせよ、という意味に解釈されているが、私はそうではなく、風潮や世俗の価値観に流されるな、という戒めと受け止めている。
 歩く道――すなわち自分にとって「目前」とは何か、という問いかけである。

 これまで自分はどこを向いて歩いてきたのか、これからどこへ向いて歩いて行こうとしているのか――。模索しつつ、「道は目前にあり」とつぶやく次第である。

 

投稿者 mukaidani : 23:14

2006年01月26日

元気づけるなら「励まし」より「同情」

 みのもんた氏が、脊柱管狭窄症を手術で克服し、以前に増してテレビで活躍している。
 ご同慶の至りである。
 
 なぜなら、私も脊柱管狭窄症であるからだ。

 発症は一年前。劇団四季の『ライオンキング』を見に行った帰途、ヒザが痛くなって歩けなくなり、カミさんの肩につかまって休み休み、牛の歩みで駐車場にたどり着いたという次第。

 診察の結果、脊柱管狭窄によって神経が圧迫され、それが痛みとなってヒザに出てきているということだった。ちょうど琉球古武術の稽古で無理をした時期でもあり、投げ技で床に飛び、背中を酷使したのが悪かったのかもしれない。

 背骨に神経根ブロック注射を3回して、何とか痛みを抑えているが、昨年は脊柱管狭窄症と言っても、周囲は「……?」。
 それが、みの氏のおかげ(?)で、「ああ、みのもんたが手術したやつね」と、話が通りやすくなった。

 ただし、みの氏が術後、元気なものだから、「あっ、そう。手術したら?」と私の周囲は気軽に口にするようになった。

「背骨だぜ。ヤバイよ」
 私が言うと、
「だけど、みのもんた、元気じゃん」
 と取り合わない。

 このとき、私は思った。
 励ますつもりで言ってくれているのだろうが、病人としては、「大丈夫だよ」と言われたのでは面白くないのだ。
「大丈夫? ねっ、大丈夫?」
 と心配をして欲しいのだ。
「励まし」より「同情」して欲しいである。

 病人だけではない。
 苦労している人も、不幸のどん底にある人も、同じではないか。
「大丈夫だよ」
 と励まされれば、
「あんたは気安く言うけど、大変なんだから」
 と反発心が起こる。
「つらいだろうね」
 と同情されれば、
「そんなことない。頑張るよ」
 と笑顔を見せる。

 ここなのだ。

 私たちは、よかれと思って励ますが、当事者はノーサンキュー。善意の誤解であり、私たちはそうと知らず、相手を傷つけているのではないか。

「励まし」より「同情」――。 みのもんた氏をテレビで見ながら、同病の私は、そんなことを思った次第である。

投稿者 mukaidani : 16:35

2006年01月25日

ホリエモン逮捕で沈黙する〝ヒルズなお友達〟

 今朝もザッピングしながら〝ホリエモン番組〟を観た。

 不思議なことが一つある。

 ライブドアに家宅捜索が入って10日が経ったと言うのに、〝ヒルズなお友達〟の誰もが沈黙を守っていることである。

 元週刊誌記者だった私の経験から言えば、メディアは、コメントを求めてモーレツな取材攻勢をかけているはずだが、〝ヒルズなお友達〟は――私が知る限り――みなさんダンマリを決め込んでいる。IT関連のあの人、ファンド関連のあの人と、これまでタレント顔負けの露出ぶりだったことを思えば、今回の沈黙は何とも不思議なことではないか。

 では、なぜ〝ヒルズなお友達〟は沈黙しているのか。

 現時点――すなわち〝ホリエモン事件〟の行方が確定しない現時点においては、コメントのしようがないからである。

「ボクは堀江さんを信じています」
 とコメントすれば、同類に思われるかもしれないし、「ウソつけ!」のバッシングは必至である。

 さりとて、
「やっぱりね。ヤバイことやってんじゃないかと思ってたんだ」
 と世間に迎合したコメントをすれば、「てめえ、ヤバイ野郎と知ってて、一緒に酒飲んでハシャいでいたのか」と、これまたバッシングである。
 だから、現時点では沈黙を守るのがベストということになる。

 実は、このヒナ型が、教師の犯罪である。
 教師が性犯罪などを起こすと、校長は決まって「まさか」「いまだに信じられません」と絶句して見せる。
 前々から要注意教師と認識していても、
「やっぱりね。おかしいと思っていたんです」
 と正直に言えば、
「おかしいと思っていながら、なぜ防止策を講じなかったんだ」
 と責任を追及される。
 だから、「まさか!」と驚いて見せるしかないというわけである。

