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2017年10月21日

「コメント」と「発想」

 朝起きると、ネットでニュースをチェックする。
 メディアからコメントを求められることがあるからだ。

 ちょっとした出来事が、そのうち事件として大きく発展したりすることもあるので、一応、目を通しておかなければ、
「どう思いますか?」
「何でしたっけ?」
 ということになりかねない。

 私も元週刊誌記者なのでよくわかるが、〆切に追われながら電話でコメントを取っていく。

 相手がいまどういう状況にあるか、構ってはいられない。

 逆を言えば、こっちの状況にお構いなしに電話がかかってくるということでもある。

 道路を渡るため、信号待ちをしているところに電話がかかってきて。
「コメントをいただきたいのですが」
 いきなり言われて、
「それはですな」
 と、瞬時に応じなければならない。

 手短に、しかしコメントにしやすいことを話す。

 私が記者時代そうだったが、グタグダと、まわりくどく能書きを言われるとイラつく。
 それがわかっているだけに、手短でユニークなコメントを心がけるという次第。

 しかし、こういう思考を日常的にやっていると、瞬時にいろんなことに気づくようになる。

 数日前、某メディアから、モノマネ芸人である清水アキラ氏の息子の一件でコメントを求められたときのことだ。

「親が謝罪するということについて、どう思うか」
 と問われ、咄嗟に「墓離れ」ということが脳裡をよぎった。

「家制度」という組織形態が崩壊しつつあり、それが「墓離れ」の一因とされるが、ならば、
「成人した子供の不始末に対して親が謝罪する」
 というのは、「家制度の崩壊」と逆行しているのではないか?

 むろん、人気商売なので、親として謝罪しておかなければならないという思惑もあるだろうが、「家制度」は本当に崩壊しつつあるのか。
 それが「墓離れの一因」なのか、ということを考えさせられたのだ。

 頭の隅でそんなことを考えつつも、コメントは掲載しやすいように別のことを手短に話したが、コメントは求められずとも、「コメントする」という発想でニュースをチェックするのは、「発想」の訓練にとても役立つと、このとき改めて思った次第である。

投稿者 mukaidani : 13:14

2017年10月17日

スズメ百まで

 年齢のせいか、それとも性格的なものか、これまでルーチン的に継続してきたことに区切りをつけたくなった。

 たとえば毎年、お歳暮を頂戴する年長者がいらして、私もお返しとしてお贈りする。
 盆暮れの挨拶は感謝を表するということにおいて、大切だと思っている。

 ところが、何事も急ハンドルを切る私は、
(やめようかな)
 と突如、思ってしまうのだ。

 ある集まりで、毎年、贈っていただいている年長者に、そのことを告げた。
「もう、やめましょうか」
 ざっくばらんが私の持ち味だが、いきなり切り出された年長者は驚いていた。

 こういうことを最近、何回が繰り返している。

 現状維持というのが、どうも性に合わないらしく、人生という湖に小石を投じたくなるのだ。

 どんな波紋が広がっていくか、ワクワクしながら見ている。

 むろん、いい波紋ばかりでなく、波紋が「波乱」になってしまうことも少なくない。

 だが、波紋も波乱もない人生は、退屈なだけだ。

「治にいて乱を忘れず」という言葉があるが、「治にいては乱を起こす」という生き方でありたいと思っている。

 だから愚妻を筆頭に、周囲の人たちは振りまわされ、迷惑を蒙るのだ。

 そのことはわかってはいるが、雀が百まで踊りを忘れないように、私の性格は死ぬまで直るまい。

投稿者 mukaidani : 14:34