 以上のことから、〝ヒルズなお友達〟が、いつホリエモンについてメディアに語るか。何という言い方をするのか。〝世渡り術〟の好例として、私は登場の仕方を心待ちにしている次第である。

投稿者 mukaidani : 11:17

2006年01月23日

「不足」をもって「幸い」とすべし

 昨日、仕事部屋に借りている鴨川市のマンションにやってきた。

 いつもだと、自宅の千葉県佐倉市から鴨川市まで、一般道で約2時間30分ほどだが、昨日は雪が残っていたので3時間以上かかった。

 それでも、初めて経験するスタッドレスタイヤが雪を踏みつけるのがスリリングで運転は楽しかったが、新潟地方の雪害にふと思いを馳せ、考えさせられた。

 雪も少量であれば楽しく、過ぎれば深刻な事態をもたらす。
 雪だけでなく、雨もしかり。適量の雨は生活に不可欠だが、過ぎれば大きな被害をもたらす。
 いや、雪や雨だけでなく、酒だって過ぎれば二日酔いで苦しむ。
 仕事も、過重になれば心身を壊す。

 すなわち何事も、足りないのは困るが、過ぎればもっと困るということになる。

 このことを喝破したのが徳川家康で、
 「及ばざるは 過ぎたるより 勝れり」
 と遺訓の中で諭した。

 ならば、「金銭」はどうだろうか。

 金銭もまた、過ぎれば困ることになるのか。不幸になるのか。及ばざるほうが、過ぎたるよりいいのか。

 金銭おいて「過ぎたる経験」がない私は何とも言えないが、天下を手中にし、富と権勢を誇った家康して、「及ばざるは 過ぎたるより 勝れり」と言わしめたことを思えば、金銭もまた同様ということなのだろう。

「幸せは金で買える」と豪語した拝金主義者に司直の手が入り、連日世間をにぎわせている。ホリエ某が失墜した姿を見て、家康は何と言うだろう。
 鴨川市まで運転しながら、そんなことを考えた。

投稿者 mukaidani : 10:57

2006年01月20日

議論で相手をやりこめる〝噛みつき法〟

 議論して相手をやりこめる方法は、「共通認識とする価値観」に噛みつくことである。

 たとえば、ライブドアの堀江貴文社長が「近鉄バッファロー」の買収に乗り出したときである。
「ライブドアという無名企業に球団を持たせていいのか」
 といった球団オーナーたちの批判に対して、堀江社長は、
「無名企業が球団を持って、なぜいけないんですか」
 と噛みついた。

 これには、私たちも「なるほど」である。

 無名企業が球団を所有してはいけないという明確な理由があるわけではない。私たちの「共通認識」として、プロ野球球団は、社会的立場を有する企業が持つものと思っていたに過ぎないわけで、そこに対して「なぜ、いけないのか」と噛みつけば、「そりゃ、そうだ」となるのである。

 だが実は、この「噛みつき」は巧妙なレトリックなのだ。

 たとえば、次ぎのような「噛みつき」に対して、あなたは何と答えるだろうか。

「どうして年寄りを大事にしなくちゃいけないんですか? ただ単に年を食っているだけじゃないですか」
「同じ運賃を払っているんですよ。どうしてシルバーシートに座っちゃいけないんですか」
「どうして近隣の人と仲良くしなくちゃならないんですか? 個人の勝手でしょう」
「防犯パトロール? 面倒なこと言わないでくださいよ。やりたい人がやればいいんで、私は関係ないです」

 これらはみな「噛みつき」であり、このあとに、
「それって、法律で決まっているんですか?」
 と居直れば、議論は勝ちとなる。

 これが「共通認識とする価値観」に噛みつくことなのだ。

 議論には勝てるが、イヤな奴ということになる。
 イヤな奴と言われて平然としていられるのは、ツラの皮が厚いか、人も羨む成金だけなのである。
 

   

投稿者 mukaidani : 12:10

2006年01月17日

ライブドアへの強制捜査に思う

 周知のように、ライブドアに東京地検特捜部が強制捜査に入った。
 出る杭は打たれ、いまやマスコミの大バッシンングである。
 堀江貴文社長を擁護するわけではないが、「時代の寵児」とヨイショし、バラエティー番組にまで引っ張り出したのは誰だったかを忘れてはなるまい。マスコミの節操のなさに、いまさらながらあきれるばかりである。

 それはさておき、私はホリエモン氏が登場した当時、なぜ彼の「拝金主義」が私の神経を逆撫でするのか考えたことがある。

 一つには、嫉妬と羨望がある。若くして億万長者。口には出さないが、「うらやましいな」である。
 二つ目に、彼の主張を認めざるを得ないこと。誰だってお金は欲しいし、これは厳然たる事実である。
 では、ホリエモン氏の「拝金主義」を認めながら、なぜ私は神経が逆撫でされるのか。

 それは、私たち日本人は、「金品の力」で何かをなすことを卑しいものとしてきたからではないか。「お金で地位を手に入れる」「お金で名誉を手に入れる」「お金で有名校へ入る」「お金で女性をものにする」……。これらはすべて卑しいこととして、蔑んできた。
 これが日本人のメンタリティーなのである。

 だが、ホリエモン氏の考え方でいけば、「お金も実力の内。地位をお金で買ってどこが悪い」という理屈になる。

「メンタリティー」VS「理屈」。

 だから、神経が逆撫でされたのである。

 なるほどホリエモン氏が豪語するように、「人の心はお金で買える」かもしれない。「札束で頬を張ってなぜ悪い。法律違反か?」と問われれば、沈黙するしかない。

 だが、人間社会は法律に違反さえしなければ何をやっても許されるのだろうか。

 私は「法律」の前に「倫理」があると考える。

「人間としての生き方」があると考える。

 自戒を込めて、そういう生き方をしたいと願う次第である。

投稿者 mukaidani : 16:38

2006年01月13日

「災い転じて福となす」のレトリック

 先夜、知人に連れられて初めて行った寿司屋でのことだ。
「白身ちょうだい」
 板サンに言うと、
「ウーン、今日の白身はちょっとよくないんですよ」
 と渋ったのである。

 そのとき私は、どう感じたか。
(何だ、ちゃんと仕入れろよな)
 とは思わない。
(この板サン、正直だな)
 と思った。
 信用できると思った。
 馴染みにするなら、こういう店でなくちゃ――そう思ったのである。

 だが、帰宅して湯船に浸かりながら、ふと考えた。
 今日のネタがよくないというのは、仕入れた板サンに責任がある。板サンが悪いのだ。仕入れたことが間違いではないか。

 しかるに板サンは、「今日の白身はよくないんですよね」と、さもネタに責任があるかのようなニュアンスを込めつつ〝正直〟に告げ、それによって私の「信用」を得た。

 板サンにそういう計算があったとは思わないが、実に巧妙なレトリックになっていたのである。

 すなわちネガティブなことは、隠すのではなく、積極的に用いることによってポジティブに転じるということなのだ。

 ここに多くの人は気づかず、ネガティブなことを隠そうとする。だからバレたときに、何倍ものペナルティーになって返ってくるのだ。

 ネガティブなことは、積極的に活用するのだ。
 
「ごめん。オレ、いままでキミにウソついてたんだ」――タイミングを見て自分から告白し、誠意をもってあやまれば、いっときの修羅場はあっても、
(この人、正直)
 ということになる。
 それが人間の心理だ。
 結果、騙していたことが帳消しになるだけでなく、信用をも得ることになるのだ。

 「災い転じて福となす」という諺の真の意味は、このレトリックのことを言うのではないか。私は密かにそう思っているのである。

 

投稿者 mukaidani : 15:21

2006年01月11日

「誉められたい」「認められたい」という欲求について思う

 昨日、1月11日から我が昇空館本部道場の稽古が始った。道場が手狭なこともあり、夕方5時から10時まで、幼児〜一般とクラス別に4コマの稽古だ。

 道場内に私の仕事部屋があり、4時30分に執筆を切り上げて幼児たちがやって来るのを待つ。「オッス!」「オッス!」と、舌足らずな声で元気よく道場に入ってくるが、二週間の稽古休みを経て正月明けに見る幼児たちは、ひと皮剥けて見える。きっと「成長の密度」が違うのだろう。そんな彼らを見るのが、毎年正月明けの、私の楽しみの一つでもある。

 幼児クラスは現在20名ほどいるが、私は彼らに「上手になったと思う人」という質問をよくする。すると全員が「ハーイ!」と手を挙げる。「頑張って稽古している人」と質問すると、これまた「ハーイ!」だ。空手のカタチにさえなっていない三歳児も、ふざけてばかりのイタズラ坊やも手を挙げる。
 本気でそう思っているのだ。
 このことに、私はいつも考えさせられる。

 たぶん、そう返事をすれば「誉められる」ということが子供心にわかっているのだろうが、一方で、「認められたい」という欲求を持っていることもまた事実なのだ。幼児だと思ってタカをくくってはいけない。このことは指導していて痛切に感じることだ。

 そこで、彼らが本気で上達していると思っているなら、頑張って稽古していると思うなら——客観評価は別として——技術や稽古態度が悪いと言って叱りつつけるのは、「指導法として間違いではないのか」ということに昨年疑問を持った。
 そして、考えた末、叱るのではなく、もっと上達するように、もっと頑張れるようにと——短所には目をつむり——ポジティブに指導すべきだという結論に至ったのである。

 だが、「誉められたい」「認められたい」という欲求は幼児だけだろうか。私たち大人もまた、誉められたくて、認められたくて、実力以上に背伸びしてはいないだろうか。最近、そのことがとても気になっている。「ハーイ!」「ハーイ!」と手を挙げる幼児たちの姿は、自分の姿を投影しているように、私の目には映るのである。

投稿者 mukaidani : 12:09

2006年01月09日

「評判」の正体

 人間、誰しも評判は気になるものだ。
 だが評判というやつは、職種や立場によって、持つ意味が大きく変わってくることをご存じだろうか。

 専門知識が必要とされる分野においては、一度、レッテルを貼られると決して覆えることはない。
 反対に、誰もが一家言もつような分野においては、レッテルは何度でも貼り替えることができる。
 これが「評判」の正体である。

例をあげよう。たとえば医者。「あそこはヤブだ」と評判が立った場合を考えてみるとわかる。「ヤブだ」という悪評に対して、患者は「いや、違う」とは言えない。
 なぜなら、医療技術について、ジャッジするだけの知識を患者は持たないからだ。「あそこの医者はヤブだって言うけど、それは違う。あのメス捌きを見れば超一流だね」とは言えないのだ。だから、「ヤブだ」という風評聞けば、なんとなくヤブだと納得してしまうのである。

 では、政治はどうか。小泉首相がいい例だ。支持率は上がったり下がったりの乱高下。「小泉は郵政民営化にこだわりすぎだ」と批判したかと思えば一転、「とうとう郵政民営化をやり遂げたな。小泉はたいしたもんじゃないか」とヨイショされる。

 あるいは、ホリエモン氏。評判は上がったり下がったりだが、これから着地にちょっと気を配れば、「みんなはいろいろ言うけど、あの人、ホントはいい人なんだ」ということで評判をまとめることもできる。
 誰もが一家言もつような分野においては、人気や評価は容易にひっくり返すことができるのだ。

 以上のことから、もし、あなたの仕事や立場が、専門知識を必要とする分野であれば、評判には細心の注意を払うべきだ。一度、悪評が立てば、取り返しのつかないことになる。
 反対に、誰もが一家言もつような分野であれば、どんな悪評を立てられても気にすることはない。それは小泉首相のように、時の推移のなかで容易にひっくり返せるのである。

「評判」とは、そういうものなのだ。

投稿者 mukaidani : 18:58

2006年01月01日

「正月」と「人生のリセット」

 謹賀新年——と書いておいてケチをつけるのも失礼だが、なぜ正月がめでたいのか、疑問に思ったことはないだろうか。

 ヘソ曲がりの私は、ずっとそう思ってきた。
 12月31日が一夜明けたからといって、何が変わるわけでもない。昨日と同じように太陽は東から出て、西へと沈んでいく。「人生」というしがらみは今日も両肩にずっしりで、新年を迎えたからといって軽くなるわけでもない。正月だからという理由だけで「おめでとう」はノーテンキ過ぎる——そう思っていたのだ。
 正月は「年神様を迎える時節」であると承知してなお、ヘソを曲げてきたのである。

 だが、今年は違う。
「正月」の意味と効用に気がついたからだ。
 たとえば禁酒、禁煙、ジョギングなど、誓いや決意を新たにするのは「正月」が多い。年が改まって区切りがいいからだ。つまり「正月」は人生をリセットする節目でもあるということなのだ。「よし、今年から!」と決意することで、去年までのことは一切チャラ。習字と同じで、失敗したら丸めてクチャクチャとクズ籠へ捨て、新しい紙を広げるというわけである。「新しい私よ、コンニチハ」——それが正月なのだ。

 しかるに私は、「正月のどこがめでたいのだ」とヘソを曲げてきた。新しい自分になれるチャンスを自ら放棄してきたのである。だから、いまもこうして人生のしがらみにフーフー言っているという次第。

 だから、今年は、いろんな時節をとらえて人生を積極的にリセットすることに決めた。一度うまくいかなければ、何度でもリセットすればよい。節分、お彼岸、年度始まり、端午の節句……。書き損じた人生は、ポイとクズ籠へ放り込めばいいのだ。

投稿者 mukaidani : 14:05